ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

英国史とブラザレン

[ リスト | 詳細 ]

ブラザレンとの関連から見た英国史
記事検索
検索

 
 多分、初期のイギリスのブラザレン運動で他のクリスチャン達に

大きな影響を与え、最も有名な人物といえば、ジョージ・ミューラ

ーですが、(ウォッチマン・ニーもかなり影響を与えているものの独

自に中国でブラザレン運動の影響を受けた運動というニュアンスが強

く、後に大きく変質して行ったように考えます。)彼とその盟友とも

言うべきクレイクの行動について、次のような記述が、Tim Grassの

Gathering to His Nameの43ページには、次のような記述が見られます。

---------------------------------------------------------------

 クレイクとミューラーのデボンでの交友の深まりはこれ以前に示し

たとおり(註:ここは省略しています)ですが、1832年の3月にクレイ

クは、ブリストルの国教会のホーカーの影響やベテスダ集会の一部を

占めた西方分離派と呼ばれた福音復興運動と協調していた人々からな

る分離派グループの牧会のために招かれました。このギデオンチャペル

では非常に活発な働きが見られていたのです。クレイクの滞在は成功

で、彼は、この後、常勤として招かれることとなったのでした。1832

年にクレイクは、ミューラーと一緒に公式的な意味でパスター(牧師)

