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			<title>ブラザレンについての諸断章</title>
			<description>ブラザレン（あるいはプリマスブラザレン、プリマス・ブレズレン、ブレズレン、いろいろと呼ばれることがありますが）として知られている単立のプロテスタント系キリスト教会（自称キリスト集会）について、調べていること、考えていること、観測したことのメモをちょこっとづつ載せます。
実は、キリスト集会の一つの集会のメンバーですが、この中で記載されていることは、私の所属するブラザレンの集会（教会）の公式見解ではありません。また、一部経験に関しても、すべてが現在所属するキリスト集会での経験ではありません。誤解がないようにお願いします。もし、ご異論やご意見、ご異見がある場合は、コメント、およびゲストブックから直接ご連絡ください。迷惑メールがただでさえ多いので、メールアドレスの公開はいたしておりません。ご了承ください。
また、このブログと直接関係のないゲストブックへのコメントはご遠慮くださいますように。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>ブラザレンについての諸断章</title>
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			<description>ブラザレン（あるいはプリマスブラザレン、プリマス・ブレズレン、ブレズレン、いろいろと呼ばれることがありますが）として知られている単立のプロテスタント系キリスト教会（自称キリスト集会）について、調べていること、考えていること、観測したことのメモをちょこっとづつ載せます。
実は、キリスト集会の一つの集会のメンバーですが、この中で記載されていることは、私の所属するブラザレンの集会（教会）の公式見解ではありません。また、一部経験に関しても、すべてが現在所属するキリスト集会での経験ではありません。誤解がないようにお願いします。もし、ご異論やご意見、ご異見がある場合は、コメント、およびゲストブックから直接ご連絡ください。迷惑メールがただでさえ多いので、メールアドレスの公開はいたしておりません。ご了承ください。
また、このブログと直接関係のないゲストブックへのコメントはご遠慮くださいますように。</description>
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		<item>
			<title>まとめ(3)</title>
			<description>&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;聖書理解の多様性について&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;　ある面、現在のあるキリスト集会にある程度同じような人々が集まっていることはしょうがないと思うけれども、しかし、集会の構成メンバーの諸属性と、集会のありようそのものに多様性があまり尊重されないのは、個人として、少し困った問題だと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　世の中が多様な人々から構成されるように、キリスト集会も多様な人々から構成されているといいなぁ、多様な考えを持つ人々から構成されているといいなぁ、と思う。逆に、同一集会内で同一の考えでなければならない、同一の考えを共有せねばならない、という同一性のトラップにとどまらないほうがいいなぁ、と思っている。そして、異なった雰囲気をもつキリスト集会同士がお付き合いできないこと、多様な教会群とキリスト集会がフランクにお付き合いできたりすることが妨げられたり、交流が妨げられるのは、かなわないなぁ、と思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;一致と同一は同じではないのでは?&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　個人的には、一致と同一であることは違うと思うし、真理や美しさの表現の仕方は人それぞれ違うのだ。より具体的には、真理に関して数学者ないし工学者は連立微分方程式として頭に描くであろうし、画家は2次元画像として頭に描くだろう。そして彫刻家は3次元画像として、計算機屋は、レイトレーシング型ソフトを使ったCG画像で表現するだろう。水墨画家は白黒のグレースケールで、そして、短歌作家は短歌で、小説家は文章表現で、そして俳句作家は臭くとして表現するだろう。同じものを見手、それが美しいと思ったとしても。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;多様であることの意味&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　ところで、生物学的には、多様性がないと、外部からのショックが来た時にショックを吸収でききれないことが多いからである。そして、一気に全滅の道を走るからである。私が別の方向に向いているのも、個人的には、キリスト集会の精神を残すためだと思っている。それは理解されない方が多いでしょうけど。それはしょうがないと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　人それぞれが別の方向から一つのものを見ている、それこそが多様性を喜ぶということではないか、と思うのだ。神ご自身は創造の御業を終えられ、実に多様な生物の住む姿をご覧になられ、「美しい」とおっしゃられた。そして、ノアの洪水の時も、多様な動物を残すべく、一見役に立たない私のようなどう考えても役に立ちそうもない動物ですら箱船の中、すなわち神の支配の中に入れられたのだと、思っている。無用の用というか、多様性の豊かさを喜ばれる神、ということは考えたほうがよいかもしれない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;神に代わって人間が判断することの恐ろしさ&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;　その意味で、「あの人が救われているのではないか」とか、「この人々は救われていないのではないか」とか、救いがはっきりしていないのではないか、というような発言はその言葉を向けようとしておられる方々に対して、失礼千万であるばかりか、それは自分自身を神の座に引き上げていることになるのではないか、と思う。わからないことは、無理にわかろうとせず、そこは、天においても、地においても神の御思いがなりますように、と祈ることが重要ではないだろうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;伝道とは何か&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　最期に、伝道とは何か？ということを考えたい。伝道とは、自分が生きている間に自分がいるキリスト集会の信者として受け入れることだけだろうか。個人的にはそうではないと思う。キリスト集会でイエスを知り、バプテスト派の教会で洗礼を受ける人、キリスト集会でイエスを知り洗礼を受け、メソジスト派の教会人として生きる人、そして、キリスト集会の日曜学校で讃美歌をうたって、何十年か後にカトリック教会の信徒になる人、すべて、キリストというお方が、宣言あるいは伝道された結果である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　伝道を自分のところに来る信者の増加と近視眼的に直結させて考えてないだろうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;新改訳聖書　第3版　ヨハネ福音書&lt;br&gt;
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。&lt;br&gt;
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。&lt;br&gt;
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
　ここで、蒔く人と刈るものは一つであり、共に喜ぶことになることが書かれてないだろうか。我々は神にあって一つだとパウロさんもいっておられるのではないだろうか。キリスト集会には、他のキリスト者がまいた種の結果として、神の民になった人が信者として加わっておられるだけかもしれない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;幅ひろいキリストのからだと生きる&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　その点で、自分たちを中心に考えたり、自分たちを正統的で唯一の真理の保有者と思うのではなく、幅ひろいキリストの体とのキリストという中心に目を向けながら相互のかかわりと関連を大事にすべきではないだろうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ナウエンというオランダ生まれのカトリックの司祭で、米国を中心とした所謂リベラル派から、がちがちの福音派の人々の間で非常に高い作家がおられる。ナウエンはその作品の「いまここに生きる」（あめんどう刊）中で、次のように言っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;このような車輪は、人生をその中心から生きることの大切さを理解させてくれます。外輪に沿ってたどっていくと、スポークには一本づつした触れることができませんが、中心の車軸にいれば、すべてのスポークに同時に触れることができます。　祈るとは、あらゆるいのちとすべての愛の中心に向かうことです。祈ることでいのちの中心に近づけば近づくほど、力と活力を受け取ることの全ての近づきます。(中略)私の注意をいのちの中心部に向けるようにすれば、中心にとどまりながら、人生の豊かな多様性に触れることができます。&lt;br&gt;
　車輪のことは何を指しているでしょうか。私はそれを、私自身の心、また神の心、そしてこの世界のこころと考えています。私が祈る時、私は自分のこころの真ん中に入り、そこで愛について語ってくださる神の心を見出します。そして、まさにそのところで、私の兄弟姉妹すべてが、互いに聖なる交わりの中にいることを認めることができます。&lt;br&gt;
　霊的生活における大きな逆説は、最も個人的なことは最も普遍的であり、最も親密な関係はだれもが共有できるものであり、もっとも観想的なこと(訳注・沈黙の中に神の臨在を求めること）は最も活動的である、ということにあります。&lt;br&gt;
　荷馬車の車輪が教えてくれることは、車軸が、たとえそれがまったく動いていないように見えても、全ての活力と動きの中心であるということです。神にあっては、あらゆる活動と休息は一つなのです。祈りもまた同じです。”&lt;br&gt;
　『いま、ここに生きる　日常生活の中の霊性』　ヘンリ・ナーウェン　太田和功一訳　あめんどう　pp.27-28&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/56/42053956/img_1_m?1515068704&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_1200_801&quot; height=&quot;300&quot; width=&quot;450&quot;/&gt;&lt;br&gt;
木製のワゴンの車輪&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/56/42053956/img_0_m?1515068704&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_235_346&quot; height=&quot;223&quot; width=&quot;151&quot;/&gt;&lt;br&gt;
名著　いま、ここに生きる&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
　神の前に心を静まり、祈り、そして、神とともに生きる人々ともに生きること、ちょうど古いワゴンの車輪が、木製のスポークだけでも、車輪のリム部分の一部だけでも存在しないように、我々は他の車輪のリムやスポークを必要とするのではないだろうか。そして、神の車輪を構成しているのかもしれない。さらにいえば何より、神というお方、イエスというお方が動いておられないように見えたとしても、着実に神ご自身の意図をもって存在しつつ、神に心を向ける祈りをもって、他のキリストの車軸を尊敬しながら生きたいと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、上の引用の中で思うのは、我々は、ともすれば聖書の話だけを一生懸命語ることを伝道と呼んでいないか、という反省である。”もっとも観想的なこと(訳注・沈黙の中に神の臨在を求めること）は最も活動的である””神にあっては、あらゆる活動と休息は一つなのです。祈りもまた同じです。”という部分を読みながら、伝道とは、感想的なことの側面が大きいのではないか、祈るあるいは神の御思いを求めること、神の御思いがなることを求めることを、望むことではないかと思っている。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
結びにかえて&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　まぁ、この連載で、自分のキリスト教徒としての歩みをざっと振り返ってみたが、まぁ、いろいろあったし、面白いことも、、悲しいことも、楽しいことも、苦しいこともあったが、その中で、インマヌエル、神我等と共にあり、と命名された方がともにおられたことの一端を体験できた人生であったと思う。24時間時計で、現在午後３時頃を迎えていく中で、そして、闇に向かっていく準備をする中で、こういう機会はある面でありがたかったかもしれない。この機会を作ってくれた、敬愛してやまない年下の畏友NT氏にこころから感謝の意を表したい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　しかし、このブログも、休眠中であったが、この記事の連載以来、アクセス数が増えている。どうも、御要望があるようなので、ブラザレン関係の記事も、あまりハイペースでなく公開していきたいとは想っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;　&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;こちらのブログともう一つのブログは、研究書や専門書を出版しにくいし、信徒が買いにくい現状において、個人的な研究成果の公開と社会への還元（最近、東京にある某役所がこれでうるさい）の一環としてやっている。現代のテント集会であるし、野外学び会（のら学び会）としてやっている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　キリスト者ならこんな個人研究に現をぬかさず、信徒でない方向けの福音を語るべし、という向きもあろうが、そんなサイトはごまんとあるし、そちらの方がよいことが多いので、特段私が書いたところで社会的貢献にもならないし、社会に還元したことにならないと思っているから、途中からやめた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、本日で最後になるこの連載記事も、キリスト集会の人よりも、案外とキリスト集会以外の方が結構読まれておられたようである。読んでいただいた方にこころからの御礼を申し上げ、このシリーズはいったん休筆とし、暫時、観想の時を持ちたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
