|
ブラザレンは、純粋性と一致性を求めて生まれた集団だというお話をしました。
一致性を求めるのに、なぜ、超教派的な活動がやりにくいのか、それに対して冷淡なのか、という話があります。また、なぜ、他のキリスト教のプロテスタント系のグループに対して攻撃的なのか、というお話をしないとなりません。
実は、このあたりの聖書理解(神学)概念の成立に当たって、ダービーとその同調者(たとえば、Hargroveとか、そういえば、彼も国教会の元聖職者)が果たした役割は小さくありません。
彼らは、国教会であれ、国教会以外のさまざまな教派であれ、そのうちには、純粋ではない信者が混じっている(ちょうど毒麦のたとえのように)、と思い込んだようです(実際にはその嫌いはなくはなかったようですが)。
であるとすれば、毒麦とそうでないものが分けられなければ成らないので、毒麦でない信者は、現在所属している毒麦を含む教会を捨てて、集会に結集し、一致すべきであるということを主張していきます。
で、実は、この概念は、ブラザレンの初期の時代のリーダーの預言への異様とも言える傾倒と深いつながりがあります。これは、近日中に触れて生きたいと思います。
つまり、ブラザレンの初期の段階のリーダーたちは、純粋でない教会にあるべき姿としてのキリスト信者の一致を示す活動として、集会を形作っていったわけです。ですから、その一部に、その論理をさらに奨め、本物の信者だけが、本物の信者として、集会において一致すべきだ、という概念にとらわれ、自らその中に追い込んでしまった部分があります。
特にこの傾向は、連接型(閉鎖型)ブラザレンにきわめて強く、このグループでは、純粋であろうとするあまり、純粋性の点で同調関係にある閉鎖型ブラザレンのみを正当とし、それ以外の独立型(開放型)ブラザレンとは、一線を画すことになります。
したがって、自らの行動が正しいと思っている(あるいは思い込んでいて、自らを批判的に捉えることをしない)ブラザレンのリーダーとその後継者の一部には、他のプロテスタント及びカトリックのすべてのキリスト教のグループを切り捨て、純粋なものの集まりとして一致しようとしたために、他のキリスト信徒のグループと協調ができなくなっていった側面があります。
現在でも、自分たち(ブラザレン)以外の他のキリスト教会は間違っている、問題がある、という言明が時々ブラザレンの人の間で言われることがありますが、大抵こういう人々は、他の教会の礼拝に参加されたことがない方が多いですし、ある教派のある人物のある特定の場面での発言や行動を切り取って、自分たちの考え方と違うだけでしかないのに、他の教会は間違っている、問題があるという発言(ブラザレンがどんだけ偉いねん、と私は素朴に思いますが)をする人が少なくありません。こういう人物にならないよう、私自身は気をつけていますが、ブラザレンの中には、こういう発言をするかたがたが、確かにおられます。各地の集会の責任ある立場や、お話しをされる立場にあるかたでも、このようなご発言が時にあるので、こういう発言を聞くたびに、私自身は非常に残念に思います。
|