ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレン

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この夏、考えたこと。

お付き合いのある関東のIさんから最近、ブラザレン

関係の歴史に関するご著書をいただいた。ご著書とい

っても、手作りのコピー印刷で作成された本である。

戦時中にキリスト教の信者であるゆえ(というよりは、

信者であるがゆえに皇宮遥拝を拒否したり、神社への

不敬行為、あるいは、教団を作れという宗教団体法へ

の不服従(といっても、特高案件なので、基本政治犯

罪となった)といった政府への不服従行為ゆえ)、治

安維持法違反で逮捕投獄された方のご子息の方がお書

きになられたものである。キリスト集会の歴史を肯定

的な視点で見ながら、これからの世代を育てていくに

あたってのお考え、特に、キリスト集会の伝統と聖書

理解との関連を最後で取り扱っておられた。視点とし

ては、非常に共通する部分があり、有益な視座を得ら

れたように思う。

 個人の信仰をめぐる問題と権力の問題、日本の諸集

会の簡単な歴史が振り返られている。個人の信仰をめ

ぐる問題と権力や制度の問題が、ブラザレンのグルー

プだけでなく、日本のキリスト教の世界のいろいろな

所に影を落としていることを思う。ブラザレン運動関

係で言えば、たとえば、キリスト集会の法人化の問題。

土地や不動産を所有するキリスト教会では、近年、宗

教法人化を進める動きがある。個人的には、制度をい

ろいろ見る限り宗教法人という選択が一番妥当でもっ

とも適切だと思う。以前は、自分たちが行っている行

為が宗教ではないということを強調するために宗教法

人格でない法人格(財団法人や社団法人)を取得する動

きもあったし、実際にそのような法人格をお持ちであ

るところもあると聞いている。あるいは、法人格を取

得せず、土地や預金などの財産などの管理をするため

に資産信託を形成した集会もある。大半は、責任者の

個人名になっていることが多いとは思うけれども。

 外形的に認識されること(外部から見た目では、キ

リスト集会のしていることは、宗教行為と位置付けら

れるし、キリスト集会として活動していること自体外

見的には組織を形成している)と信仰という実質の間

の実際的な信者の認識(我々が行っていることは信仰

の結果であって、『形式化』された宗教ではないとい

う理解や、我々は組織ではないという自己評価)の差の

問題をどう現実社会の制度の中に位置づけていくのか、

という問題である。それをどのように外部の関係者に

説明し、制度と折り合いをつけていくのか、という問

題である。その際に、社会の動きに関する認識と社会

に生きる人々に分かるように、自分たちの自己満足の

ための表現ではなく説明できること、キリスト教会の

歴史とキリスト集会の歴史認識を知っておくことは、

一応の意味があると思った。

 いただいた本を読んだり、この夏読んだりしたもの、

この夏してみた調査を振り返ってみると、これまで、

なんとなく疑問に思えていた「日本におけるキリスト

教の伝道の諸問題」に関する問題意識が見えてくる。

この夏読んだもの(キリスト教関係のみ)

鈴木範久著『聖書の日本語』岩波書店

中村敏著『日本キリスト教宣教史 ―ザビエル以前
     から今日まで 』いのちのことば社

古屋 安雄 著 『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか 
     ―近代日本とキリスト教』 教文館