となるのではないという理解でその地での奉仕の責任を取ることにな

りました。信者からの定額献金の形での収入を廃止し、デボンでして

いたように会堂内に置いた献金箱からの援助のみとすることとしまし

た。既存の教会の規則に縛られることなく、聖書が教えることを自由

に話すことになりました。ベテスダが存在しておらず、ベテスダ集会

での仕事がこの段階ではなかったため、やや性格の異なる二つの会衆

のお世話をすることとなりました。一つはやや伝統的な教会のスタイ

ルを保ったもので、もう一つは、クレイクとミューラーの聖書の理解

に沿ったところからスタートしたものだったのです。

以上翻訳終わり
---------------------------------------------------------------

 上記のような集会のあり方を見ていると、今の集会のあり方が、基

本的にこの段階に確立されたのだなぁ、ということを見ることができ

るように思います。パスターではない、というあたりに、ブラザレン

が出発点から持っていたこだわりを見ることができるように思います。

 それと、実際に多様な信者からなる運動だったんだ、ということを

改めてこの文章を読みながら思いました。


参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209

 ブラザレンの出発点でのクェーカー派やカルバン派の人々、国教会

の人々などさまざまな人々が参加することで出来上がって言った運動

でしたが、バプティスト派の人々も少なからぬ影響を与えています。

ミューラーだけではなく。

元々、教派で区別することに疑問を持った人々の集まりであったわけ

ですから、当然といえば当然ですが。元々、幅広い信者の人々との連

携を求めて始まった運動とはいえ、その後150年ほどを経る中で、『教

会』という名称へのこだわりとか、過去からの伝統というのか、過去

これまで言い続けてきた他の教会観から、やや孤立的な立場をとって

いることの多い現代のブラザレン運動って、なんなんだろうと思いま

した。とはいえ、個人ベースでのクリスチャン間の交わりというもの

は、大事にした方が良いように思うのですけれども。細かなことは乗

り越えて。

Tim GrassのGathering to His Nameの39ページには、次のような記述

が見られます。

---------------------------------------------------------------

 北デボンでは、バーンステイプルにあるパティキュラーバプティスト

教会は、ロバート・クリーバー・チャップマンの働きによって、次第に

ブラザレンの集会に変わっていきました。チャップマンの献身生活の長

さは、ブラザレンの信者の中で非常に大きな影響を与えました。彼は、

ロンドンの事務弁護士でしたが、1823年にジェームス・ハリントン・エ

バンズの牧会の中で、信仰の確信を持ったのでした。

以上翻訳終わり
---------------------------------------------------------------

 このチャップマンさんの著作は、現在も読まれていて、伝道出版社か

ら、チャップマン霊想録という書籍として出版されています。この辺の

神との交わりの深さを重視するのが、ブラザレンの特徴とも言えるでし

ょう。

参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209

 ブラザレン運動に関係する信徒の集団やその信徒が集まっている

キリスト集会(教会)のグループの総称として、プリマス・ブラザ

レンという言い方をすることがあります。別に教団をなしている訳

ではないのですが、全体を指し示すことばがないために、デボン

(イングランド)のプリマスからきた兄弟姉妹と相互に呼び合って

いるキリスト者集団、ということで、プリマス・ブラザレンと総称

されるようです。その意味で、外部から与えられた名称でしかあり

ませんが、分類上便利なので、これを使うことが多いようです。私

は、あまりこの表現に抵抗感を感じません。説明が簡単になること

が多いので。このプリマス・ブラザレンという表現がされる場合、

一般に、Exclusive BrethrenもOpen Brethrenもともに含むことが

多いようです。プリマスでこの運動が進展した背景について、

Tim GrassのGathering to His Nameの34ページには、次のような

表現があります。

元々、ブラザレン運動を受け入れる素地が、プリマスにあったという

ことのようです。

---------------------------------------------------------
 プリマスは、この新しい運動の豊かな畑の役割を果たした。この

土地は、国教会のカルバン派の司祭でもあるロバート・ホーカー

(1753-1827)の牧会によって、その土地での受け入れが準備されて

いたのである。プリマスのブラザレン運動の初期のメンバーの多くは、

ホーカーの教会のメンバーであって、彼の死後、その教会は非常に不

安定な状態であった。ニュートンは、群れから離れたミツバチのよう

に、集まっていた、ということを何度か思い出しています。ダービー

がこのプリマスを訪れたのが、1830年の8月ごろで、プリマスのこの教

会で福音宣教をするようにと招かれたのであった。

以上翻訳終わり
------------------------------------------------------------

 こういう状況を見ていると、運動の初期の出発点では、他の教会の

方々の集会からの信者を多く受け入れ、そして、大きくなってきたこ

と、他の教会の影響を受けながら、拡大していったことを見ることが

できるように思います。本来、他派との差別化からの出発をはかった

というよりは、信者として聖書に忠実に従う一つの群れができないか、

ということを考えた結果、他の教会に集う上での問題を抱えておられ

た信者の方を引き寄せて言った、という事を見ることができるように

思います。この後、1840年代後半に発生したプリマスでのある出来事が、

独立型(オープン)ブラザレン、連結型(エクスクルーシブ)ブラザレ

ンの2グループに分かれていく原因となります。その意味でも、ブラザ

レン運動にとっては、プリマスということは特別の意味を持つ場所の

ようです。


参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209
  

ジョージ・ミューラーがルター派の牧師となるために、準備を

している間に改心し、その後ユダヤ人伝道を目指した人物である

ことはよく知られていることですが、この人がどういう経緯で、

ブラザレン運動に関与していったのかという経緯に関してですが、

これにも結婚の影響が見られるようです。ミューラーとその友人

のクレイクについて、Tim GrassのGathering to His Nameの33ペ

ージには、次のような記述があります。

---------------------------------------------------------
 ジョージ・ミューラーはグローブスと同様に、既存の宗教組織、

