ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレン

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ブラザレン自身、庶民性を持ちながら、そのなかでも意識が高いと思う啓蒙思想的な背景の文化のなかでの、原始キリスト教会を理想像とした教会刷新運動でしたから、質実剛健で、質素なライフスタイルを大切にしました。聖書に基づき、聖書だけに従う、ということを重視してきました。

このあり方は大切だと思いますが、聖書に書いていないものにどう対応するのか、というところが結構難しいところだとおもいます。もちろん、聖書の中には、ファミコンも、インターネット、テレビも、ラジオも出てきません。これらにどう対応していくのか、きわめて現代的なたいおうをもとめられることとなります。

ひとつのあり方は、アーミッシュのように現代の社会に背を向け、山の上の町として、孤立的に生きていくこと、一種の修道院的な生き方をとることもひとつのあり方でしょう。ただ、これは、連接型ブラザレン(エクスクルーシブブラザレンともいう)がこれまでとってきて、あまり望ましい方向に向かなかったことを考えると適切な方法だとはいえないと思います。

聖書の基本的な理解を堅持しながら、さまざまの新しく出てきたさまざまな文化や社会のありかたに対応しながら、いろんな人たちと向き合っていくこと、柔軟にいろんな人を受け入れて行くあり方を今後さらに進めていってもらえれば、と思います。これが言うほど簡単じゃないんで、悩ましいところですが。

ここのところ、石濱シナヨさんの記事ばかりが続いたので、本編がおろそかになってしまいました。ぼちぼち復帰という事で。

ブラザレン自身、伝道のためのハイテク利用は早くから取り組んできましたが、ライフスタイル自体は結構伝統的であることが続いてきました。

私が、小学生くらいの頃、テレビで娯楽番組を見ることは、信者は避けるべき、という雰囲気が漂っていました。高校生くらいの頃には、信者が映画館で、映画を見ることはいかがなものか、という雰囲気も漂っていたことも確かです。

大学生になって、映画館に始めて一人で行ったとき、なんかいけないことをしているような後ろめたい気持ちになったことをいまだに覚えています。今ではそんなことは、私に関してはほとんどありません。テレビで娯楽番組を見るし、映画も結構、私は、見に行っています。

まぁ、もちろん、全ての映画や娯楽番組が見てよかった、というようなものではないのも確かです。特に、吹き替え版で見ないで、英語でスラングがわかるようになると、聞くに堪えない英語の連続、ということもあるので、その辺が困りモンです。また、スリラーなどのデモニッシュな表現や、暴力的な表現、性的な表現があまりに当たり前だったりするので、その辺もあるので、避けられてきたのだろうと思います。

Nozzomさんに紹介していただいたSon of Rambow というイギリスの映画には、映画を見ることが許されていない、1980年代の連接型ブラザレンまたは閉鎖型ブラザレン(エクスクルーシブ・ブラザレン)の家庭の子供がランボーを見て、ハチャメチャするお話のように、映画を避けることは、日本のブラザレンでも当たり前のように言われていたような気がします。

ちなみに、Nozzomさんのブラザレン研究のサイト(http://www.geocities.jp/nozzon0602/index.htm)は、日本で最も早くブラザレンに関する情報提供サイトとして運営されておられるもので、大変参考になります。ご参考までに。

テレビの娯楽番組でも、ドリフターズの番組にしても、ひょうきん族にしても、結構キワモノ的な表現があったので、避けるような方向性が志向されたのだろうと思います。

アメリカの映画の場合、PGの区分けがかなり細かく別れているので、それを参考にできるのですが、日本では、映倫の審査でその辺がいい加減なので、見てみないとわからない、ということはたくさんあります。

その意味で、映画も見ない、娯楽番組も見ない、見るのは某国営放送だけ、というスタイルは、世間的な標準からすれば、すごくまじめで、堅苦しく、気難しい人たちに見える、ということはあるのかもしれません。