おしまい&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42053956.html</link>
			<pubDate>Wed, 18 Mar 2015 06:10:34 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>まとめ(2)</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;ブレーキとしての神学&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;なお、ある関西の私より若いある信徒さんに&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;「○○さん、僕は、神学はブレーキやと思てんねん。アクセルやのうて。自分らが行き過ぎそうになった時にそれを止めるブレーキやと思てんねん。神学を学んだところで、伝道する内容はそうは変わらへん。でも、自分らの聖書理解の故の行き過ぎや暴走は、神学を学ぶこと、そして、神学的に考えることで止めることができるんちゃうやろか。（大意）」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
というお話をしたことがある。この考えは変わっていない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　過去の神学的思惟、「神学」というのは、それまでの神学的思惟ないし神学ががまずいがゆえに、その神学の一種の行き過ぎに対して「自分はこう思う」という聖書理解と聖書理解に基づく疑義として出来上がってきたものではないか、と思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ところで、本来ブレーキであるものを、アクセルとして利用すると、ろくなことが起こらない。その代表例が、&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=4344&quot;&gt;「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」&lt;/a&gt;ではなかろうか、と思う。この書簡の作成では、自分たちの聖書理解（神学）をアクセルとして使ったような気がしている。神学あるいは自分たちの聖書理解をアクセルとしていたのは、彼らだけではない。キリスト集会も自分たちの聖書理解をアクセルにしていた部分があるように思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/92/42052192/img_0_m?1426594055&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_450_450&quot; height=&quot;368&quot; width=&quot;368&quot;/&gt;&lt;br&gt;
ペースを落としましょう　の交通標識&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;行きすぎた理性的信仰への反動としての&lt;br&gt;
キリスト集会独自の神学&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　キリスト集会もそうであるように思うのだ。そもそも、集会の終末理解やディスペンセイション神学は集会が成立した前後の数十年間にみられた当時の行き過ぎたユニテリアン的（人間中心型の理性重視型）聖書理解や、理性的聖書理解、合理的に理解可能な部分だけを切り出して受け止めるような聖書理解や、聖書批評学などへの反動として起きたように思うのだ。つまり行き過ぎた理性主義的な聖書理解を否定しようとしたブレーキをかけようとして、ブレーキを必死になって踏んで、行き過ぎを止めようとした結果、ディスペンセイション的な聖書理解が生まれたのではないか、と思うのだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;ブレーキであることが忘れられた神学&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　当初ディスペンセイショナルな聖書理解(神学)を主張した人々は、それがブレーキであることを知っていた、と思われる。しかし、世代が変わっていくうちに、それを次第にアクセルとして使うようになる。つまり、前々回ご紹介したアウグスティヌス先生の「性交渉を経由して罪は次の世代に引き継がれる」が「罪とは性交渉のことである」となってしまったと同じようなことが起きたと思うのだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;「このままいくと地獄行きだから、はやく、イエス様信じなさい」&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;と。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そしてそのための素材として、終末理解やディスペンセイション主義が使われ、それが、聖書と同等の位置を占め、聖書そのものの理解をまとめたもののようにしてお話ししてしまう人々もいないわけではなかったろう。それはまずいと思うから、キリスト集会の一員の弁証家の一人として、「それ、まずくないですかねぇ」って申し上げているだけである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;聖書を読むこと、即ち、神学的行為&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　そして、個人としては、聖書はバランスよく読むそして、丁寧に読むことが必要だと思っている。あなたの聖書を閉じて、聖書の横側、聖書のページをめくる部分を見てほしい。特定の場所が手垢で黒くなっていたり、金箔がはがれていないだろうか、そうなっていたら少し注意が必要かもしれない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　こんな風に聖書の特定の部分だけが手あかで黒くなっていたりするのは、あなたが、そこを中心に読んでいるからである。あるいは、聖書の特定の部分だけがちょっと波打ちながら、外にはみ出てないだろうか。それは、もうちょっと危険である。そこだけをかなり集中的に読むと聖書はそうなる。それは、聖書を片寄って読んでいることに他ならなないのだ。こういう読みをすると、基礎が弱い聖書理解になるような気がする。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　まぁ、新改訳聖書は、装丁が弱いので、何度もそこを開くと、その部分だけアンコが飛び出したようになりやすいが。そこは翻訳と同じくらい改良してほしい、とはおもっている。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
未来も大事だけど、過去も大事&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　集会の方の一部には、非常に過去への理解が薄く、現在と未来に関する理解にかんして、極めて理解が深い方々がおられる。この場合、足腰が細くて、腕と胸と頭だけが異様に発達しておられるのではないか、と思われるような方々も一部におられる。キリスト集会の過去にもキリスト教の過去にも興味がなく、キリスト集会の現在とキリスト集会の未来だけの理解が非常に深い方々である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　それって、バランスが悪いようにも思うのだ。そう思う私の方がバランス悪いのだろうけど。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　我々の聖書理解は、東方教会の聖書理解、カトリックの聖書理解、ルター派、カルヴァン派、アナバプテスト派、ウェスレー派など様々な広いキリスト教の体の影響を受けて作り出され、つむぎ続けられている、建てあげられ続けているような聖書理解の存在、というその側面を忘れてはならないと思うし、そこは尊重しないといけないのではないか、と思うのだ。三位一体は、キリスト集会の発明ではなく、東方教会、カトリック教会が成立していく背景の中で結晶化した過去の遺産であることを我々は見つめたほうがよいのではないだろうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;聖書をじっくりゆっくり落ち着いて読むこと&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　聖書を読むというときに、聖書の速読競争に走ってないだろうか。一語一語の意味をじっくりと思いめぐらしながら、かみしめながら読んでいるだろうか。それをしてないのであれば、あなたは聖書を十分読んでいるといえるだろうか。それをしてないのであれば、とりあえず「はんこ」を押すためだけに紙をまくっているのとあまりかわらないのであり、ナンセンスではないかなぁ、と思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　まぁ、5年たっても、10年たっても新品同様の同じ聖書をお持ちの方は、違う意味で問題をお持ちでないか、と思う。最近は、キンドルで読む人が増えているので、紙版聖書も、キンドル版聖書も新品同様のままかもしれないが。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　最近は、アプリで聖書を読んでいることも多い。だって、重いんだもん。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
次回、最終回まとめ３　へ&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42052192.html</link>
			<pubDate>Tue, 17 Mar 2015 07:05:32 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>あとがき(1)</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;自分の位置を定めるために遠くのものが必要では？&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　私にとっての広いネットワークが急速に広がったのは、FacebookやTwitterを使いだしてからである。特に、キリスト者の幅広いネットワークを持つ方々とFacebookでお付き合いするうちに、かなり情報が集まってきた。それを後は、地図のように空間（2次元ないし3次元　これくらいが、人間の理解の範囲）に配置し直し、その地図の精度がどれほどであるかを検討する作業をしないといけないかなぁ、と思っている。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
位置特定と地図表記の精度&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　地図には、相対的な位置関係の正確性と絶対的な位置関係の二つの正確性の概念がある。相対的な位置関係の精度は、大阪は、名古屋より西の方に配置されないという位置関係の相対性や、日本は、アメリカから、相対的に西方に配置されていなければならないという相対的な関係性である。もう一つ、絶対的な位置関係の精度は、大阪は、東京から、XXX&amp;#13214;西方にあり、方向は**度の方向に配置されなければならない、という正確性である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　現在は測量でも、GPS測量という方法がとられることが一般的で、GPSデータを使って、調査した一店の位置を高精度で定めることができる。もっと制度を求めようと思ったら、より遠方にある電波星からの電波を使って求めることができる。測定は大変だが、精度は非常に高い（細かなことを言うとジオイド高とかというのもあるのだが、これはまぁ、いいだろう）。より遠方にある（つまりかなり自分からはかけ離れたもの）を使って測定する方が、より近くにある（より自分と似たもの）ものを使うより、より高精度に相対位置にしても絶対位置にしても特定可能なのである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;遠望も大事かも&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　近くばかり見ていると、違いの区別ができにくくなる（細部にこだわりすぎる）ため、いったん遠く離れてバランスをとった方が、正確な画面構成が取れるのと同じである。これが、なぜ私が、同じキリスト教でもより遠く離れたグループと思われている方々の著作やお考えを拝聴する理由である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり自分の所在地を、これらの方々の位置を参考にしながら、自分の位置は大体このあたりか、というのを定めているのである。自分を中心に相手の位置関係を定めるのではなく、相手を基準に自分の位置関係を定めている、といった方がよいであろうか。丁度、関東平野で迷子になったら、富士山なり、筑波山なり、榛名山なりの目立つ山を使いながら、太陽の位置とこれらの山の関係をつかんで、移動すれば目的地に着く（カーナビがない時代に運転を覚えたので、今でもこれで不自由はしない）のと同じである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;自分の位置を他者とのかかわりでとらえる&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　まぁ、現在最新の研究の一環として、Open Linked Dataというところで使われた図か方法(リンク数とリンクとがつながりかたを用いて分類する）などの方法もあるので、そのうち自分のリンクとかでやってみようかなぁと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/98/42050198/img_0_m?1426450002&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_720_557&quot; height=&quot;348&quot; width=&quot;451&quot;/&gt;&lt;br&gt;