藤掛明著『ありのままの自分を生きる』一麦出版社

ヘンリー・ナウエン著『すべてを新たに』あめんどう

雑誌at 賀川豊彦特集

牧会ジャーナル 『特集●人を育て、共に育つ』

ロバート・P ・エリクセン著 
 古賀敬太・木部尚志・久保田浩 訳 
『第三帝国と宗教 ヒトラーを支持した神学者たち』 

山田 耕太 『新約聖書の礼拝―シナゴーグから教会へ』 
 日本キリスト教団出版局

ピーター・スキャゼロ 著
 『情緒的に健康な教会をめざして ―教会の成熟に
  不可欠なもの』いのちのことば社


これらの読んだものをもう少し熟成し、考えていきたい。

 しかし、歴史を知ることは、重要だ、と思う。それと

同時にキリスト集会における歴史観(過去に関する歴史

意識)の層の薄さは何とかならないのか、と思う。

 しかし、自分で書いたものをコピー印刷して配布して

いただいたことを覚えて感謝すると同時に、自分のもの

ぐささを感じる。コピー印刷し、製本して配布する気力

がないのと、配布に関する事務処理能力がないことは、

自分自身が一番よくわかっている。

 そんな理由から、このブログというスタイルにしてい

る。意外とあたりかもしれない。読みたくない人は読ま

なければ良いし、読みたい人であれば読んでいただける。

コメントもかける。そして、コメントを頂くことで発想

が広がる。ライブ感はないけれど。ブログは、本と電話

の中間みたいなメディアで、結構気に入っている。

このブログに関連するコメントは、歓迎しております。

是非お気軽に。

 今日も、小渕さんの文章を基にしながら、キリスト教会

キリスト集会)での信者の成長とリトリートということを

考えて見たいと思います。このリトリート、責任者にとっ

ては実は、必要なことです。実際に、キリスト集会に大き

な影響を与え、その一員でもあったジョージ・ミューラー

とクレイクは何度もリトリートをしたようです。これも、

キリスト集会の出発点にあったものだと思います。その原

点を忘れないためにも日本のキリスト集会の責任者の方々

には、リトリートの機会が必要ではないかと思います。

---------------------引用 開始--------------------------------

 会堂で集い、スモール・グループで集い、ともに学びあ

うコミュニティはこれまでもあったことなので理解しやす

いが、神の前で独りになる「祈りの修練」(ソリチュード)と

いうものが、近年、求められている。これは活動中心の教

会生活で疲れを覚える人や、ついていけない人が相当いる

からである。心に傷を負った人、生活スタイルが許さない

人、毎回参加でいるエネルギーがない人がいる中で、信仰

生活を豊かにするための落ち着き、いやし、自己への気づ

きをもたらす祈り(神との親しい関係)痛いする深い願望に

気づく人が増えてきた。「リトリート(退修)」「安息」

「休息」の本当の意味の回復である。神の前に出て、神を

知り、自分を知っていくことは信仰生活の要だが、私自身

を含めどういうわけか、長い間そうした霊的訓練は聞いた

ことがなかった。活動は十分しているものの、霊的渇きは

深まるばかりである。ともに集うこと、そして、時に独り

退くことの両者が信仰生活を潤すのである。

---------------------------------------

 日本の現在のキリスト集会には、リトリートの概念があ

まりないように思う。伝道、伝道と伝道が至上命題化する

中で、伝道している本人の中身がスカスカになっているの

であれば、それは意味がないだろうと思います。その意味で、

時に責任者であることから外れてみて、リトリートをして

みることは重要であるのではないかと考えています。元々、

神学校(神学部)が出発点となったを欧米の大学では、7年に

一度サバティカルという名称で半ば強制的なリトリートの

機会が与えられるのですが、それと同じように、日本のキ

リスト集会の指導者にも、リトリートが必要でないだろう

か、とおもいます。あるいは、指導者同士が集まって、と

もに祈り、ともに相談しあい、考えあう機会としてのリト

リートの機会は少なくとも重要であると思うのです。

関東の一部でそのような動きがあるようです。サバティカ

ルとは、ヘブル語のサバス(安息日)に由来することばです。

神の命令でもあるといえます。安息日に加え、実際に実現

したかどうかは別として、ヨベルの年も制度としては記録

されているのですから、この種の休養というのは、重要

だと思います。

 海外からの宣教師達にとって、数年に一度母国に帰る

ことは、リトリートの機会であり、退修の機会です。

また、年に1回、8月末に開かれていた軽井沢バイブルハ

ウスで宣教師達が集まる機会がありましたが、それも

リトリートの機会であったように思います。このような

リトリートの機会を取ることが現在の日本の各集会の

指導者にとっては難しいこともあり、軽井沢バイブル

ハウスで開かれているシニア・キャンプなどが、このよ

うな機会として用いられるようになればいいなぁ、と思

いますが、現状では、福音よりのキャンプになっている

ようです。個人的には、日本のキリスト集会の指導者達

のためにきちんとしたリトリートの機会の準備の必要性

があるとおもいます。

 集会運営や、キリスト教会の動き、世間の動きと福音

伝道のあり方を考えるような、指導者にカスタマイズし

たディスカッションの機会が必要なのではないかなぁ、

ということを強く感じます。

 今の30歳代の信者の方からすれば、リトリート?