福音を語るのに叙任が必要であることを否定するようになり、

1830年の1月に、LSPCJ(London Society for Promoting

Christianity among the Jewsロンドンユダヤ人クリスチャン増加

推進会)との関係を経つことになりました。彼はユダヤ人だけでは

なく、幅広くより多くの人を救うために、巡回伝道に神の召命を感

じ、人間の指示に従うよりも、聖霊の導きに自由に従いと願ったの

でした。彼は、テインマウス(Teignmouth)の国教会でない教会の牧

師となったのでした。1830年にポルティモア(Poltimore)で出会った

グローブの妹のメアリーと結婚したのでした。クレイクは、幼児バ

プテスマを否定するようになり、1831年にSyngeと一緒にシャルドン

の村の近所のバプティスト教会の責任を取ることになりました。こ

の教会で、ミューラーは信者として、バプテスマを受けたのでした。

ミューラーは、主の晩餐(聖餐式)を行うようになり、開かれた教会

運営のために時間を割き始めた。

以上翻訳終わり
------------------------------------------------------------

 ジョージ・ミューラーは元々は、教派の牧師さんを目指し、ユダヤ人

伝道を目指しましたが、より広い範囲の人々への伝道を目指して、活動

していくうちに、バプティスト運動に関与し、さらにブラザレン運動に

関与していくことになります。

 その意味で、色々なキリスト教会の可能性を考え、その結果、ブラザ

レン運動にたどり着いた、というところがあるようです。しかし、ジョ

ージ・ミューラーの奥さんがA.N.グローブスの妹(訂正しました)なの

で、そのあたりから、ブラザレンの運動に関与していったものと思いま

す。そういう意味で言うと、奥さんの影響や、婚姻を介して発生するさ

まざまな影響がブラザレン運動では大きかったという事実があったよう

です。

 以前にも書きましたように、婚姻関係という人間関係のネットワー

クを通じて、この運動が維持されてきたという歴史的側面もあるので、

ブラザレンのキリスト者のグループでは、ブラザレン同士の結婚という

ことが勧められるのかもしれません。しかし、教会という組織において

人間の指示に従うよりも、聖霊に自由に従いたいというあたり、ブラザ

レン的な発想だなぁ、と思います。

参考文献

Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209
 

 ブラザレンの初期のリーダー達とオックスフォード大学との関係について

少し触れておきたいと思います。

 ブラザレン運動は、アイルランドで始まった運動なので、アイルランドの

大学(ダブリンにあったトリニティカレッジ)の関係者が多いのですが、実

は、オックスフォードの出身者もかなりいます。このことについて、Tim

Grassの Gathering to His Name29-31ページには、には4人の代表的なブラ

ザレンの初期の関係者が触れられています。

------------------------------------------------------------
将来のブラザレンのリーダになる何人かは、1820年代にオックスフォードの

学生であった。この時期は、オックスフォードでの福音主義が非常に移ろいや

すい状況にあり、また福音主義の中での対立が特徴的であった時代です。この

時期の学生の中に、19世紀のブラザレンの中でも最も秀でた頭脳の持ち主の一

人とされたニュートン(註:彼が後にダービーと人としてのキリストの理解を

契機として対立し、最初の大分裂が起きる)がいた。ニュートンはクエーカー

教徒の家族であったが、彼が学校時代の先生で、プリマス近郊のDiptfordの教

区の責任を負っていた元クエーカー教徒のThomas Byrthの国教会的な理解に影

響を強く受けていた。(中略)ニュートンが福音派に転向したのは、Exeterの

学生であった1827年であった。(以下略)

 2番目のオックスフォード出身のブラザレンのメンバーは、Henry Bellenden

Bulteel(1895-66) でExeterのフェローでSt Ebbe'sの聖職者(副牧師)でした。

ブルーテルが福音派に転向したのは、1825または1826年で、カルバン派に属し

ました。(以下略)

 3番目の有名なオックスフォード関係者は、George Vicesimus Wigram

(1805-79)でQueen’sの学生で、1824年に福音派に転向しました。ブルーテ

ルは、ニュートンをウィグラムに1827年秋に紹介し、ニュートンはウィグラ

ムに他のオックスフォードの福音派のだれよりも親近感を抱いたのでした。


 最後のオックスフォード関係者は、F.W. Newman(1805-97)でJohn Henry

Newman(オックスフォードでのカトリックよりの神学的傾向への復古運動の

指導者)の弟であった。F.W. Newmanは在学中に福音派に転向し、1826年に

ウースターカレッジを卒業し、Balloilのフェローに選出された。Newmanは

1827年秋にダブリンに行き、ダービーの義理の弟の家庭教師になった。

(以下略)

以上翻訳終わり
------------------------------------------------------------

 こうゆうブラザレンの初期のリーダー達の状況を見ていると、彼らが非常

に聖書に詳しい理由が分かります。特に、高学歴の人々が多く、それが初期

の指導者になったということは、後にまた引用しますが、ブラザレンが現代

の日本やアメリカ社会で想定されるような民主主義的な志向性を持った運動

ではなく、階級社会を背景にしつつ貴族やジェントリー階級(紳士階級)が

中心的な役割を一定程度はたすことが、そもそも内在的にあった可能性があ

るように思います。(イギリスは、やはり階級社会ですし、1830年代は現在

よりもその傾向がかなり強いと思います。)
 
また、翻訳しませんでしたが、1830年の春に、スコットランド西部でカリス

マ的な兆候が現れた運動(西方分離派運動)が知られるようになったことも

あり、1820-30年代は、福音派が非常にイギリスのキリスト教会では大きな影

響力を持ち、そして多くのキリスト教会の関係者が、聖霊の働きやリバイバル

や、福音を重視する考え方に影響を受けた時代であることが分かります。

ロイド・ジョンズは、この辺の雰囲気を若干でも知る人だったようで、彼の

リバイバルという本を読む時に、純粋に信仰復興運動への期待ということを

感じることができます。

参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209


.
kaw*muk*ih
kaw*muk*ih
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事