Linked Dataのマッピングの例&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;混乱が生じた時には&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　筑波山の中で彷徨しはじめたときには、筑波山そのものを基準にしたら迷うのである。いくら、平野の中の単峰といっても。筑波山で迷ったら、どこかの尾根に出て、筑波山以外の確認しやすいもの、たとえば霞ケ浦か、少し離れた大きな町（たとえば下妻とか石岡とか）を探して、位置を特定しないと、迷ったままである。全員が全員、遠望する必要はないが、集会のリーダーの方は、集会の人々（登山で言うところのパーティ）を率いるリーダーとして迷わさないためにも、時に遠望する必要があるのではないかと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/98/42050198/img_1_m?1426450002&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_624_468&quot; height=&quot;299&quot; width=&quot;400&quot;/&gt;&lt;br&gt;
関東平野にそびえる筑波山&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
　なお、余談であるが、東京駅の少し東側にある日本橋で、北方向に向かう道路は、この筑波山を向いており、西方向に向かう道路の先には富士山がある。したがって、日本橋付近で、旧水戸街道と旧東海道は直線ではなく屈折する形で一本の道路してつながっている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり、それは、自己とかけ離れた聖書理解（あえて神学といおう）を理解することで、自分たちがどっち向いては知るべきかを間違わないためにも、そして、自分たちの立ち位置がどこにあるのか、ということをある程度正確に知るという意味でも。その意味で、人が作ったものかもしれないが、神学ということ、あるいはより広い「キリストのからだ」の持つ聖書理解の多様性への理解が必要なのだと個人的には思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ただ、全員が同じようにする必要もないと思っている。なぜならば、パウロさんもエペソ書でこう書いているからである。&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;4:11 こうして、キリストご自身が、&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;のです。&lt;br&gt;
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、&lt;br&gt;
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。&lt;br&gt;
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、&lt;br&gt;
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。&lt;br&gt;
4:16 &lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。&lt;br&gt;
4:18 彼らは、その&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;知性において暗くなり&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。&lt;/blockquote&gt;
&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;br&gt;
神学、あるいは聖書理解なしの&lt;br&gt;
キリスト者は存在するか？&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;br&gt;
　そして、これが、集会に関する成り行き上の弁証家（accidental Apologist　たまたま他者に自己や自己の聖書理解の特徴を説明しようとする立場に置かれたもの）の一人として、開かれているキリストのからだ、即ち、多様なキリスト教を持つ様々な教派教団、グループや個人から形成されるキリスト教界に向かって、自己を相手の方がたにわかりやすい形で説明するための必要悪として、他者の聖書理解（神学）を学ぶ意味があるのではないか、とこの20年余り（特にこの5年）の経験を通して思っている。なお、聖書を読むこと、キリスト教徒として生きることは、個人的には神学の一部を形成していると思う。その意味で、神学なしのキリスト者とは、聖書理解なしのキリスト者、あるいは聖書を読まないキリスト者であり、それをキリスト者といえるかどうか、ということは考えたほうがよいかもしれない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;他者に説明する、すなわち、&lt;br&gt;
他者に伝道するために&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　キリスト集会の人々は伝道熱心な人々である。それは非常によい美点だと思っている。そして、いうなれば、伝道熱心であるということは、他者に対して弁証家であることを求められるのだと思っている。つまり、他者の言葉を理解したうえで、他者に理解可能な形で、他者に心を開いて説明する、語る、伝道することが重要なのだと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり、対話者の信仰上の立場を踏まえ、相手の方が理解可能な形で、聖書の重要性と聖書の主張を丁寧にそしてより正確に語るためにも、仏教研究者の方や、仏教者の方、神道研究家の方々、ムスリムの方々、現代政治史や思想史の研究者の方々などの書かれたものを読むことや、こういう異分野の方との尊敬をもっての交流やその人たちとの対話の技術をつけていくこと、すなわち学ぶということ、知恵と知識を蓄えることは無意味でないと自己弁証をしておこう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ここで新改訳聖書第3版　&amp;#8544;コリント　14章から以下の部分を引用しておきたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt; 14:9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。&lt;br&gt;
14:10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。&lt;br&gt;
14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。&lt;br&gt;
14:12 あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。&lt;br&gt;
14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。&lt;br&gt;
14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。&lt;br&gt;
14:15 ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。&lt;br&gt;
14:16 そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
　もちろん、他者へと、開かれた手を差し向けることは、厳しい。他者が何を手を開いて迎え入れる人に対するか、その他者の動きの予想や予測が困難だからである。しかし、恐れる必要がないのではないか、と思っている。傷つけられることを恐れずに、他者に向けて開かれた手を出していくこと、一方的な言いっぱなし型の伝道ではなく、他者に向かって他者が理解可能な形で対話をしていくことに、霊的な視線を向けていっていただきたいと思う。なぜなら、復活のイエスはその開かれた手を弟子たちに示すことで、御自身を豊かに弁証されているように思うのだ。そして、開かれた手でハンセン氏病者をいやし、開かれた心で、律法学者と対話しておられるのではないかなぁ、と思っている。閉じた手のゲンコツを向けるのではなく。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote3&quot;&gt;新改訳聖書第3版　ヨハネの福音書&lt;br&gt;
20:20 イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」&lt;br&gt;
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。&lt;br&gt;
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」&lt;/blockquote&gt;
　ある面、一方的に自分たちの主張を言い募ることは、現代における異言なのかもしれない。なぜならば、相手が理解不可能だ、ということでは異言と似ているかもしれない。それを相手が理解可能な形にいいかえること、それが解き明かしであり、弁証であるという意味において、我々は自分たちの理解を解き明かすこと、すなわち弁証家であることが求められているのではないか、と思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
あと2回続きます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42050198.html</link>
			<pubDate>Mon, 16 Mar 2015 04:52:23 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I was not Wee!（5）</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;「福音と再発見」出版の経緯&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　「福音の再発見」（原題　The King Jesus Gospel」が&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://sugamo-seisen.blogspot.jp&quot;&gt;TK様のブログ&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;で紹介されていたのが、2011年9月13日の「&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2011/09/blog-post_13.html&quot;&gt;王なるイエスの福音&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」と題された記事でした。何やら面白そうなことが書いてありそうな本なので、さっそくAmazonにRob BellのLove Winsと一緒に注文。数日後に届いたら、これが面白いのなんの、通勤電車の中で、1週間位で読んでしまいました。2011年6月20日の&lt;b&gt;「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=262&quot;&gt;罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」と題する記事に対して、恐らくキリスト集会の信者と思われるｍさんという方が2011年11月にコメントをくださり、それで、「&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271&quot;&gt;続　罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;（ 2011年11月05日公開）」の記事に、カレドニア様という方がコメントをくださった。そしてHK様といわれる方も親の立場からコメントをくださった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そんなこんなで、&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=280&quot;&gt;&lt;b&gt;「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本&lt;/b&gt;&lt;/a&gt; (2011年12月14日公開)の記事で初めて、The King Jesus Gospelの内容を変な日本語変換で出していたら、ダラス・ウィラードのところが違うって、SN様がちょっぴり姉御肌気分でご指摘いただいたりした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この辺のより詳しい因縁話は、こちら　『&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=564&quot;&gt;&lt;b&gt;福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;』（2014年05月05日公開） をどうぞ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ただ、「こういう本が必要だなぁ」と思っていたら、キリスト教良書の翻訳家でいらっしゃるSN様が、私が翻訳したらまともなものにならんのでは？SN様が「翻訳してあげるわよ(大意)」という趣旨のご連絡いただいたので、ならば、と出版企画に動くことになる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この本は、いわゆる従来型の「神、罪、救い」の理解で伝道を推進してきた私を含め幅広い所謂福音派とその周辺の皆様に喧嘩を売る(ゲンコツを出す)ような本なので、まず、これに耐えられるだけの一種の図太さを持った出版社で、まだ、福音派とも多少はつながりのある出版社、ということでMinistryを出しているイケメン編集長がおられるキリスト新聞で出せませんかねぇ、と打診をしたら、「いいっすよ」とあっさりとOKが出た。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、アメリカにおられるSN様を翻訳者として、東京のTK様が神学的な監修、関西の私が実務周りとちゃちゃ入れ担当、イケメン編集長とイケメン編集者の出版社の方は出版実務をしていただく、という役割分担をしながら、Facebookのコミュニティを会議室がわりに使いながら、出版準備をしていった。その会議室の名前は、「The King Jesus Gospelの訳本を出版する冒険者の会」である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　翻訳本を出版した経験のないものが手探りでやるのだから、まさに冒険者であった。江戸末期に杉田玄白先生が解体新書を出した時のような感じである。そもそも、私は、最初に訳本を出す権利をアメリカの出版社に金を払って押さえることすら知らなかったほど、ど素人であったのだ。