はぁ?僕達は、こんなにしんどい思いをしているのに、

リトリートですか?ということになるかもしれませんが、

しかし、2ヶ月でも、3ヶ月でも、できれば1年、数年に

一度指導者の任から降りることは、多くの利益を信者に

もたらすと思います。リトリートを行い、若い信者に委

ねていく冒険をしてみることも若い信者を育てていくた

めには、必要かもしれません。

 そして、若い信者の皆さんにも、責任を持つことの

意味、その重さ、つらさの一部を体験してもらうことで、

集会全体の成長につながると思うので、一つの可能性と

しては、面白いのではないかと思うのですが。

どこかのキリスト集会(キリスト教会)でしてみるところ

はないかなぁ、と思っています。

 今日も、小渕さんの文章を用いながら、キリスト教会

(キリスト集会)での信者の成長とスモール・グループ

ということを考えて見たいと思います。また、スモール・

グループこそ、キリスト集会の出発点にあったものだと

思います。その原点を忘れないためにも。

(引用元 小渕春夫(2009)牧師と信徒、相互の霊的成長

を求めて,牧会ジャーナル 2009年夏号 10ページ)

 私たちが霊的に成長するためには、年代や生活背景、信

仰歴に応じたグループを教会内で形成し、相互牧会するこ

とが理想であると思われる。しかし一教会の原状では無理

があり、さらに遠距離から会堂に通う人もいるとすると、

集いやすい場所はどこだろうか。その解決のために何がで

きるだろうか。その一つの手段は、教派色を持たない超教

派の主催するスモール・グループや学びの機会を、積極的

に活用することではないだろうか。いや、すでに自らのた

めに参加している人は少なくない。

(引用終り)

 実は、ブラザレンと呼ばれるキリスト教会(キリスト集

会)の始まりは、一種のスモール・グループ運動だといっ

ても間違いないと思います。そのあたりのことは、

http://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/29718855.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/844356.html

