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今回もまた、昭和30年代までのブラザレンの出版物からの
ご紹介です。これも昭和16年に書かれた伝道出版物からの 引用ですが、おそらく、藤本善衛門さんが書かれたものと 思います。詩編を、背景にしていると思いますが、いくつかの 聖書の個所からお話しができています。 日常生活に題材をとりながらも、聖書から語ることを中心と しようとした方向性がよく出たものだと思います。 狐には云々のところは、ちょっと、まずいかなぁ、とはおもいますが、 それなりに若々しい感覚が出ているように思います。 ----------------------------------------------------- 小鳥はいろいろな場所に巣を張り、その日ならは近くで楽しく遊び、 日暮れや雨になると巣の中に這る。さらに激しい風雨の時は親鳥は 両翼を広げて覆いとなりその下に雛を隠すという、雛にとっては親鳥 は避難所である。故に晴れ上がった日の出の時親鳥はその羽根や 巣をかわかしつつ喜びの歌を歌うのである、これは本当に賛美の歌 であろう。 昔、イスラエル国に神の与えた立法があって、その中に誤って人を 殺した者のために逃遁(のがれ)の邑(まち)という所が六つ備えられ てあった。そこに這入ったものは生命を保つことができたのであった、 しかし、もしがそこに入らずして害され、殺されてもそれは止むを得ぬ 事であった。我が国にでも江戸時代にはこれに似て、目には目、歯に は歯の主義を行い、それが長じて仇討ちを一つの誉とさえしたのであ るが、明治の文明と共にそれは廃されてしまった。 かのイスラエル国の逃遁(のがれ)の邑(まち)は来らんとする本体 の一つの影だったのである、その本体とは主イエスキリストである、 狐には穴があり、空の鳥には巣あるごとく、罪びとのための唯一の 避難所は主イエス・キリストである、彼こそ弱き、悲哀、苦悩、詮なき 者らの慰安者(なぐさめて)である。 一つの霊として、ある都会にかつて銀行取り付け騒ぎがあった時、 大勢の預金者が押し寄せ、まもなく〆切時刻も近づいてきたころ、一 人の男は窓口の数番目に並んでいた。すると彼の上着を引っ張る者 があった。彼が見ると親しい友人であった。 「○君、困ったことに鳴った、僕はこの騒ぎを聞いて飛んで来たのだ が、この有様だ、係の者に話したら、順番だからと並べという、この列 に並んだところで到底時間に間に合うはずがないし、僕はリヨウマチ でとても立っていられない、妻も子供も来てはいるのだが、なんとも仕 様がない、困ったことだ」。 それを聞いた彼は尋ねた「君、どれだけ預けて在るのかね」 「1千円余り」 「僕は六百円だ!よし、気の毒だから僕の番を君に譲ろう」 「でも、君が取れなかったら、君が困るじゃないか」 「いや、僕はまだ若いよ、いくらでも働けるからよい、君の細君や子供 さんがかわいそうだ」 彼は直ちに場所を譲って、のちの列へ着くために急いだ。夫婦の顔 には喜悦と感謝の涙が光ったもちろん、彼は己が分を棒に振ってしま った。もし、彼の気高い心と犠牲愛は哀れな親子を救うことができた のである。 これはちょうどわれらの主イエスの十字架の贖いを表す、よい例で あろう。まさしく主は「木の上に懸りて我らの罪を己が身に負い給ひ」 (ペテロ前書二ノ24)「我らに平安をあたふ、その打たれし疵に寄りて われらは癒されたり」(イザヤ53ノ5)まことに彼は我らのなやみを負 いわれらの悲しみを擔へ」るのであった。(同4) かつて一夫人は海浜近くに住まう牧師のもとを訪い、手に握れる砂 を示し涙と共に「私の罪はこのように沢山あります」と言った。すると 牧師は鍬を片手に夫人を連れて波打ち際に来て、鍬で砂をかき集め、 高く積み重ねて彼方で暫く腰を降ろして休んでいた、まもなく上げ潮 となり水は次第に高くなって、ついに砂山は覆われてしまった。牧師 は夫人にいった「ごらんなさい、みな覆われてしまったでしょう、この ように貴女の罪がどんなに多くあっても、「神の子、イエス・キリストの 血、すべての罪よりわれらを潔む」るのであると語った。 (藤本生) -------------------------------------------------- この文章をタイプしながら、昭和の16年ころまでは、社会の隅々に江戸 時代の名残があったり、人々の記憶の中で、江戸時代はそう遠くない時 代であったような気がしました。われわれの江戸時代意識とは、かなり 違っているようです。また、昭和初期の取り付け騒ぎの雰囲気もいまだ に記憶に新しく残っていることが分かります。 近年の取り付け騒ぎは、木津信用金庫くらいですが(あれは日銀特融 をして、一億円のパックが関西の日銀支店の大阪支店や、神戸、京都の 支店から運ばれて、沈静化に当たりましたが、そんなことが簡単にでき ない時代の銀行取り付けの深刻さを感じます。)、その深刻さを感じます。 罪の救いに関して、3つの話のメタファー(逃れの町、取り付け騒ぎ、波打 ち際の対談)が用いられ、罪の救いを語ろうとしていますが、罪そのもの がよくわからない人たちに、どこまで伝わったのかなぁ、と改めて思います。 日本社会で、聖書で言う罪の問題を正確に説くことの大切さを改めて 感じます。英語だと、逮捕が伴うような犯罪行為は、Crimeであり、聖書で言 う神に対する反対(反逆、無視)行為であるSinとは明確に単語の上で区別 されているのですが、日本語には、この概念がないので、そこを丁寧に解説 していくこと、語っていくことの大切さを感じます。 |
ブラザレン
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今日は「救いの井」に記載されている翻訳をご紹介したいと おもいますが、新改訳第3版では、ツァーラァートとヘブル語で 表現される病気の問題が出てきている部分は、それを示す 現代の標準的用語であるハンセン氏病と表現しています。 ---------------------------------------- 王子の飾り 嘗て印度に豪い王子がおった彼は美しい容貌の持ち主であ り、高価な着衣と共に種々な宝石類で身を固めていた。わけて も目立ったのは冠から額へ垂れさがっていた大きなダイヤモン ドであった。人々は太子がそれをつけている事は華美な着衣と の配合のためと思うていた。しかしそれは真実の理由ではなく、 彼が富の限り美々しく飾った彼にはハンセン氏(転記者で変更) 病があったからで、その恐ろしい患処が額にあった、それを隠す ためにダイヤモンドを置いていたのであった。 このダイヤモンドは貴君の人格ですか、たぶんあなたはご自分 を他の人々の模範者と思われるかもしれぬ、けれど神を欺くこと はできない。貴君がいかに宗教的、道徳的立派なダイヤをつけて いても本来の貴君の性は霊的ハンセン氏病(罪人)である。 しかし感謝なるかな、神はハンセン氏病(罪人)を憐みて清むる 道を備えたもうた、どこにそれを見出せようか。キリストの尊い血 によってである。この御血こそすべての罪より我らを清むる力ある ものである。(F訳) --------------------------------------------------- たぶん、この原文は、イギリスのトラクトだろうと思いますが、 今の基準からいえば、ハンセン氏病と罪を混乱させかねない ものがあり、個人的には、ウーン、厳しいなぁ、と思います。 確かに、旧約時代、少なくともイエスの時代まで、また、その 後も治療法がないという意味で、ハンセン氏病は罪の問題の 象徴とされてきたユダヤ的伝統、それを引き継いだキリスト教 の伝統があり、その上にのっとったトラクトの内容になってい ます。全ての人が罪びとであることを強調するため、罪の問題 とその解決を強調するあまりの表現とは言え、個人的には、 疑問を感じてしまいます。 |
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久しぶりに昭和16年に出版された「救乃泉」からの伝道に用いたと
