ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

石濱義則さんの思い出

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日本のブラザレン形成において、非常にユニークな活動をした石濱義則さんの問わず語りの記憶など
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神戸に戻った石濱さんの最後になりますが、神戸に定着していき、順調に歯科医院での忙しい毎日と、神のことばを伝道する毎日を過ごしていかれます。

戦後、神戸に戻ってこられたヘイさんと兵庫区三河口町の土地で福音を語ることになります。詳しいことは分からないのですが、この土地は、もともと兵庫区でも湊川公園や神戸大学医学部に近いところの土地を手当てされていたようなのですが、多分、戦後の神戸国際港都建設計画(現在もまだ進行中かな)などの都市計画の諸般の事情から移転したようですが、そこで、福音が語り始められます。

大きな道路から少し引っ込んだ場所にあったので、あまり飛び込みで集会所に入ってこられる方はいなかったようです。

これ以降の活動は、石濱さんの戦後の活動でまとめてお話したいと思います。

神戸に戻られて、金平町に自宅兼診療所を買われた石濱さんですが、その資金は、個人金融でされたようです。この時には、英語を使った伝道活動で関係のあったパルモアさんたち((ただしくは、関西学院大学のスミス教授と3人くらいの方が石濱支援ファンドをご用意されてというのが正しいそうです。)に5年か何かの契約で借りられたようです。

しかし、金平町には、競合する歯医者さんがいないために、朝から晩まで診療、技工と忙しい毎日を送られたようです。それまでは歯医者さんに取り囲まれるような場所で開業しておられたので、暇で暇でたまらない毎日でしたが、新しい診療所では、忙しくて忙しくてたまらない毎日だったようです。なんせ、開業前から、診療してくれないかという見込み客がどんどん来たそうですから。歯科衛生が十分普及していないじきだった為、住宅地とはいえ、三菱重工や川崎重工の社員さんが多い地域だったこともあり、お客さんは絶えなかったようです。

石濱さんは、真面目だった分、一生懸命診療に励まれたようです。また、一生懸命治療されるからこそ、お客さんが集まった、ということもあったようです。

それで、当初5年契約でパルモアさんたち((ただしくは、関西学院大学のスミス教授と3人くらいの方が石濱支援ファンドをご用意されてというのが正しいそうです。)から借りたお金も、2年だったか、3年だったかのうちに返済したそうですが、パルモアさんは、友人から利子を取ることは出来ないということで、利子相当分を受け取らなかった、ということをお話されていたことを思い出します。

そんなことを聞くたびに、当時はフーン、そんな変わったこともあるんだなぁ、と思っていましたが、神から愛され、人から愛された石濱さんだったんだな、と今になってみれば、思っています。

石濱さんは、以前もめた貸し金業者に土地と不動産の権利の関係でもめた際に、相談に行き、結局権利書を持って現れた新たな貸し金業者とトラブル解決のために、以前もめた貸し金業者に解決策を頼む(しかし、蛇の道はヘビという話はありますが、現在の法律概念から言えば、何をしているのか、ということになりますが)ことになります。

この貸し金業者は、今度も日本刀を持ちながら、石濱さんたちと新たな貸し金業者との間で話をし、すでに返金は済んでいるはずだ、ということで話をつけてしまいます。

結局、この話し合いの結果、突然、権利書が戻ってきたそうです。法律に疎いとはいえ、まぁ、むちゃくちゃがつい50年前までは当たり前に行われていたのだなぁ、という感想を改めて深くしました。こういう無茶苦茶がまかり通っていたことを考えると、法曹が市民社会に定着しかけている現在というのは、非常にありがたい社会なのかな、と思います。(とはいえ、闇金にしても、振り込め詐欺にしても、無法がまかり通っているように思います。)

この家を買うのに、宣教師にお金を借りる個人金融、不動産の問題解決するのにやくざまがいの貸し金業者の個人仲介による問題解決など、今の社会通念では考えられないことが当たり前であった、戦前戦後の社会であったことを書きながら思ってしまいます。

ほとんど、ワイルドワイルドウェストあるいはワイルドバンチの時代って言うのは、本当につい最近まであったし、現在のサラ金やヤミ金の原型は、この戦後の未熟な経済社会にあるのだなぁと思ってしまいます。

金平町に自宅兼診療所を建売を改造する形で買った石濱さんは、とりあえず営業を始めますが、自宅兼診療所を買ったとはいえ、権利書の処理をあいまいにしたままだったようです。(よくそんなことを、とは思いますが、今のようなリハウスとかリバブルとかいった大手業者の子会社が個人相手に商売していることも少なく、町の不動産業者兼ミニ開発のデベロッパーが不動産業の大半を占めていた時代です。このあたりの権利関係の処理というのがどうもあいまい、かなりいい加減だったようです。

石濱さんが診療所と自宅を兼ねた不動産を買った不動産業者というか建売業者も、相当弱小だったらしく、石濱さんがすごまれた以外の貸金業者にも借金があったらしく、どういうわけかは分かりませんが、石濱さんとそのご近所のかたがたが買った不動産の権利書が、買った人たちではなく、不動産業者から他の貸金業者の下へわたってしまい、権利書が宙ぶらりんの形になってしまい、不動産のトラブルになったようです。

そこで、どうも困ったらしく、とは言え、弁護士に相談するのでもなく、結局、前、トラブルになった貸金業者のところへ相談にいったそうです。

相談に行ったら、その貸金業者は、日本刀を研ぎながら石濱さんと応対したらしく、ずいぶんおっかなびっくりの想いをされたということを面白おかしく話しておられたのを思い出します。

このお話の続きは、また後ほど。

兵庫区の金平町の自宅兼医院を入手し、開業を始めたころだったはずですが、やくざというか貸金業者とトラブルになりかけます。

というのは、当時は、金融システムがまともに機能していなかったころですから、銀行が庶民に今みたいにリテールバンキングだ何だ、個人の資産運用だの何だのいって擦り寄ってきていないころですし、地方銀行も頭が高く、個人や零細業者に資産があるわけでなく、日本国中大企業は別として、資金運用的には、自転車操業状態だったわけですから、基本的に金融は、個人金融、あるいは講のような形での庶民金融しかありません。石濱さんが土地と建物を買った業者も、資金繰りが苦しかったらしく、今でいうサラ金、当時の庶民金融業者(高利貸し)から、借金をして、建築業を営んでいたらしく、庶民金融業者への返済が滞っていたために、石濱さんが支払いをするときには、貸金業者の前で支払いをするというのを約束させられたようです。

今では、考えられないことですが、日本は、金融システムがつい50年位前までは機能していない国でした。特に、個人金融は発達しておらず、これが現在のサラ金システムや商工ローンの諸問題を生む土壌になっているように思います。これはおまけの話。

とはいえ、忘れっぽく、世事に疎い純粋まっすぐな石濱さんは、それをすっかり忘れ、建築業者に支払いを貸金業者の前でするのを忘れてしまいます。それで、怒鳴り込まれて、違約金の支払いを要求されることになります。

結局は、落ち度が石濱さんにあるということで、少なからぬ違約金を支払われたようですが、これがあとで、意外な形で影響を及ぼします。


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