でもちょっと書いたりしていますが、もともとは、牧師さん

たちが独自の聖書研究会で聖書に戻って考えるということか

ら、一番集りやすいところは、ということで始めたCrownin

クローニンたちのグループがあります。これが始まりだとは

断言しにくいのですが、キリスト集会の出発点に、スモール・

グループ的な要素はかなりあります。全員が30代から20代後

半の今でいえば、ニュー・ジェネレーションというんでしょ

うかねぇ。改革の力も持ちつつも、バランスを意識し始めた

行動を取り始める人たちの集まりだったんですが、さすがに

運動が始まってから150年もたつと、長老派やクェーカーなど

の教会政治体制的な影響などもあり、長老の影響力もかなり

強くなり、超教派的なスモールグループとはいいがたいもの

になっているのが現状のキリスト集会だと思います。ただし、

もともとは、超教派的なスモール・グループを志向して、キ

リスト集会はイギリスで始まったんですが。

 日本では、ブラザレン運動が最初に到達した明治末期から

大正初期にかけての社会構造自体、年功序列主義というのか

儒教的な年長者優先主義が社会モデルとして存在し、内村鑑

三も優れたキリスト者ではあったものの、その思想への儒教

的思想の影響はぬぐいがたいものがあるのとおなじように、

いつの間にか信者としての水平的な連結というのか、水平的

な関係性の尊重というのか、年齢を超えたフランクな付き合

いができないキリスト集会(年長者の方には気づき難いと思

います。自分も40を過ぎたので、なんとなく感性が鈍ったと

感じますが)となっているように思います。

 特に、宣教師の側では奉って欲しくないと思っていなくて

も、日本人キリスト者の中に、宣教師を奉ってしまう部分が

なきにしもあらずだったように思います。実際、アメリカに

いっていた時のノリで、宣教師をファーストネームの愛称で

呼ぶのが、習い性になっていたら、ある人からここは日本な

ので、宣教師を呼び捨てにするようなファーストネームで呼

ぶようなあり方には、宣教師の方を軽く見ているようで、私

には耐えられないので、○○兄弟と呼ぶようにしてほしいと

いう(A.進言 B.忠告 C:苦情 最も当てはまるものを御自

由に選んでください。 )を、人を介して間接的に聞かされま

した。実話です。時々忘れたときには、未だにファースト・

ネームで呼んでいる事も時にありますが、極力注意するよう

にしています。

 アメリカでShoreline Community Churchにいたときのスモ

ール・グループについては、また改めて書きたいと思います

が、アメリカ文化というのもあるのでしょうが、一番記憶に

残っているのは、個が大事にされ、どんな発言でも慎重に重

視して取り扱われた記憶があります。たどたどしい英語でし

ゃべる私の発言を、まじめに聞いてもらった記憶があります。

聴いてもらえるということは、うれしいことなのです。認め

られるということだなぁ、ということを感じた瞬間でした。

そのときに私の発想は変わったように思います。

 あの、Shoreline Community Churchにいたときのスモール

・グループみたいな教会活動をしてみたい。一方的に話すの

ではなくて。難しいんですけどね。日本では、小学校を卒業

すると公式に発言しなく人が多いので。

 こんなことをこの文章を読みながら、思いました。

 今日も、小渕さんの文章を用いながら、キリスト教会

(キリスト集会)での信者の成長ということを考えて見

たいと思います。また、この成長の目線の先には、伝道

活動ということがあるように思います。非常に示唆に富

む視線が得られると思います。

(引用元 小渕春夫(2009)牧師と信徒、相互の霊的成長

を求めて,牧会ジャーナル 2009年夏号 8ページ)

---------------------------------------

 彼は、私の人生、家庭事情、私の興味について感心を向

けてくれた。しかし集っていた教会では、私が「どういう

人か」についてあまり興味がないようだった。どんな悩み

や信仰上の課題があるのかより、教会の行事に「出席」して

いるかどうかで見ていた。洗礼を済ますと一人前とみなさ

れ、奉仕が求められた。教会ではみなが忙しく、よほど重

大事でない限り、指導者と時間を取ることはなかった。

「青年会」と称するものはあり、学びの機会は不定期にあ

ったが、メンバーは固定せず、会話も活発ではなく、年上

のリーダーの話を聞くことが中心だった。

(引用終り)