これは最終的に自費出版扱いの本になったので、この出版の経費はすべて私のところにやってきた。結局全部で大体、シビック1台分くらいの出費となった。その原資は、我が家の家人が公立高校であったので、高校無償化の余剰資金でその一部を賄った。民主党政権の高校無償化政策がある面、あの本に貢献している。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;b&gt;出版その後&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;　たまたま、この初版本のキリスト新聞社さんへの納品日翌日が、本郷の学校であった農業情報学会での発表日翌日であったので、和光市のキリスト新聞社と当時は飯田橋にあった倉庫によって、20部ほど取りに行って、10部ほどをTK様にその足でその残りを何人かの方に即時送付した。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、本は形になって、世に出ていく。結構挑発的な本であったが、よく売れたと思う。　お買い上げいただいた方にはこの場を借りて、御礼申し上げたい。そして、原著が出てから2年以内に国内でこの種の聖書理解の根幹にまつわるキリスト教書が出るというのは極めて異例であるようである。それを受け入れてくださって、ご購入してくださった皆様には、深く御礼申し上げたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　農業情報学会から自宅に戻ると、家にどさどさとこの本がうずたかく積まれる感じで到着していた。どうしたもんだか、と思っていたが、まぁ、しょうがない。1/3は在庫として引き取る約束である。さぁ、どうやって、これを売ろうか、と思案していた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、自宅に在庫がうずたかく積まれた数週間後、別の学会の用事で東京に行っていた時、6時ごろの新幹線に乗っていた時、イケメン編集さんから電話が入る。私のところにある在庫を全部送り返してほしいというのである。飛ぶような売れ行きで、在庫がなくなったというのである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　大変驚いた。最初に初版1000部でとお願いした時、このイケメン編集担当さんからは、「700でいいんでないですか」というお話であったが、「いや、この本は売れる。1000部でお願いしたい」ということで1000部になったのである。すぐに第2刷を1000部契約した。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　日キ販の関係者からは、こんなキリスト新聞社の自費出版本が、売れるなんて思ってもみなかったらしく、Facebook上で、「キリ新が出すこんな本が売れるなんてめちゃくちゃ意外だ(大意)」扱いに近い発言まで、されてしまった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　また、この本の流通では、京都にあるキリスト教書店のTMさんに大変お世話になった。かなり仕切り値の高い値で委託販売をお願いできた。しかし、関西方面ではあまり反応は芳しくなかったようである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この経験で、キリスト教書流通の裏側とキリスト教出版の実際の一端を知る勉強をさせてもらった。有難い限りである。また、この本は、キリスト教本屋大賞にノミネートされたが、再下位を獲得した。まぁ、相手が強すぎたような気がする。ご支援いただいた皆様に感謝したい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/84/42048484/img_0_m?1426366999&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_704_960&quot; height=&quot;483&quot; width=&quot;355&quot;/&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;福音の再発見　初版刷り上がり分&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;世俗の仕事で&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;　また、この時期、仕事が原因で抑うつも経験したことはすでにふれた。今ではすっかり良くなったというほどではないが（時に軽い再発もしているので）、生きるには困った状態ではない。仕事も、これまでの成果を少しづつではあるが、論文にまとめたものを発表していく。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　それと同時に、県内のJAさんや農業研究機関へのコンサルテーション、酒米の生育予測モデルを用いた適期収穫ができるようにする田植え日を気温、日照条件を配慮し、個別の圃場(田んぼ)ごとに決定するシステムなどの計算機システムの開発などを実際にプログラムを書いて行った。そして、現地に何度も足を運んで、農家の方々とも仲良くなった。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
広がる多様なキリスト者との関係&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　なお、別ブログのように、愚にもつかぬことをおちゃらけスタイルで書いているといいこともあるわけで、いろいろな方とのお知り合いが急に増え、「いろんな研究会やら研修会に来てみないか」と誘われることになり、交友関係は急速に増えた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　もちろん、一部巣鴨のNTライト読書会などには押しかけた感はある、「のらくら者の日記」のHさんの方の教会には意図的に押しかけた。また、あめんどうの社主の方にもご訪問しお会いできたし、OCCビルでお働きのお鹿殿にも、鹿児島のコメント王子にも、UgoUgo王子にも面会の機会を得た。いずれも温かくお迎えいただいて、ありがたい限りである。また、いのフェスを通してカトリックの優秀な司祭のHK様ともバーチャルかつリアルの御面識を頂くことができた。また、非常に優れた教会人でもある千葉のYSさんにもいのフェス2014でお会いできたし、バイブルハンターのルツのレイヤーさんにもその時のいのフェスでお会いできた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その意味で、これらの方々が私にとってのキリスト教研究の一次ソースとなっていただいている。もう少し知りたい時の参考文献や別角度からの研究素材に関する情報収集先となっていただいている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　特に、家人が上智大学に行ったので、憧れの雨宮慧先生が大阪に公開講座に来られるというのであれば、馳せ参じ、公開講座にも参加する機会を得て、「あぁ、なるほど、こういう理解をしておられるのか」ということを、公開講座を通してライブでお話をしたり、直接ご質問をしたりすることができる機会が得られていることはありがたい限りである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これらのありがたい方々から非常に深いご示唆を頂いた。ここに日ごろお世話になっている皆様方感謝の意を表したい。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
楽しいことばかりじゃなかったけど&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　ただ、嫌な思い出も書いておこう。まぁ、半分抑鬱の回復作業を兼ねながらブログを書いていた。しかし、自分の世俗の仕事の業績を自分の所属機関のサイトにアップしていなかったのだ。というのは、ブログは、抑鬱の気分転換のためにかなり気軽に書いていたのであるが、抑鬱がかなりひどい時期にオフィスの移転があり、何もする気がなく、サーバーのアドレスが変わったのもあって、業績をアップするのを放置していた。そうしたら、それをめざとく見つけた、どこぞのお偉い方が、こんな本務と関係のないブログばかりかき、本務であるべき論文を書かないやつを雇っている所属機関はおかしいと、所属機関を中傷するブログを立ち上げた。この方は、どうもキリスト集会関係の方と思われる方であったのではないか、と思っている。所属の上長から、代表的な業績だけでも更新されたら、と御示唆をいただいたので、代表的な業績を即時あげた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　すると、そのブログは次第に消えてなくなっていた。世の中には愚かしいことをされる方もあるものである。それこそ、人の持つ罪というかハルマティアとはこういうことか、と思わされた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　丁度、その頃は、友人のNTさんも2Chのアクセス問題でIPさらしの簡易命令を出されるなどの事案が発生していたころであった。私は、2Chには、かなり昔に書き込んだことが1度か2度あるが、あそこは屑だと思っているし、まともなことを書いても、まともな人が相手しないので、原則書き込みはしない。あの集会関係の掲示板については、私は無関係である。2chに書くにしても自宅以外からはしない。それは本務として給料を得ているからである。ずいぶん、私の名前のような方のお名前が、伏字で思わせぶりに書かれていたが、あほらしいので相手はしなかった。まぁ、あそこも神から使わされた埋め立てが大変お得意な方があの板に遣わされたようなので、あの掲示板も、そのうち閑古鳥が鳴くようになったと思ったら、サーバーダウン事件で、なんとなく停止状態だったような気がする。&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;ブログの断筆&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;　このブログもそうだが、私がしているブログには断筆の時期がある。それはある意味で、抑鬱の状態がひどかった時期であったり、手根幹症で、お箸も持てない、ボタンもつけるのに苦労する時期であったりしている。それを支えてくれた家人に、そして特に私の配偶者に、心からの感謝をここで述べる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　どちらかのブログも止まっているときは、おそらくそういうときである。そういうときは、こころある方は、この大お馬鹿者を覚えて祈りの片隅でもいいので、祈っていただけると、うれしい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　次回以降3回にわたって、この連載の読者の皆様、特に集会の皆様へのお願いを述べたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42048484.html</link>
			<pubDate>Sun, 15 Mar 2015 06:03:19 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I was not Wee!（4）</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;ナウエンを英文で読む会の開始&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　また、2011年からは、明石で、ヘンリーナウエンの著作を英語で読む会を始めている。これは、私のいるキリスト集会の開拓にかかわったR.S.Cさんが住居をアイルランドに移すことに伴って、従来ご自宅を開放して集まっておられた方がたへの代替措置としての側面がつよい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　現在集まっておられるのは、主に高齢のご婦人方を中心に5～8名であるが、ナウエンの著作を一応、英語で読んで、翻訳し、そのナウエンが書いたものを読んでそれの感想や思ったこと、疑問などを話し合う会であるのであるが、その感想というよりは、キリスト教について素朴に思う疑問にお答えする会に実際はなっている。次回で59回を迎える。これをやってみて、思うのは、案外基礎的なキリスト教のコアコンセプトがキリスト集会に限らず他の教会群でもきちんと伝わっていないことが多いのではないか、ということであった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/06/42046706/img_0_m?1426511858&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_318_473&quot; height=&quot;254&quot; width=&quot;170&quot;/&gt;&lt;br&gt;
現在は　Finding My Way Home　を読んでいる。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
絶句するような質問も&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　いくつかびっくりするような質問が毎度出るのだが、なかでも、何より、驚いたのは、自宅で海外からの高校生訪問者のホームステイ先を提供する国際交流のボランティア活動にいそしんでおられる来会者の方からのこんな質問である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「いまホームステイしているアメリカ人高校生が、聖書で言う罪とは性交渉のことであると言われたのだがこれはキリスト教的にどうなのか?」という問題である。この質問を受けて、「ヴーん」となってしまった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その時は、創世記の2章を見ると「人が増え広がることを神が望んでおられ、そのことを命じておられるので、その理解は聖書の基本主張とは合致しないように思う。婚姻外の性行為は厳しく断罪されることになっているが、婚姻内での性交渉は神からの祝福の一つだと思う。」とお話しした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その2年後、たまたまアウグスティヌスの書いたことにふれた一節をある本を読んでいてこのアメリカ人の高校生の主張の裏背景がわかったことがある。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　どうもアウグスティヌス先生(「神の国」とか「三位一体論」を書いて、これらの概念を整理したわれらキリスト集会の聖書理解にも影響のあった方である。ただ、聖書理解をちょっと違ったベクトルへと進ませるきっかけをも作った部分もあったと思う)「罪は性交渉の結果生まれてくる子供に遺伝する」に近いことを言っているらしい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote class=&quot;quote2&quot;&gt;&amp;quot;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;「罪は性交渉の結果生まれてくる子供に遺伝する」&lt;br&gt;
