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ブラザレン運動の関係者の書いたものが、さまざまな人々を 経由して、聖霊派やきよめ派、広く福音派の方々に影響を 与えていることは、その通りなのですが、ただ、聖霊の働き の結果としての癒しとか異言、奇跡といったことは、現代で はないというのが、ブラザレンの方の多くの立場だと思います。 ときどき、この種のことが発生しうる、とする方も全くない わけではありませんが、基本的には、この種のことは使徒時 代の終焉とともに次第に減っていった、という立場に立って おり、現代では特殊な環境の下これらのことがおこる場合が ある、というのが基本的な立場だといえます。 トロント・ブレッシングみたいなことは、ほとんどない、 あるいは非常に懐疑的、というのが、ブラザレンの関係者の 基本的態度です。 とは言いながら、現代の医学では説明がつかない治癒現象 と見えることが時折発生することはその通りなので、このあ たり、なかなか説明が難しいところではあります。 現に、石濱義則さんは、結核での喀血がイエスを信じた ことによって止まった、ということについて、かなり強い確 信をお持ちでしたし、実際に、その他の方でもこのような経 験に近い経験、突然、脳内の腫瘍がなくなっていたとか、 というような事例があります。まぁ、現代の医学は進歩して いるとはいえ、完全にすべての現象を解明しているわけでな いし、素朴な信仰の力ということを考えるとき、現代の科学 で解明できなかったから奇跡だ、と主張するのは、少し無謀 な議論かなぁ、科学というものの立場をご理解しておられない 方の立場かなぁ、と思います。 このあたりの科学の考え方と聖書や神との関係は、マクグラ スの「神の科学」とか、「科学と宗教」とかScientific Theologyの三部作などが、非常に参考になると思います。 余談に行ってしまいましたが、奇跡とか、異言とか、癒 しについて、比較的冷静な立場に立っているのが、ブラザ レン運動のほとんどの方の立場なので、普通にお付き合い できる方が非常に多いといっていいと思います。とはいえ、 ときに、あまりに聖霊のことに関心を持ち始めたグループ では、癒しや異言があると言い出される方々もおられます が、自然とそういうグループの方との関係が薄くなって 相互に独立になっていくということがあるようです。 ただ、集会単位で、独立の場合は、そう大きな問題を 生まないのですが、集会内部からの動きの場合、最初は 聖書理解の対立の形を取りながら、分裂騒動や分離独立 となっていくこともあるので、その場合、悲しい思いや つらい思いをされる信者の方が出てくることになります。 |
ブラザレン
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ブラザレン運動に関係しておられる方では、日常生活でも 聖霊の働き、ということをかなり重要視され、さまざまな 場面で、聖霊の導きがあったとか、なかったとか、という 言い方がされることがあります。聖霊の導きがなかった という言い方の別の言い方として、平安がなかった、と いう言い方をされるかたもありますし、聖霊の導きがあっ たということの別の表現として、平安があった、という 言い方をする場合もあります。 たとえば、就職とか、結婚とか、家とか車を買うとき などにも、このような表現をされる方も時に見られます。 全員が全員というわけではありません。かなり、個人の とらえ方が違うところはあるように思います。 そういう意味では、聖霊の働きについては、かなり穏健 な立場に立っているといえます。 ただ、日曜日の礼拝(聖餐式)とかでは、導かれた方が 祈る、と想定されている教会(集会)もありますし、日曜 日や平日に開かれる聖書研究会や伝道集会と呼ばれる聖書 を開いてお話しする機会でも、導かれた兄弟によって語ら れる、とされている教会(集会)が多いようです。 語られる言語は、基本的にその人の母語、またはその 教会の共通語であり、異言で語られる、ということはあ りません。その意味でも穏健な立場だと言ってよいと 思います。だからと言って、聖霊とその働きを軽視して いるわけではなく、それは尊重しつつも人間の関与も 認めているということだと思います。 |
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ブラザレン運動の多くの方の聖書についての理解として、聖書は 聖霊の介在によって書かれたものであり(と言っても、神がかり 的に聖書の各書の書いた人が書いたのではなく、その人の理性と 理解を通して、当時の人にわかるように書かれたものであるとい うのが一般的な理解のようです)、それゆえ、聖書は重要である し、聖書のことばは、神のことばとして大切に扱うべきである、 というのが基本的なスタンスです。個人的にも、そう思っていま す。 では、現代社会における聖書理解について、どのように考えて いるか、というと、同じ聖霊を受けているのだから、その聖霊の (神がかり的な働きでない)啓示によって現代文のそれぞれの各 国語に翻訳された聖書の言葉を理解することができる、というの が広く一般にとられている立場だと思います。 