「彼は、私の人生、家庭事情、私の興味について感心を

向けてくれた。しかし集っていた教会では、私が「どうい

う人か」についてあまり興味がないようだった。」

 厳しいことばですが、私自身の問題として受け止めてい

きたいと思います。実際、私のこれまでの伝道活動にして

も、マスで人を見ること、人を個別視しない伝道をしてき

たけれども、人を個別視して、個人に関心を持って伝道し

たことって、実は限られていました。日曜学校の奉仕にし

ても、伝道メッセージしにしても。多少は配慮することは

あっても、誰がこられる分からない以上、一般化したお話

にするしかないことがおおいからではあります。

 ある特定の方がこられることが分かっていれば、多少そ

れに配慮した部分は入れるにしても、その特定の方に向け

て話すこと、個人的にアプローチすること、というのは少

なかったかもしれません。未だに、個人伝道、特にあまり

よく知らない方への個人伝道は苦手中の苦手。それではい

かんのでがねぇ、と思いつつもどうしても得意になれませ

ん。スカルの井戸の女の話、ベテスダの池のそばの病人の

話、いずれにしても、個人伝道です。意外と盲点。実は個

人伝道というのはきわめて重要なのかもしれない。また、

信者の成長にとっても、個人ベースのお話というのは重要

なのかもしれないと最近は思っています。 

 「どんな悩みや信仰上の課題があるのかより、教会の行

事に「出席」しているかどうかで見ていた。」

 うーん。耳が痛い。私の心の内側を覗かれたような感じ

がする。そうではない、と頭では思っていても、どうして

も、出席だけで信者を見ている自分が絶対にいる。頭が痛

い。でも、考えないといけない。ただ、そのことに気付い

たとしても、他人が悩んでいることに気付いても、それを

言ってもいいかどうか、個人のプライバシーに土足で踏み

込んでいいのか、ということに関する恐れがあり、今一歩

踏み込めない自分がいる。うーん、もうしばらく考えよう。

「洗礼を済ますと一人前とみなされ、奉仕が求められた。」

現在の私自身は、「洗礼=一人前」を求めないけれども、

私自身は、「洗礼=一人前」は求められたなぁ。バプテス

マ受けた次の週から、日曜学校では教えられる立場から教

える立場に。これはきつかった。前にも書いたように、年

長者の方がたくさんいらっしゃったので、高校生でいきな

り説教壇にたつ必要はなかったけれども、司会はしていた

よなぁ。無言の時間が長く続くことに堪えかねて、礼拝で

讃美歌を選んだり、祈ったりしていたよなぁ。ただ、英国

籍の宣教師の方が、賛美歌の選び方とか、基本的な祈り方

のルールといったこと基本的な線を個人的におしえてくれ

たので、それは助かったような気がする。今は、信仰歴の

浅い人たちがどう聖書を読みこなしていくのか、というこ

とに関する学びがしたい。そして、ちょっとでも信仰歴の

若い方々が成長するためのプログラムがしたいなぁ、と思

っています。

「学びの機会は不定期にあったが、メンバーは固定せず、

会話も活発ではなく、年上のリーダーの話を聞くことが中

心だった。」そう、青年会といいつつ、年上のリーダーの

話を聞く会に終始しているところもないわけではないよな

ぁ。そういう会をしたこともあった。聞くという訓練を受

けていない。これは痛い。話すことの訓練は受けても、聞

くことの訓練を受けていなかったような気がする。そうい

うロールモデルをあまり私自身持ち得なかったような気が

する。この間、佐藤優の「神学部とは何か」を読んだ中に

目が釘付けになった一文があった。「牧師とか神父とかは

どんな無茶苦茶な話でも一応最後まで聞く訓練を受けてい

る。だから悩んだら、教会に行け。」という趣旨の文章で

ある。これを受けていない。まずい。そういえば、イエス

自身、「あなたは私に何をしてほしいのか」と問いかけた

全知全能の神であったことを考えると、「聞く」というこ

とは大切だと思う。聞かせるのではなく、語ってもらうこ

と、聞くことの努力してみよう、と今は思う。

 今回は前回に引き続き、小渕さんのテキストを使いながら、

信者間の成長と教会での行動について私が考えていることに

ついて、お話して見たいと思います。

(引用元 小渕春夫(2009)
牧師と信徒、相互の霊的成長を求めて,
牧会ジャーナル 2009年夏号 7ページ)
---------------------------------------
教会を続けられた理由
 私が初期に集った教会は、日本でも独特な雰囲気の厳格な