→「性交渉により生まれたものは罪である」&lt;br&gt;
→「性交渉は罪である」&lt;br&gt;
→「罪は性交渉のことである」&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　(←いまここ）&amp;quot;&lt;br&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
　まるで、伝言ゲームである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは一つの例にすぎないが、例えば、愛とは何か、義とは何か、天の国Basileia ton auranon とは何か、祈るとは何か、赦しとは何か、ということは本当に伝わっているのだろうか、と感じる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　NK様が時々研究会などでおっしゃっておられる&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;「神、罪、救い」以上終わり&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;型のキリスト教も、別に悪くはないし、間違いではないが、なんか、ファーストフード型の大変アメリカンな救いの提示方法ではないか、とは感じる。これに関しては、近日中に公開する別ブログの方をご覧いただきたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;農業情報の研究開発も&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;　2006年ごろから県下の農業関係の研究機関への技術コンサルテーションが始まり、2010年ごろからは、県下のJAさんの圃場情報管理システムのコンサルテーションとプロトタイプ開発が始まった。あるいは、農業機械の稼働状況と所在地情報などをライブ情報として取得する実験やGPSログで解析する研究や農業気象情報の活用研究などにも着手をする。これも、コンサルテーションの延長線上である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ただ、この分野の研究が難しいのは、農作業が、1年の特定時期に、それも1回のみしか実施されないし、時期ごとに利用する農業機械や作業内容、取得すべき情報が異なるので、案外難しいなぁ、と思うのだ。実に農業というのは奥が深い、と思った。そういう研究に関係していくと、論文もおいそれと、そう書けない時期があった。この時期抑鬱もそれなりにひどかったのだが。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
Ministrｙが発刊・Facebook/Twitter人脈の拡大&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　そんなこんなしているうちに、丁度&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.ministry.co.jp/&quot;&gt;Ministry&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;というキリスト教業界の常識を破るかの如き面白い雑誌が出たので、それを読んだりしていた。当初は水谷潔氏の&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blog.kiyoshimizutani.com/&quot;&gt;ブログ&lt;/a&gt;、津の「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/&quot;&gt;のらくら者の日記&lt;/a&gt;」のSH様、「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://sugamo-seisen.blogspot.com/&quot;&gt;大和郷にある教会&lt;/a&gt;」のTK様を追っかけ発言しているうちにより広いキリスト教の世界の人々と知り合うようになり、多くのキリスト教業界の方々とお知り合いになっていただけた。そして、それらの方々とお付き合いしているうちにFacebookやTwitterができてからは、その様な個別の先生方の関連の方々ともおつながりができて、一気に枠が広がっている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　Ministryは現在私設応援団長のノリで遊ばしてもらっている。仕事もさせられることはあるが。この号のナウエンの引用句のリストづくりをお手伝いさせて(突然発注が来て、締め切り2日後)もらった。無茶でやんちゃな雑誌である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/06/42046706/img_1_m?1426511858&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_200_280&quot; style=&quot;&quot; height=&quot;280&quot; width=&quot;200&quot;/&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;ナウエンなどの引用句をお手伝いした号&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
　Twitterに参加してからも別のかたちで人脈が増えた。Twitter上では、ちょっと従来にないやり方を考えて、「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.shinkyo-pb.com/magazine/&quot;&gt;&lt;b&gt;福音と世界&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;」を変えかけた新教出版の編集者YF様（現在は退職された模様。彼は異色の編集者であっただけに、同社を退職されたのは、惜しまれてならない）が、「福音と世界に書評書いてくれる人募集！」ってやってた。お調子者でもあるので、なに、「本を呉れる。それだけでいい！」となったので、「それ乗った」になって、原稿代と高価な本をご献呈いただいた。その節はありがとうございました。なお、この仕事は急ぎ仕事としてお願いされたので、そのご要望にお応えした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　なお、Lineはめんどいのでしていない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;いのフェスに強制徴募？&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　Ministryのイケメン編集長が面白い人だったんで、いろいろとメールなどで情報交換していたので、「誰か、面白い人知りませんか？」と聞かれた。当時「ニコ生神学部」をやりかけていたり、仏教者のニー仏氏とネット上で対談していた畏友KH氏をご紹介した。丁度、第2回いのフェスをやる、って時だったらしい。個人として、紹介した手前、第2回いのフェスにも行くことになった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　本番前日、本来登壇予定者だった千葉のYSさんのところの信徒（長老職の方）さんのご葬儀が本番になった、ということで、急遽登壇できないことが判明した。その結果、お若い畏友KHさんが登壇することになった。これが原因で、その後KHさんは様々な不幸に巻き込まれることになる。その時は知る由もなかったが。KHさんには、「すまん」とこの場を借りてでお詫びしておきたい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/06/42046706/img_2_m?1426511858&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_800_600&quot; height=&quot;248&quot; width=&quot;330&quot;/&gt;&lt;br&gt;
オタキング　岡田さんが出た「いのフェス2012」&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
　しかし、KHさんを紹介しただけで済めばよかったのだが、世の中うまくできたもので、そうは問屋がおろさないときている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　Ministryのイケメン編集長が関西に来る、というので、「あ、そうなの？」と会って旧交を温めるべく、遊びに行ったら、いつの間にか、いのフェス実行委員に強制徴募(イギリス海軍とアメリカ海軍には、その昔、この伝統があったらしい)されてしまった。そして、このいのフェスは、キリスト教の枠をぶち破り、仏教者の方が大挙してご参加してくださるきわめて類例のないイベントになった。そして、そこで出会った真剣に仏教を極めようとしておられる方々、あるいは、仏典を極めようとしておられる方々と出会い、相互の用語の味わいの違いなどの散発的な議論が行われている。例えば、「聖書で言う慈しみ」と「聖書で言う憐れみのこころ」と「仏典における慈悲がどう違うのか」等という実に貴重で興味深い議論に参加させてもらっている。自らを他者の言葉で語り、そして他者の理解を知るためにも、実に有益な機会となっている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　まぁ、ここらは、キリスト集会の人には理解されないと思っているが、別にそれでも、いいかなぁ、とは思っている。なんせ、本記事の冒頭で出てきたR.S.Cさんだって、西本願寺に飛び込み伝道、宗論を申し込んで、西本願寺で実現しておられるからである。飛び込み伝道とはちょっと違う形の伝道活動だと思っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42046706.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Mar 2015 06:14:13 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I was not Wee!（3）</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;マクグラスとナウエンとの邂逅そして広がる世界&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　ちょうど日本でマクグラスの本が多数紹介されはじめ、科学と聖書理解の問題、討議性、あるいは、世俗の仕事で読み始めたJ.Harbermasの公共圏問題、そしてパットナムのソーシャル・キャピタルの問題、あるいは他分野との対話などの問題を考え始めたころであった。このころに、ナウエンの本などとも出会い、あめんどうの本などと出会ったのが、2008年ごろである。最初に「ナウエンと読む福音書」でナウエンという人の書いたものと出会い、衝撃を受けた。「なんだ、この世界は。なんだ、このじわっとくる温泉みたいな癒される感覚は、集会の聖書理解とかなり違う」ということで、片っ端からナウエンの本を読み、さらに「あめんどう」の本と出会っていった。そして、あめんどうで出版しておられる方々の本を読み漁り始めた。その中で出会ったのが、工藤信夫先生であり、「信仰という名の人間疎外」などを読んだ。その中で、ナウエンの著作やジャン・ヴァニエの著作、ポール・トゥルニエの著作と読む本を広げていった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_5_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 6&quot; class=&quot;popup_img_243_346&quot; height=&quot;202&quot; width=&quot;141&quot;/&gt;　&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_6_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 7&quot; class=&quot;popup_img_233_346&quot; height=&quot;204&quot; width=&quot;137&quot;/&gt;&lt;br&gt;
マクグラスの本&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_0_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_260_330&quot; height=&quot;212&quot; width=&quot;167&quot;/&gt;&lt;br&gt;
ナウエンとの出会いのきっかけとなったナウエンと読む福音書&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_3_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_334_500&quot; height=&quot;215&quot; width=&quot;143&quot;/&gt;&lt;br&gt;
あめんどう　の工藤信夫著　トゥルニエを読む&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;ヤンキー牧師との邂逅&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;br&gt;