とはいえ、全ての信者が映画も見ず、娯楽番組も見ず、堅苦しい生活を守っているわけではありません。でも、一部には、純朴に、朴訥とした信仰のスタイルをお持ちの方々も居られるとは存じます。それはそれで、重要なことですし、そういう純朴な雰囲気がお好きな方も世間には一定数おられますので、そのあり方はあり方で重要だと思います。

私は、どちらかというと、ゆるく、より大勢おられる一般の普通の人たちの視線を大切にし、その人たちに訴えかける信仰のスタイルを目指したいとは、思っています。

自動車を所有すること(つまりマイカーとして自動車を所有すること)は、昭和40年代の日本のブラザレンの集会では一種の贅沢と思われたのか、かなり厳しい目を向けられた経験をお持ちの方もおられたようです。

まぁ、自家用車を持っていたのは、宣教師の方と交通手段がない地方部の兄弟姉妹とが中心であり、都市部の兄弟でマイカーを持つことに関しては、かなり抵抗感があったようです。自家用車を持つような余裕があるのなら、献金を、ということなのかもしれませんが、なんかそれも違うんだけどなぁ、と思います。

今では、自動車の価格が安くなったこともあり、皆さんの普通の交通手段になっているので、自動車を持つことでどうのこうのということはまったく話の端にも載りませんが、当時は色々とあった教会(集会)もないわけではないようです。

時代や所属するコミュニティ、社会が変われば、世的、とされる標準も異なるので、世的と判定される基準って、普遍的なものではないのだから、神様と自分との関係の中で判断することの重要性と、他人のさまざまな信仰スタイルを受け入れる寛容さが重要なのかな、と思います。

 ブラザレン自体、1840年代から1860年代にかけて出発しました。現在でもある程度そうですが、イギリスは基本的に階級社会と言ってよいと思います。イギリスが階級社会とその中の社会階層意識を象徴的に示す映画がアンソニー・ホプキンスが執事役で出ていた「日の名残り The Remains of the Day」ですが、この映画を見たときに、イギリスではここまで階級ごとで人間の意識が違うのか、という感じだったように思います。イギリスほどではないですが、アメリカでも、かなり階級意識はあるように思います。その辺が、民主党の大統領候補のオバマ候補やクリントン(ビルのほうではなくて、ヒラリーのほう)候補に匂うので、嫌われることがあるような印象を受けています。ビル・クリントンは、学歴はエリートですがやることがどっかおとぼけで庶民的なので、庶民に受けていたように思います。

 さて、この社会階層意識が厳しい英国における一種の教会民主化運動、庶民が中心になった教会革新運動だったわけですから、基本的に庶民の在り方がライフスタイルの一種の標準形、理想形となるわけです。つまり、質実剛健がブラザレンの理想の生活スタイルになっていきます。これはある意味で、「空の鳥を見なさい、倉を建てるわけでなく・・・」や収穫が多く倉を建てた金持ちが「さぁ、飲んで、食べて楽しめ」といった直後、命が無くなると宣言された事例、ラザロと金持のお話など、いくつかの聖書の内容とそこから導かれる理解と近いわけです。また、聖書全体がそうだとは言えませんが、聖書に出てくるストーリ、特にイエスの表現内容はかなり金持ちに否定的な側面をもったものが少なくありません。もちろん、お金の問題はクリスチャンにとって、問題を起こしやすい原因の一つでもあるので、それも金持ちやぜいたくな生活スタイルに対して否定的な見解を生むことになります。お金に心を奪われて神を忘れる生活は論外ですが、現代の資本主義社会でお金なしの生活も考えられないわけで、このあたりのバランスが厳しいところです。