その意味で、極端な原語優先主義に立っているわけではありま せん。とはいえ、時々、ギリシア語とか、ヘブル語の聖書の原単 語がお話のなかで、触れられることがありますが、ただ、それを ある程度まじめに勉強している人は少数派だと思います。考えて みれば、当たり前の話で、ナザレのイエスは、おそらくはほとんど アラム語で発言していたでしょうし、弟子たちの大半もアラム語 が母語の人たちなわけで、流暢なギリシア語で日常的に喋ったり していたわけではないことを考えれば、そもそも、ギリシア語の 原典主義と言ったところで、新約聖書自体翻訳聖書という性質を 若干持つわけですから、翻訳聖書全体から読み解く、ということ をしていれば、聖書の主要メッセージを伝えるにはある程度の ことは問題がないように思います。その聖書理解を構成する際に 神がかり的ではなく、穏やかに心の奥底に語りかけるように 聖霊が働く、というのが、ブラザレンの大半の方の聖書理解と 聖霊の働き、についての考え方だと思います。 |
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たましいとはなにか、ということについて、まとまった学びを あまり聞いたことはありません。ある方は、以前、学びの中で たましいとは、霊の入れ物だ、ということをおっしゃったような 記憶があります。おそらく、聖霊の宮、というメタファーから の展開だと思います。 ただ、個人的には、たましいとは、その人の人格というのか、 精神性というのか、その人をその人たらしめているもので、個人 個人によって異なるものという考え方をしています。聖書的な 明白な根拠があるわけではないのですが。ここはもう、想像の 域です。霊が風(ギリシア語でも、へブル語でも、霊には、息、 または風、という意味がある)だとすると、それを受けてその 人を動かす帆船の帆のようなもので、帆船の帆には、その船独 自のデザインがしてあって、その人とほかの人を識別可能に するものではないかと思います。 これは、個人的感想なので、すべてのブラザレン運動者の 間で合意された理解ではありません。ブラザレン運動自体、 勝手連みたいなところがあるので、統一した見解といった ものが組織的に決定される、ということはないので、統一 的に共感されている理解、というのはほとんど少ないんですね。 最近では、基礎的な聖書理解のコース(アルファコースみたい なもの)をバプテスマ前に受講を勧めている集会もありますが、 とりあえず、日曜日のお話を何度か聞いて、少し話し合いをして 信じた、といったバプテスマ候補者に信仰の内容自体の問答が あり、それで聖書理解と信仰が適切だと判断されて、バプテス マというケースもあるようです。 |
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ブラザレン運動では、霊、魂、肉体という3分法をとることは、
ウォッチマン・ニーの考え方と同じです。これと、三位一体と 霊、魂、肉体と言う概念の類似性についてのお話を英国人 のメッセンジャーから聞いたことがあります。霊、魂、肉体という 三分法をとることに関しては、ウォッチマン・ニーがブラザレン運 動の一部の関係者の聖書理解の影響を受けた、ということだ ろうと思います。とはいえ、ウォッチマン・ニーの後継者の方は、 ある段階以降のブラザレン運動にも、否定的な視線を向けてお られます。まぁ、仕方のない部分もあって、ある意味で、理想の 教会かな、と思って、ウォッチマン・ニーがわざわざ英国のキリスト 集会に行ったものの、内紛に次ぐ内紛、分裂に次ぐ分裂だった でしょうし、ウォッチマン・ニーが訪問してみたところで、若干の 当惑を持って迎え入れられたでしょうし、そのあたりのことも 影響しているようです。 ただ、当時の英国人にしてみれば、支配されるべき階級とみ られていた中国人(クーリー(苦力)という形で流入)でもあり、 アヘンの害毒を英国にもたらした中国人(とはいえ、アヘンを 英国にもたらしたのは大英帝国人なんですが)とも見える中 国人の一キリスト者が直接関係がないにもかかわらず、突然 やってきて、自分たちと同じ信仰をもっているということを 主張されたので、少し当惑したこともあったのではないか、と思 います。 余談に行ってしまったので、本論にもどします。ブラザレンの集 会で英国人の説教者から以前聞いた話では、霊と魂は分割し にくいが別物という話を聞いたことがあります。へブル書4章12節 の記事をもとにしてのお話です。ちょうど三位一体のようなもので、 という理解でもあったように思います。 個人的には、霊とは個人の外部から内部の者に影響するものの ような気がします。聖霊もあれば、悪霊もあり、神の霊もあります。 第1サムエルなどの記事がその根拠だと思うのですが、旧約聖書 の霊意識と新約聖書の霊意識がどの程度共通なのかは、調べに くい内容だとおもいますが、日本語で同じ『霊』という言葉が使われ ていても、それぞれが想定している内容は少し違うもののような気が します。 このあたり、より詳細な研究が必要ですが。 |