そうこうするうちに、群馬方面のキリスト集会の方が当時運営されていた電子掲示板で、東京方面のキリスト集会のUgoUgoコメント王子がお勧めになっておられた水谷潔氏のブログ&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blog.chiisana.org/&quot;&gt;「命と性の日記～日々是命、日々是性」&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;と出会い、同ブログにコメントしているうち（当時は&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blog.chiisana.org/&quot;&gt;&lt;b&gt;「命と性の日記～日々是命、日々是性」&lt;/b&gt;&lt;a HREF=&quot;http://blog.chiisana.org/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blog.chiisana.org/&lt;/a&gt;&lt;/a&gt;はコメントできた　初コメントは、&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blog.chiisana.org/?eid=473781&quot;&gt;&lt;b&gt;2007年8月16日の記事&lt;/b&gt;　http://blog.chiisana.org/?eid=473781&lt;/a&gt;　この記事に名前の由来がある。）に、というかそのコメント欄で、今もなおお世話になっているというか、遊んでもらっている「のらくら者の日記」のSHさまとバーチャルで知り合うことになった。南の島のコメント王子こと&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp&quot;&gt;久保木牧師のきらきら探訪～ゆるりと生きる～&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;の鹿児島のSK様ともお知り合いになった。&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/&quot;&gt;&lt;b&gt;「のらくら者の日記」&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;のSH様もコメント欄が閉鎖状態であったし、また、「命と性の日記～日々是命、日々是性」も割と早い段階でコメント欄が閉鎖されたので、自分のブログで応答することとした。ミーちゃんはーちゃん（サンドラ・ブロックのファンなのでミーちゃんはーちゃんと命名）のブログは、おちゃらけブログとして運営しつつ、SH様や水谷様のブログをリスペクトして、それらの記事をもとにして、応答を自分のブログで勝手にしていた。この時、元KGKの総主事をしておられたY元主事とKGKの皆さんと、SH様との間で、働くことを巡ってのちょっとなんだかななぁの現象が起こったので、そこに乗り込んでいって、加油したのか、消火剤をまいたのかは分らないが、&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=168&quot;&gt;産業社会の変遷とキリスト者の労働観　かなり長い突っ込み！&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;や&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=170&quot;&gt;正社員について、再び。またまた、長めの突っ込み。 &lt;/a&gt;&lt;/b&gt;などの関連記事を書いてわいわいと楽しませてもらった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この辺の時期の少し前、若い畏友の一人のNT氏のお知り合いの畏友KH氏がアメリカで理解もされずに一人苦しんでいる、ホームシックもどきになっているのをブログで拝見し、日本食の食材などを突然送り付けて遊ぶ（祈りにより導かれたのだと確信しているが）なんてこともして、知り合いが広がった。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;br&gt;
あめんどうの社主のブログで学ぶ&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
　また、このころ、ナウエンの本を通して、あめんどうの社主HOさまの方のブログにであい、そこで、&lt;b&gt;Christianity Today&lt;/b&gt;（断わっておくが、日本の新興キリスト教ネット系メディア　クリスチャン・トゥデイとは、&lt;b&gt;まったく別物&lt;/b&gt;である）がおすすめする、読んでおくとよい100冊シリーズに出会い、紹介されている書物で、日本語訳が出ているものは日本語訳で、そして、英語しかないもののうち、文化とキリスト教や、歴史とキリスト教とかかわりそうな本を読んでいった。この時期読んでいたのが、リチャード・ニーバーなどの本である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_7_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 8&quot; class=&quot;popup_img_245_346&quot; height=&quot;241&quot; width=&quot;170&quot;/&gt;　&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_8_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 9&quot; class=&quot;popup_img_235_346&quot; height=&quot;239&quot; width=&quot;163&quot;/&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;カルト被害者との邂逅&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　また、当時ブログ友達であった京都のカルト被害者の方のご紹介で、カルト被害対策に積極的に取り組んでおられる京都のHMさんの教会でのカルト研究会にもお邪魔した。さらに、どうぶつ社刊の「&lt;b&gt;&lt;b&gt;悪霊と&lt;/b&gt;聖霊の舞台&lt;/b&gt;」を読み、沖縄で変質しカルト化たキリスト集会の姿を目にし、あぁ、これはまぁ、このようになるべくしてなったよなぁ、程度は軽いとはいえ、似たようなことは集会でも起きていたよなぁ、と思った。そして、HMさんの教会で行われたカルト研究会で、キリスト集会から影響を受けて沖縄で独自に変質しカルト化したキリスト教会の被害者の方に出会い、その悲惨さには、もう、「ごめんなさい」と個人的に申し上げるしかなかった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_1_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_332_475&quot; height=&quot;236&quot; width=&quot;166&quot;/&gt;&lt;br&gt;
悪霊と聖霊の舞台&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
また、このころ、マーク・マリンズという方の「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」と出会い、この本の中に「キリスト集会発の独特なキリスト教」がいくつか紹介されていた。そのうちの一つが、「聖霊と悪霊の舞台で」で紹介されていた教会であった。なお、この本は、1940年ごろ当初無教会派とみられていた集会と関連の深い無教会運動についてかなりのページ数を裂いている。このマリンズの本は無教会運動の本が中心なので、集会関係者必携の本というわけではないけれども、英国でのブラザレンムーヴメントが1830年代に発生し、そして日本では1890年代に内村先生の無教会運動が始まっているという点は、非常に印象深い。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_2_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_358_504&quot; height=&quot;278&quot; width=&quot;197&quot;/&gt;&lt;br&gt;
メイド・イン・ジャパンのキリスト教&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
ブログを通した公共的討議空間&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　&lt;br&gt;
そうこうするうちに、「のらくら者の日記」のSHさまがなんと、当時個人的に邦訳書を収集していたマクグラスのお弟子のお一人であることがわかったりした。「のらくら者の日記」の記事が「&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://sugamo-seisen.blogspot.jp/&quot;&gt;大和郷にある教会&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」で取り上げられており、「のらくら者の日記」のSH様が「大和郷にある教会」のTK様と非常に興味深いやり取りを相互のブログでしておられた。まさに、海外の学会論文誌で時々発生する誌上討論のような形であり、なるほど、こういうやり方というか、こういう討論の文化もあるのだ、ということを思った。まさに、ユルゲン・ハーバマスの公共圏の一種が実現し、それを拝見させていただいた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　SH様の関係で「大和郷にある教会」のTK先生ともネットワーク上のおつながりができた。すると、ここで一気にキリスト教界関係者の皆様へのネットワークが急速に広がる。立川福音自由教会の&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://efctachi1.cocolog-nifty.com/blog/&quot;&gt;礼拝メッセージ&lt;/a&gt;のHT様、&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://druenuma.wordpress.com/&quot; title=&quot;Japanese Bible Theology Ministry&quot;&gt;Japanese Bible Theology Ministry&lt;/a&gt;のMU様、地引網出版のWT様などとのつながりができた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その上でNTライト登場である。まぁ、このTK様が、まぁ、NTライトを押しメンというか押し主教として紹介しておられて、その紹介の仕方が面白かったので、すっかり引き込まれてしまった。そして、面白いものには情報をどんどん集めていく（といっても冷静さや批判意識を失わない範囲で）悪い学徒の癖で、ライトの本を読み始めたり、読書会にライブで参加したり、セミナーに参加させてもらうようになった。いまは、Facebook上の読書会で、Simply Christianという本について様々な方がたと御一緒にご討議している。これもまた、ユルゲン・ハーバマスの公共圏の社会実験の参与観察者として、参加している部分もある。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_9_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 10&quot; class=&quot;popup_img_1110_1636&quot; height=&quot;256&quot; width=&quot;173&quot;/&gt;&lt;br&gt;
現在読書会で討議中のN.T.ライトさんのSimply Christian&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;b&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;ミーちゃんはーちゃんのブログで&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;　ローザンヌ国際会議のケープタウン宣言の形成の様子を&lt;b&gt;&lt;a href=&quot;http://d.hatena.ne.jp/westycc/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「hakkol habel&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」のNKさまが&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://d.hatena.ne.jp/ct2010jccj/&quot;&gt;ライブ中継してくださっているブログ&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;のがあまりに素晴らしいので、それをご紹介していたら、ご本人のNK様がコメント欄に登場された。そして、この人、ひょっとしてケープタウンのライブ中継している人かなぁ、と悩んでいたら、そのころから愛読していた、アメリカ在住のキリスト教良書の翻訳者のブログ「&lt;b&gt;&lt;a href=&quot;http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ミルトスの木かげで&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」のSN様とのおつながりができた。SN様のところでも、お知り合いが増えたりもした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、水谷潔氏のブログ関連でのお知り合いもかなり増えていった。まぁ、水谷潔さんのブログネタを広げて勝手に遊んでいるうちに、自分自身が抱えた問題が、キリスト集会の問題というよりは、幅広く米国系の日本全体のキリスト教福音派全体の問題であることを知り、自分もこの問題で苦しんだが、他にも多くの人が苦しんでいることを知ることになる。そして、このブログで、コメントに対応しているうちに視点が急速に広がった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　インターネットは、私にとってのキリスト教界におけるネットワーク形成ツール、聖書理解に関する様々なキリスト者集団にまつわる地理的情報を収集するツールとも呼ぶべきものであった。昔の地理学者、例えばフンボルト先生とかは、実地に船で陸上を移動し、調査をしておられるが、現在の聖書理解の研究者は、Google のボットを手先に使いながら、資料収集ができるし、ありがたいの「&lt;b&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://sugamo-seisen.blogspot.jp/&quot;&gt;大和郷にある教会&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;」のTK様やら、ご親切にいろいろとご教示、ご相談に乗っていただけるAI様のような方もいてくださるので、ずいぶん楽になった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/10/42045110/img_4_m?1426221337&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; class=&quot;popup_img_243_346&quot; height=&quot;220&quot; width=&quot;154&quot;/&gt;&lt;br&gt;