教会かも知れない。教会の長老からは、私の行動、発言を常

に見張られているように感じた。例えば、教会内では女性に

気軽に話しかけてはいけない習慣があった。しかし、それを

私に教えてくれる人は誰もいなかった。同年代の男性がほと

んどいなかった中でのことである。その教会の指導者夫妻は、

大変尊敬されており、人格的にもすばらしかったが、彼らの

発言・行動はいつの間にかその教会の不文律の行動規範にな

っていた。彼らの生活は伝道中心で、いつも急を要すること

に対応しており、落ち着く暇がないように見えた。信徒をき

め細かく牧会しようということに、あまり使命は感じていな

かった。改善や変更を提案しても『教会批判』と受け止めら

れるリスクがあった。そこでは、慣例に従うことが最善とさ

れていた。

 「私に会わない、別な教会に移りたい」という私のわがま

まを何度もなだめ、引き止めてくれたのは、私を良く知り、

聖書の学びを導いてくれた、教会外の独身の宣教師であった。

(以上引用終り)
---------------------------------------

「長老からは、私の行動、発言を常に見張られているよう

に感じた」うーん。これは、もともといた関西のキリスト

集会で感じていたように思います。はねっかえりの自由な

発言ができないという意味では、そうだったと思います。

他の信者の方がたの目、というよりは私の場合、母親の目

だったですが。「後で、なんか言われたらやだなぁ」とい

う感覚があったことは強烈に覚えています。まぁ、高校生

だったんで、仮免許信者みたいなものでしたから。自己す

ら確立していないわけですから、しかたなかったとは思い

ます。

 ただ、個人的には、信仰の成立に自己の確立はあまり必

要ないと思っています。自己が確立するかまでまち、必要

以上に信仰を持ったと判断する時期を後ろ側に延ばすのは、

どうかなぁ、と思っています。

 「その教会の指導者夫妻は、大変尊敬されており、人格

的にもすばらしかったが、彼らの発言・行動はいつの間に

かその教会の不文律の行動規範になっていた。」これは、

痛いことばです。尊敬され、立派であればあるほど、

「その教会の不文律の行動規範」となることは発生しう

るでしょうねぇ。「○○さんがしているから、私も見習わ

ねば。」あるような気がしますねぇ。この辺が進みすぎる

と、カルト化傾向につながるのかもしれません。ちなみに、

キリスト集会の大半は、ちょっと「その教会の不文律の行

動規範」見たいなものが一部あるような雰囲気が漂うとこ

ろもありますが、大半は健全で、カルト化していないので

安心していいと思います。しかし、信者全体で無意識にか

もし出してしまう「その教会の不文律の行動規範」が自由

な行動を制限する危険性があるので、責任者の方々は、こ

のようなことがないよう「その教会の不文律の行動規範」

について絶えざる注意関心を払っておられると思います。

また、同時にそれぞれの信者は、自分自身の中にこのよう

なことがないよう、主体的に注意をしておられると思いま

す。そうであっても、そのような配慮は必要だとは思いま

す。これはキリスト集会に限らず、キリスト教会全体にい

えることとして。

 「彼らの生活は伝道中心で、いつも急を要することに

対応しており、落ち着く暇がないように見えた。」

 これまた痛いです。キリスト集会の皆さんは、伝道熱心

なので、このように見える教会(キリスト集会)もたくさん

ある様に思います。内実はそうではなくても。熱心な伝道

が、集う人に安心感を与えないとすれば、それが何を意味

するのか、ということを考えざるを得ません。反省しない

といけないなぁ。

 「信徒をきめ細かく牧会しようということに、あまり

使命は感じていなかった。」

 うーん。これは私自身にいえることですねぇ。伝道はす

るけれども、信仰者を育てようとしない。反省するしかな

いです。そうなんですよねぇ。誰しも、ロボットじゃない

んだから、バプテスマという形で教会にデビューした直後

は、やはり仮免許。本免許となっていただくためには、それ

相応の成長のためのプログラムが必要ですよねぇ。私が、

本免許(未だに仮免中かもしれませんが)に近い状態になる

ために非常に関心を払ってくださったのは、学生時代にお世

話になった北関東のキリスト教会(キリスト集会)の伝道者

の方だったです。その方がなければ、今のような視点を持ち

えたかどうか…。本当に得難いご対応を頂いたと今でも感謝

しています。

 「改善や変更を提案しても『教会批判』と受け止められる

リスクがあった。そこでは、慣例に従うことが最善とされて

いた。」

 キリスト教会でも、キリスト集会でも、そもそもの実施し

ている事象の目的と目標を忘れられて形式が守られていると

ころでは、そうかもしれません。ルターとカトリックとの関

係は、まさしくこの部分だったかと、思います。

 いずれにせよ、改善や変更は、これまでの行動の否定とな

り伝統との戦いともなりかねません。適切な、改善や変更は

重要だと思うのですが。

 「アルフ」というタイトルの宇宙人の出てくるアメリカの

シチュエーション・コメディの番組(NHK教育テレビで放送中)

がありますが、それのなかで、宇宙人のアルフが、伝統とお皿

はおんなじだ、といっています。なぜなら、両方とも壊される

ためにあるからだそうです。

 伝統は壊されるため、変更されるためにあるということを忘

れてはならないのではないかと思うのです。

続きます。


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