思われる文書を取り上げ紹介したいと思います。 おそらく、この文章を書かれたのは、藤本善衛門さんだと思われま すが、当時の福音メッセージのスタイルを見ることができると思いま す。 基本的に、信仰者と不信仰者の比較の上で、信仰者の優位をとき、 優位となる信仰者となる意味を聖書を使って説き、聖書から信仰者と なることの意味を読みだしていく、という論法となっています。 もともとのオリジナルの福音メッセージを詰めたものか、若干論理が 飛躍しているところがあるように思います。また、この論法でいくと、 常に信仰者は世間的にも結果としての優位を確保できるか、のような 印象を聞き手または読者に与えるので、誤解を生むのではないか、 という危惧を持ちました。 あくまで、信仰者の優位性は、神によって永遠のいのちを得ている というところにのみあり、世間的な富とか名声、結果としての優位性を 求めていくのであれば、ご利益宗教、あるいはボストン運動と似たよう な信仰のずれとおかしさにつながることを読みながら懸念しました。 まぁ、無理やり長めの原稿をつめていった結果ではないかと思いま すが、論理としては時に今でも集会で語られる福音メッセージで似て なくはない論理で語られる方もごく稀におられるようです。 --------------------------------- 鵜の真似をする烏という言葉の如く時折不信仰者が信仰者の真似を して豪い(すごい)失敗を演ずる場合がある。信仰は常識や人智以上の 不可思議な力を持つものである。 聖書に示されある例を挙(あ)ぐれば、使徒行伝十九章の使徒パウロ はエペソの邑(原文カナ:まち)で神の福音を伝うるとともに信仰により 尋常(原文カナ:よのつね)ならぬ能力ある業(原文カナ:わざ)を行った のであった。すなわち病を癒し、悪霊出しなどをしたのであった。それを 見た諸国遍歴の呪文師数名が、パウロの真似をして「イエスの名により て」悪例を追い出そうとしたが、彼らは反って(原文カナ:かえって)打拉 (原文カナ:うちひし)がれ裸にされ、傷つけられて逃げだしたのであった。 又旧約聖書に記されているイスラエル人の歴史をみるならば、彼らはエ ジプトから解放されて旅を続け紅海にまで達した時、彼らは眼前に海を 見、のちに敵の大軍を見たのであった。全く袋の鼠の如くであったとき、 モーセは信仰によりて神の偉大なる力を頼み、人々に「静まりてエホバ の救を見よ」と叫んだのであった。その結果、神は紅海の水を割って彼 らの渡り行く道を開き給たのであった。いつも人の行詰ったとき、神は 働き給うのである。信仰とは神の働きにゆだねることである。信仰なき 「エジプト人は然(原文カナ:しか)せんと試みて溺れ死にたり」(ヘブル 十一ノ二十九)。又「信仰によりて七日の間廻りたればエリコの石垣は 崩れたり」(同十一ノ三十)と記されある歴史に於いてもイスラエル人は 只エホバ神の命のまま七日間エリコ城の周囲を廻っただけで驚くべき 神の能力を拝したのであった。これは彼らの働きでなく、エホバの御働 きなりとは誰しも知るところであった。エリコ城内の人々はイスラエル人 の為し居る事を見て稚戯(原文カナ:ちぎ)事として嘲笑したであろう。な れど結果は彼らは呆然とし、かつ滅びねばならなかった。 後来、ネヘミヤの時代にもエルサレムの石垣修理の際、敵は彼らの仕 事見て嘲笑した。けれど後敵は皆、驚き且つ恥じねばならなかった。 かくのごとく今もパウロの云うた「十字架の言は滅ぶるものには愚なれ ど、救わるる我らには神の能力なり」(コリント前1ノ十八)の通りである。 尚パウロは「我は福音を恥とはぜずこの福音は…すべて信ずる者に救 を得さする神の力たればなり」(ロマ書一ノ十六)とも申し居るごとく「信仰 によりて遊女ラハブは平和を持て間者(福音)を受けたれば、不従順のも のと共に亡びざりき」(へブル十一ノ三十一)エリコの人皆滅ぶる時、彼女 のみ救いを得たのであった。その理由は?「信仰によりて」であった。 「信仰なくては神に悦(原文カナ:よろこ)ばるることあたわず」(へブル十 一ノ六) 君よ、本当に喜びの人とならんことを望まるるや、然らば先ず神に悦ばる るものとなられよ、信仰者となられよ。(藤本生) ----------------------------------------------- このような伝道方法というのは、一つの方法ではありますが、やや問題を 含む様な気がします。 |