AI様の名著　新約聖書よもやま話&lt;br&gt;
（って名前分っちゃいますね）&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42045110.html</link>
			<pubDate>Fri, 13 Mar 2015 06:44:19 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I was not Wee(2)</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;世俗の仕事で&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
また、このころ、割と大きな研究補助金の申請について「共同研究者が主になるから、協力を」といわれて、申請した。私個人の担当は、その実務とか、技術的なところをする予定であったが、その共同研究者の方が、「他でも補助金を申請するからと、あなたが主担当で提出してくれ」といわれたので、いやいやそのようにした。そして、その補助金が当たってしまった。その結果、「その共同研究者の方が、あなたが主担当で出したのだから」と丸投げに近い形となり、それをほぼ一人で抱える格好になってしまった。そして、日常の研究生活が激変した。まぁ、この研究補助金の申請主担当を受けさせられた時から、サポート役でも楽ではない仕事であったので、その当時長老であったが、この補助金が当たるかどうかが判明する前に、一時的に長老を退任した。当たったら大惨事だったと今になってみれば、よく決断したと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
かなりの金額を頂いた調査研究をまぁ、抑うつと同居しながら、やったようなやらないようなとりあえずやれる範囲のことをして、終えることはできた。そして、いただいた調査研究への補助金で得られたデータを用いて、共著論文を共同研究者の方と書いた（実質7割くらいの作業と論文作成の負担はしたと思う）。この論文は、その学会の方々にとって、面白かったのか、公益社団法人格をお持ちの某学会の学会論文賞を頂戴した。学会論文賞の授賞式には、抑鬱からの回復途上でもあり、まだまだ、人前に出ることはしんどい時期だったので、共同研究者の方に出ていただいた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
なお、この研究補助金を頂いた研究で、ロバート・D. パットナムの『孤独なボウリング　Bowling Alone』という今話題のソーシャル・キャピタルあるいは社会的資本ということに目が向いた。そして、パットナムの系譜の研究書をあさりながら、その研究の背景や意義も探ったのは、楽しかった。実は、やっているもう一つのブログで懸案事項になっていることの一つに、このパットナムの研究で考えたこと、ということがあるのだが、それはまだ公開できていない。ただ、この『孤独なボウリング』の最初の方の章に、アメリカの共同体の原型における教会の役割とコミュニティのかかわりとその歴史的変遷の記述がある。是非、教会人にはおすすめしたい本である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/93/42043393/img_0_m?1426591313&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_190_266&quot; height=&quot;213&quot; width=&quot;152&quot;/&gt;&lt;br&gt;
孤独なボウリング&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;集会の長老の退任&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
これに加えて、ちょうどそのころ指導していた学生が、精神的に少し不安定になったのもあって、そのことの対応やらと、ちょっと状況を一人で抱えられなくなり、さらに仕事を抱えられなくなりかけていた。抑鬱状態が発生していた。あまりに様子がおかしいと自分でも思ったので、心療内科に3年ほどお世話になった。心療内科に行った当初は、休職のための診断書を書こうか、と医師がいうほどであったが、まだ、余裕があるとは思ったので、通所と投薬で対応した。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
先にも触れたように、仕事が大変になる直前に長老を退任した。この規約にのっとっての退任（特段、問題行動があったわけではないが、個人的な仕事の面を理由とした退任）は、結果的にいくつかの面で良かった。一つは、集会の責任も抱えていたのでは、おそらくもっと状況が悪化したであろうことは想像に難くない。また、この退任によって、集会の長老とか執事の役割は、永続職や終身職でないことを実際の形を通して集会の皆様に示せたようにおもう。何より、私自身が、そういう責任にしがみつく、ということの意味とその副作用を見つめ、長老だの執事だのという、職分そのものを自己の聖書理解の中で、相対化できたからである。その意味で、出処進退をわきまえる、ということの大切さを学んだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;原理主義関連の研究&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　また、911テロとの関連で原始主義関連の文献が日本でそろい始めたのも、この時期である。小原 克博, 中田 考, 手島 勲矢著の「原理主義から世界の動きが見える (PHP新書)」が出たり、その他原理主義関連の書籍が大量に出るようになる。しかし、最近話題になった、当時同志社大学一神教センターにおられた中田考先生がイスラム担当で書いていておられた。&lt;br&gt;
これらの研究成果とカルト研究と合わせていったのがこの時期である。そして、この原理主義研究の中で、J.I.Packerの著作にもう一度出会う。それが、Fundamentalism and the Word of Godである。実は、90年代初頭に買っていたのだが、積読になっていた本である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/93/42043393/img_1_m?1426591313&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_213_346&quot; height=&quot;239&quot; width=&quot;147&quot;/&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/93/42043393/img_2_m?1426591313&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_280_475&quot; height=&quot;240&quot; width=&quot;141&quot;/&gt;&lt;br&gt;
原理主義関連の中で割とよい本&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
この原理主義研究を進めていくうちに、キリスト教型原理主義に、キリスト集会発の思想というか神学というか聖書理解（別ブログでかなり批判的に扱っているディスペンセイション主義神学）が非常に深く関与していること、そして、このディスペンセイション神学がD.L.Moodyという人物を得ることによって非常に多くのアメリカのキリスト教界の人々に影響していること、Moodyの活動がリバイバル的な側面もあり、アメリカ福音派に、そしてアメリカ全土に一気に広がっていくことを知った。そして、聖歌の編纂者の中田羽後氏の父、中田重治氏にこのMoodyの理解が影響し、中田重治氏は再臨運動（そして、日ユ同祖論につながっていく）ということを日本で起こすなど、日本の福音派にも多大な影響を米国経由で与えていることをこの研究の中で知ることになる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;心揺さぶられた衝撃的な研究成果&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　これらの研究成果は自らの信仰の土台をゆすぶられるような実に衝撃的な研究であった。実際に何度も頭を抱えた。衝撃的な事実が出てくるたびに。&lt;br&gt;
しかし、「知らない方がよかったか」と尋ねられたら、「それはない」と答えたい。もし、知らなかったら、無批判に自分が、そして、自分たちだけが正しいと言い募っていたことは容易に想像できるし、特殊な再臨理解や終末理解と聖書そのものの主張と切り離して考えることも、その特殊な終末理解を自己批判的にとらえることもできなかったであろう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
なぜ、この特殊な終末理解が生まれたのか、そして、米国を中心として広がったのか、ということに関しては、今週末ぐらいにこのシリーズのまとめとして、個人的な理解を開陳する予定なので、今しばらく待ってほしい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
このようにいろいろわかってくると、研究者の悪い癖が出てくる。影響したのであれば、その影響範囲を調べたくなるのだ（要するに伝染病の隔離領域の決定と同じである）。そして、福音派とは何か、福音派の神学形成とはいかにして発生したのか、それとディスペンセイション主義の影響とはどのようなものであったか、そして、それ以外のキリスト教のほかの集団と何が違うのか、という視点でより広いキリスト教に関する概念整理、地理情報学の徒でもあるので、地図化した形での整理概念を形成したくなったのである。となると嫌でも、また調査が始まる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;海外でも行ったついでに教会の実地調査&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　そして、この時期は、海外学会で発表のようなことをしていた時期でもあるので、結構カリフォルニア州などに出張するような機会が多く、カリフォルニアに行くと、できるだけ違うキリスト教の教会（これは日本ではしにくい）を訪問して、教派的な多様性と教会の特徴を理解することに努めた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42043393.html</link>
			<pubDate>Thu, 12 Mar 2015 07:24:25 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I Was not Wee!(1)</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;ブラザレン研究の本格化とブログでの公開&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　2005年ごろたまたま関東のN集会のSSさん（お父様がこの業界で知らぬ人がいなかった戦後割と早い時期に転会され、キリスト集会の信徒になって長らく巡回伝道者として奉仕されたYSさんである）がN集会で開催されたらしい集会の歴史を外国人の信徒の方が、まとめた日本語のものがあるからと、A4数ページの講演録（日本語翻訳版）をいただいたりした。この資料をちらちら見ているうちに、「あぁそうだ、持って帰っていた集会の歴史の本があったなぁ」と改めてそれを読み始めた。あるいは、読み始めた本の中で引用があるアメリカの本などで集会成立史に関する本を当時5、6冊Amazonで集め始めた。この時期、勤務先の組織替えで、それまでは徒歩5分のところだったのだが、電車を乗り継いで、50分くらいのところに移転したので、通勤電車の中で読書ができたのも大きかった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;b&gt;&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;キリストのからだと他の部分との第三種接近遭遇　&lt;br&gt;
幅広い文献の渉猟の開始&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;　それと同時に、CSルイスなどの本を読み、様々なキリスト教書をまぁ、手当たり次第に読み始めた。これが、文献を探すこと、これは、学問の基礎である。いい本に出合う。その本に引用、参照されている本を読む。そして、考える。整理する。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
これは、世俗の仕事でのツールをそのまま聖書理解や集会研究に当てはめただけのことである。なに、そもそも多くの学問体系は聖書理解（神学）の体系化（神学的伝統）の中で出てきた手法であるから、世俗の学問体系の仕事は、方法論的には、聖書理解を進めていく体系（神学）の手法と原理は同じであっただけである。であるから、問題はなかったというだけのことである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;ブログ作成の経緯&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　親類のご一家が今いる集会が2007年8月に主催した宿泊研修会に来てくださり、「石濱さんのことを知っている人がいなくなるから、あの面白さは、当時ライブで見た我々が書いて残しておきたいよね」という話になったことで始まったのが、この集会に関する本ブログである。調べてみたら、2007年8月からブログ記事を書き始めている。丁度、キリスト集会の本を3冊くらい英文で読みおわった時期である。&lt;br&gt;
当時、まだ20代であった年齢は私よりかなり若いが尊敬する畏友のNTさんが、すでに同胞組合というサイトを立ち上げておられたが、日本語でのデータも少ないということもあって、信徒の諸集会という伝道出版社の少し問題がある本のベースをもとに書いておられたので、私の調べた範囲は斯様であるということを書くのも、より正確性が上昇すると思ったので、私が理解している集会史を少しずつであるが、公開することにした。&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
集会においての奉仕&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
集会では、この時期、現在もいる集会で、将来のことも見据えて、集会としての規約の原案も作成にも取り組んだ。基本的に自分たちの信仰告白（使徒信条が基準）、代表役員（長老・執事）の選出方法、在任期間、信徒の受け入れとその方法論、何を集会の基本的行事（儀式）とするか、信徒と指導者の間の関係性の整理、信徒が指導者ともめたときの対応方法、信徒による指導者の忌避制度（といっても、候補者になることに対して異論を陳べることができる）などかなり細かく定めた。これが、後に、一般社団法人格を取得する際の基礎になったのでよかったと思っている。直接の規約作成の原因は、墓地の使用権取得に個人名義になってしまう問題からである。&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
