ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

石濱義則さんの思い出

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日本のブラザレン形成において、非常にユニークな活動をした石濱義則さんの問わず語りの記憶など
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第2次世界大戦、直後、山口の奥様の実家の近くで開業医の歯科技工士として働いておられました。

神戸(灘区)に、戦前持っておられたご自宅は、空襲で焼け落ちており、住むにも苦労されたようです。当時は日本国中、住宅難だったようですが。

また、石濱義則さんのお母様もお引取りになられたこともあり、あるお宅の間借りをする形で、押入れに住むような生活をしておられたようです。戦争後の住宅難のころですから、こういうことは当たり前のように行われていたようです。

戦争中の思想犯としての逮捕により、歯科医師免許も取り上げられ、技工士として働くしかない非常に厳しい毎日を送っておられたようです。しかし、戦後の思想犯に対する名誉回復の措置により、医師免許の再交付が可能になったこともあり、歯科医師の免許を関係する都道府県の医事関連部局に請求することになり、再交付を受けることになります。

それと相前後して、歯科医募集の新聞広告を見て、九州小倉の歯科医師のもとで、勤務医として働くことになります。そして、家族そろって、この小倉に引越しなさり、そこで、生活をされることになります。

この小倉の、歯科医院に採用されたきっかけが、まぁ、石濱さんらしい、といえば、石濱さんらしいきっかけで、名誉回復されているにもかかわらず、治安維持法違反などでの不当逮捕の結果を馬鹿正直に記載したから、というものだったようです。

戦争中の石浜義則さん

広島の政府系の施設の中におられたために、石浜義則さんは、原子爆弾の直撃を免れますが、周囲は相当な悲惨な現状だったようです。その施設には、政府批判を行った公務員の方や、朝鮮独立運動の韓国籍の方もおられたようです(韓国は、その当時国として存在しておらず、日本の一地方と言う扱いになっており、国家に対する反逆とされたようです)。結局広島市全体が、灰燼に帰したため、広島の政府系の施設から、山口の施設に移送されることになります。

とはいいながら、原爆の被害のため、当然、鉄道は動かないわけですから、結局歩ける人たちだけが、引率されて歩いて、山口に向かわれたそうです。山口に着くかどうか、あるいはついた直後に、1945年8月15日を迎えます。

一応、その段階で、施設で収容される必要がなくなったため、解散となったようです。

石浜さんの奥様のシナヨさんは、山口ご出身の方でしたから、奥様のご実家に向かわれたときに、韓国の独立運動の関係者の方も、一緒に、奥様のご実家に連れて行かれたようです。

奥様のご実家は、普通の家庭とはいえ、当時は配給制ですから、食べるものもまともになく、そこで唯一あった梅干のつぼを3人でうまいうまいといいながら食べ、数時間ですべてを空にしてしまったということを面白おかしく話してくださったことを覚えています。

その意味で、石浜さんは被爆者でもありました。しかし、石浜さんには自分は神様から守られた、という経験が非常に大きかったらしく、周囲が被爆者手帳を取得するように行っても、事実自分が原爆症にならなかったので(ここもご遺族の方からの追加情報に基づいています。情報提供感謝いたします。)自分は守られた、<b>主というかイェフェウェイは私の前で、守られた、神の御名はほむべきかな、といってなかなか、取得なさらなかったようです。

戦後のお話に続きます。

私が子供だった頃、福音集会で語ってくれたお話の中に戦争期の状況があります。

結局石濱さんは、イエスキリストを神として絶対に信じるということを主張したために、戦前に存在した治安維持法の関係で、いろいろごたごたがあったと語ってくれました。いろいろ迷われたようですが、世間からの印象をよくするため、結局伊勢神宮に参拝するということをされたようです。奥様もそれについていかれたそうですが、その帰り道、奥様のほうが、ダウンされしまいました。


で、まぁいろいろごたごたがあった結果、広島の政府系の施設に収容されることになります。そこに3年くらいいらっしゃったようです。その広島の政府系の施設の部屋で過ごしておられたときに運命の1945年8月6日午前8時に、原子爆弾が爆発し、たまたまいらっしゃった部屋の壁がコンクリート製だったこともあり、九死に一生を得た、というような感じだったようです。

急いで、部屋から出てみると、周りは瓦礫だらけ、市内あちこちで火の手は上がるは、原爆の熱線で皮膚が焼け爛れた人がいるはで、地獄とは、こういうところか、という換装をもたれたようです。

その中で「右に千人、左に万人倒れても・・・」という詩篇の言葉が思わず浮かび、神によってまた守られたという経験をされたようです。

宗教統制と石濱さん

戦前の日本は、特に、治安維持法が改正されてから、多くのキリスト教会、また新宗教は、国家管理の宗教団体になっていくことを要請されます。

しかし、石濱さんたちは、このような考え方にわざとなのか、たまたまうっかりだったのかはよくわかりませんが、宗教団体を作らずに、イエスキリストを述べ伝えていきます。

その結果、思想警察でもある特別高等警察からマークされます。今で言う公安庁です。

特に石濱さんたちは直情型の方々だったからか、気骨のある方々だったからかはわかりませんが、世間で当たり前に行われいる宮城礼拝やご真影の礼拝をすることはありませんでした。それどころか、挑発するように公園などで路傍伝道していたようです。

石濱義則さんが話してくださった、お話の中で、最も印象的なお話の一つが、第二次世界大戦の前に、イエスキリストを述べ伝えることによって、逮捕された話です。

イギリスのブラザレンも、日本のブラザレンも、第二次世界大戦以前のもっともポピュラーな伝道方法は、路傍伝道とか、街頭演説でした。

今のようにメディアが普及し、よしあしは別として、Power for Living見たいにテレビコマーシャルを打てるわけでもなし、また、新聞などのメディアが限られ、それへの広告が資金的にも、制度的にも非常にやりにくい時代、何もなくてもできる伝道方法、それが、路傍伝道だったわけです。

昔は、失業者も何もすることがなく、街頭に仕事がないかたむろしていた時代ですし、家にラジオがあるのは限られた家だけ、娯楽自体も少ないとなると、路傍で話をしているだけで人が面白いように集まったようです。

社会自体ものんきなので、路傍伝道していると、集まってきたようです。少なくとも、イギリスでは、失業者が道にあふれていた時代、路傍伝道は有効なツールであったということが、Roger N. Shuff(2007)
Searching for the True Church: Brethren and Evangelicals in Mid-Twentieth-Century England (Studies in Evangelical History and Thought) に出てきます。

同じような話は、
Neil Dickson (2003)Brethren in Scotland 1838-2000 にも出てきます。

石濱さんは、人通りが多い新開地、陸軍関係の軍神とされていた楠正成を主祭神とする湊川神社の前、市営路面電車のターミナルのあった神戸駅前などで、主に街頭演説をしていたようです。

戦争が始まっても、そして、翼賛的な社会制度となっても、自ら信じるところにしたがって聖書とそこに示される神の話をずっとされておられたようです。その中で、特別高等警察(いわゆる特高)に目をつけられ、特に、神社批判、天皇を神とする翼賛的な社会のあり方の批判をする中で、逮捕され、留置場に収監されます。
記憶によれば、湊川神社で天皇制批判、現人神の批判をしたようです。1回目は特高も見逃したようですが、2回目は、確信犯ということで、2回目の批判の後、逮捕されます。

この続きは近日中に。


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