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聖霊論について、これまである程度のことを簡単に 触れてきましたが、伝統的なキリスト教会の聖霊論と それほど大きな違いがあるわけではありません。 ただ、聖霊が神であることから、聖霊の導きがあった という言葉が使われた時、その場の議論が止まってし まう傾向にあります。 個人的には、間人格的に聖霊は働くものであり、 ある人に対しての聖霊の導きと別の人に対しての 聖霊の導きが大きく異なる、ということは極めて例 外的ではないか、と思います。 また、個別具体的なことに対して、聖霊の導きを 言及させるのはどうかなぁ、と思います。神は、自 由を与えられたのですし、聖霊が関与されるのは、 方向性といった大方針ではないか、と思います。 議論を強制的に終了させるための「聖霊の働き」を もちだすことや、「みこころ」という表現を持ち出 すことはいかがかなぁ、と思います。「神のみここ ろ」なのか、「個人の希望としてのおこころ」なのか はよく考えないといけないのでは、と思います。 一番、極端な例をご紹介したいと思います。 ある未婚の若い男性信徒が、未婚の若い女性信徒 に『あなたと結婚するよう、聖霊によって示されまし た』とプロポーズした、という話がありました。 若い女性信徒は、この結婚の申し出を丁重にお断り したそうですが、こういう逃げ道が少ないアプロー チというのは、ちょっと危険なものを感じます。 結婚ということでいえば、逆の事例として、 長老から若い信者に結婚話が持ち込まれること があります。このような場合、若い信者にとって、 集会の責任者から持ち込まれた結婚話は責任者たち への聖霊の導きの結果だと思いこみやすいので、 断りにくいという側面もないわけではありませんが、 必ずしも、そうではないように思うので、慎重に 考えて進めるのがよいと、個人的に思います。 もちろん、結婚だけでなく、どのような人生を歩 むかということは真剣に考える中での神との関係を 考えていくことは大切ですが、何でも聖霊の働きや 示しを求めていくことは、時に危険なものを含むと 私は思っております。
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ブラザレン運動関係者での聖霊論の理解としては、 炎や、火が聖霊のメタファー(比喩)となっている ことが多いようです。もちろん、これは伝統的な 聖書理解でもありますが、時に行き過ぎているお話 をお聞きすることがあります。 具体的には、聖書の中で、火とか、ともしびとか、 明り、炎という表現が出ただけで、機械的に聖霊と 結びつけて聖書理解をしようとする傾向です。 文脈から見て、必ずしも、こういう言葉が聖霊との 関係で理解されるとは限らないのですが、文脈を 無視したお話をお聞きしたこともあります。そんな ときには、かなわないなぁ、と思います。 また、日常生活でも、熱心さと聖霊の働きとを 関連させて考える方もおられ、外見から熱心さが あると思われる方が聖霊に満たされている、と理 解して、聖霊の満たしがあるとか、ないとか、と いった議論がなされる方もあります。この種の聖 書理解はオズワルド・J・スミスにも見られるも のです。しかし、個人的には、必ずしも外見的な 熱心さと聖霊の満たしが一致しているとは限らな いかなぁ、とこれまでの信仰生活の中で出会って きた方を見ながら思います。 というのは、熱心な方は、時々、ボキッとおれ るように信仰生活をやめられたり、教会(集会) 生活に疲れた、と一言残しておられなくなったり することがあります。 あるいは、信仰歴の若い信者に熱心に信仰生活 や奉仕に取り組んでいく様に語った結果、若い方が 信仰生活に疲れてしまう場合も全くないわけでは ないようです。 外見的な熱心さだけで判断せず、ゆったりと 神の臨在を味わうようにお勧めするのがいいか なぁ、と個人的に思っています。こんなことを書 くと黙示録3章に出てくるラオデキアの教会のよ うな「生ぬるい信仰」とご意見をおうかがいしそう ですが、外見的な熱心さだけが聖霊の満たしでは ないように思うのですが。 |