その意味で、貧しいかどうかは別として、質実であることというライフスタイルがブラザレンでは、重視(あるいは理想化)された場合が少なくないようです。

ブラザレンの定義

ブラザレンの定義、って実は非常に難しかったりします。

というのは、
■自分たちがまずもってブラザレンだと思っていない。あるいは、そう呼ばれていることを知らないことが多い。
■ブラザレンと呼ばれることすら拒否している。(自分たちは教団を作っていない、と思っている。グループではない、と思っている。兄弟たちと言い合うような変な人たちというニュアンスがあるなどなどの理由)
■各地の教会の独立性が高く、アイデンティティがない。
■自分たちは聖書のあり方に忠実であると思っている。(大体はそうですが・・・)
■全国をまとめる組織がなく、基本、教会間や信者個人間ベースのゆるいつながりだったりする。
■教会籍という概念がない。

という意味で、自分がブラザレン関連の人物(たとえば、ジョン・ネルソン・ダービーとか、ジョージ・ミューラーとかいった有名な人物)の考えに共鳴した、そして、もともといたクリスチャンのグループから独立してしまえば、自分はブラザレン系のグループだ、と主張することが出来ます。誰かが、あるいは何処かの組織が、ある教会がブラザレンであると、認定するわけでもないので、他者からブラザレンとレッテルを貼られるか、自らそう名乗るかすることで、ブラザレンと呼ばれている、あるいは呼んでいることが多いので、余計にワケが分からなくなるのです。まぁ、この辺の境界線のぼわっとしたところがブラザレンなのかもしれません。そういう意味で言うと、本来、超教派的というのか、かなりゆるい構造となっているといってよいとおもいます。

ウォッチマン・ニーのグループの教会(集会・召会)は、ジョン・ネルソン・ダービーの神学に強く影響を受けたので、ブラザレンに分類されることが多いようですが、イギリスのダービー直系のグループは、冷淡な対応をとったように、ブラザレンって、実は一枚岩ではなく、実質的に多様です。

日本でのプリマス・ブラザレンというよりは、日本型の諸集会と呼ばれるオープン・ブラザレンでもなく、明確にエクスクルーシブ・ブラザレンでもないキリスト集会とよんでいるグループの特徴は、外見で分かる部分としては
■聖餐式を毎日曜日しているところが多い
■聖餐式に明確なプログラムがない
■誰が献金したのか分からないように献金箱などから集められる
■婦人信者が被り物(レース)を礼拝中はかぶっている(ところによっては、伝道のための時間でも)
■牧師制度を否定する(講壇が一般の男性信徒に開放されていることが多い)
■礼拝時の楽器の不使用、限定的使用
■キリスト集会、あるいは集会という用語を多用する
■十字架が明白に表示されていないことが多い(最近は表示されているところもある)

教理の面では
■聖書中心主義
■再臨に関する関心が高い
■福音宣教の重要性
■聖霊の導きの重視
■祈りの重視
■逐語霊感説と文字通りの解釈

なんかでしょうか。細かいことを言えば、きりがないですが、実際にはかなりバリエーションがあるので、これがブラザレンだ、というようなことはいえないのが実態でしょうね。何せ、共通の明白な信仰基準がない、あるいはそんなものは作るのはどうか、と思っているのがブラザレンなので。自己申告で、いくらでもブラザレン、と言うことが出来るんですね。ただ、一応、ブラザレンでは、近隣の教会と仲良くしていたり、それぞれの教会の信徒(おもに代表者である男性信徒)同士を招きあったりするところで、つながっている、と相互に認識していることでゆるく相互認証している範囲がブラザレンである、あるいは、諸集会の関係であると認識されることが多いです。あくまで、ブラザレンかどうかは、相互認証の世界でしかないので。

そういえば、CoadのA History of the Brethren Movementには、日本のブラザレンの記述は1行で、伝道出版社と思しき出版社の記述と、東京帝国大学(東大)に勤めていたお雇外国人の英語教師がいた、という記述だけしかなかったです。エクスクルーシブブラザレン系の同信会さんの情報もなかったですし。朝鮮伝道など、同信会さんはその働きが大きいのですが。それだけ、伝道者が世界各地に出て行ったということなのだろうと思います。


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