ブラザレン史研究の関連図書&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
この当時一番正確だと思ったのが、CoadのA History of the Brethren Movementであったので、この本を読みながら思ったことをメモのように2007年9月ごろから載せている。今見ても、このCoadは比較的公平に書かれている、と思う。ただ、Coadの本の欠点は、最近の動きがないのと、また、ブラザレン史に重心を置いているため、英国の宗教史や他派の特徴が十分説明されていないということと、集会とそれを取り巻く書籍やその時代の文化などの点で詳細さに欠ける部分がある。&lt;br&gt;
Nathan Delynn Smithの本は、薄いがコンパクトにまとまっており、最初に読むならRoots, Renewal and the Brethrenだと思う。そして、次にCoadを読んだ後、現在この分野の研究者の2大巨頭Tim GrassとNeil Dicksonの著作を読むのがよいのではないか、と思う。このうちの1冊は？といわれたら、まずTim GrassのGathering to His Nameをすすめる。この本がよいのは、これでもか、というほど細部にわたる情報を集めていること、全体に目が行き届いていること、教会史（個別集会史）をまとめることの意味と、その方法論が、著者の経験によってまとめられた部分が、巻末にあるところである。&lt;br&gt;
Dicksonの本は、スコットランドにかなり重心があるのが欠点である。この時期　2007年ごろから、Wipf and Stockのなかで、Studies in the Evangelical History and Thoughtのシリーズが出始めている。このシリーズの中には英国でのこの分野の専門家Neil DicksonとTim GrassによるThe Growth of the Brethren Movement: National and International Experiences 　Essays in Honor of Harold H. Rowdon などBrethren関係の良書が多い。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/31/42041531/img_0_m?1426053046&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_182_277&quot; style=&quot;&quot; height=&quot;277&quot; width=&quot;182&quot;/&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/31/42041531/img_1_m?1426053046&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_234_346&quot; height=&quot;276&quot; width=&quot;186&quot;/&gt;&lt;br&gt;
SmithのRoots，Renewal and Brethren と　最近のStudies in the Evangelical History and Thoughtsの表紙&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/31/42041531/img_2_m?1426053046&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_176_276&quot; style=&quot;&quot; height=&quot;276&quot; width=&quot;176&quot;/&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/31/42041531/img_3_m?1426053046&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_233_346&quot; height=&quot;275&quot; width=&quot;185&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
Coad の名著　と　おすすめのTim GrassのGathering to His Name&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42041531.html</link>
			<pubDate>Wed, 11 Mar 2015 05:45:17 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>When I was Wee　(7)</title>
			<description>&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;2回目のアメリカ滞在&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
2002年から、ロサンゼルス近郊に1年ほど滞在しようとした時、ロサンゼルス近郊で集会を探したが、見当たらなかった。その頃は、ネットもある程度は充実してきていたので、Brethren chapelやBible Chapelとかで検索すると、それらしいものがいくつか出てきた。Emmaus Bible Collegeのサイトにアメリカのキリスト集会のリストが当時はあったので、そのうちのいくつかの候補に連絡を取ってみたら、「あなたが住もうとしているところから遠いので、お近くの教会に行ったら」というようなお返事を頂戴した。それほど南カリフォルニアでは、集会は絶滅危惧種であった。さらに調べていく中、すでに、ChapelやAssemblyを名乗らず、すでにCommunity Churchを名乗っておられるロスアンゼルスの教会もあった。困りあげているところ、Wさんというロサンゼルスの近郊でちょっと前まで長老をしていた方が見つかり、連絡を取ったところ、「いやぁ、うちもメンバーが高齢化して日曜日にも、集まらなくなったので、つい1年ほど前に集会を閉鎖し、自分は近所のコミュニティチャーチに通っている。君が住もうとしている地域は多少知識があるから・・・」、ということで、日本で言えば福音自由教会、すなわちThe Evangelical Free のCommunity Churchを紹介された。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/79/42039979/img_0_m?1425942404&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_900_300&quot; style=&quot;&quot; height=&quot;187&quot; width=&quot;560&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
行っていた&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;Shoreline Community Church, Santa Barbara&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
紹介状が要らないの？えぇ？&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
まぁ、アメリカの教会文化というか教会事情が分からないので、しょうがない、自分で自分の紹介状を英語で書いて、その翻訳までつけて、集会の長老に提出し、長老の方にサインしてもらって、それをもってコミュニティチャーチに行った。そして、初日、その教会のプログラムがはけた後、そのCommunity Churchの牧師に渡したら、一瞥して、「はい、うちはいらないから」とおっしゃって、あっさりご返却。「なにこれ？」になってしまった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
それが、「紹介状というのは、実は集会独自の制度ではないか、なぜ、このような制度があるのか」という疑問が浮かんだ。アメリカにいることをいいことに、Amazonで本を注文しては集会史を調べ上げていくことにした。そして、何冊か本を買った。それらを現地でも読んではいたが、帰った直後は、積読であった。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
熱心に研鑽させてもらいました&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
なお、この200人規模のCommunity Churchでも、毎日曜日以外にもSmall Groupも当時は10個くらいのスモールグループがあり、そのうちの一つ、割と教会のコアに近い人々が形成しているスモールグループに継続して出席し、Small Group活動というものを体験し、その一環として、教会清掃など、Yard Sale（いわゆるバザー）やKids Klub（教会学校）などの手伝いなどをした。「一時滞在の外国人で、その教会でこれまで最も教会に関与した人」とうわさされていたことを帰国間際に聞いた。非常に思い出深い時期でもある。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
研修先の大学では、離日前から着手していた金融自由化、1999年のみなと銀行の経営破綻に端を発する金融危機の結果生じた支店の閉鎖問題やアメリカの地理研究における金融機関の支店変遷の研究と金融制度論、アメリカ固有の決済システム問題やATMに関する既存研究の調査や、セミナーなんかを聴講していた。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
ヒステリックになっていくアメリカの社会で&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
しかし、2002年といえば、War on Terrorで対フセイン戦争にアメリカが一気に向かった時期である。この教会でも、「国のためにService（奉仕）している前線の兵士のために（さすがに、その勝利は祈りの中では、言わなかったが）」という祈りがささげられたり、Small Groupのリーダーが、「我らのリーダー（George W. Bush）が毎朝神の前に祈ってから執務を始める。なんと我らのリーダーは素晴らしいではないか」とあけすけな大統領賛美をしておられて、「え、なにこれ、マジですか?」という感じになったのではある。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
個人的には当時のダボヤと呼ばれる息子のジョージ君は、Texan（Texas語）が第1言語で、英語が第2言語の大統領ではないかと噂が当時リベラルな東海岸の新聞界隈で絶えなかった。個人的にはあまり好きになれない人物であったので、このスモールグループのリーダーの一人の発言には当惑を覚えた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして、小学校の職員室（といっても軽くコーヒーが飲めて、マフィンとか、ベーグルが置いてあって、10時過ぎの中休みに、先生方がベーグルにクリームチーズを塗りたくって朝食として食べておられる先生方が多かったが）で、ちょっとした休憩時間に戦争のことや、「戦争ってどうなん?」ってことが簡単に言えない状況だった。マスコミも無論、戦争反対という感じの論調はなく、昔の近鉄バファローズの打撃チームの「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%88%E6%89%93%E7%B7%9A&quot;&gt;いてまえ打線&lt;/a&gt;」ではないが、戦争がほぼ日中流され続けた。そして、それを見ながら、今この国の人々は、憲法修正第1条（The first amendment）をどう考えているのだ、と真剣に思った。それと同時に、911でTwinTowerにむき出しの暴力が向けられたことの衝撃を覚えた。この数十年、米国本土への核戦争に怯えつつも、米国本土が武力攻撃されたことのなかった国民に対して向けられたむき出しの暴力にヒステリー状態なんだなぁ、と外国人としては思った。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;br&gt;
ライブで見ていた2003年の開戦の大統領演説&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;br&gt;
米国NBCによるBushism（ブッシュ大統領の面白発言）&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
この映像の中で、一番笑ったのは、Human being and Fish co-exist peacefully.&amp;nbsp; 魚と人間は平和裏にすごすことができる。（たぶん平和に共存したら、人間は水死すると思いますが…）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A0&quot;&gt;ブッシズムには、Wikipediaの日本語版&lt;/a&gt;があった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ところで、このスモールグループで、「我らのリーダーは祈りで一日を始めるから…」といわれた方は、空軍を将官で退役した後、ロッキードかどこかにお勤めの方だったので、ガテン系の方ではなかったのだが、それでもこの人にとってもこう考えるのだ、とちとびっくりした。普段は非常に温厚な方であり、紳士的な方ではあったのではあるが。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
何だ、同じじゃん&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
なお、このCommunity Churchに参加し、聖書理解的にはほぼ集会と違いがないし、その教会にいることも楽しかったので、他所をあまり回ることなく、そこに結局1年いた。そして、「他のキリスト者も集会とそう違わない、集会とは違うと思っていたのは、思わされていたのは何だったのだろう」と思うようになった。&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;当時のアメリカの雰囲気&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
今日は、当時のことを思い起こす画像を何枚か示しておこう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/79/42039979/img_1_m?1425942404&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_2260_562&quot; style=&quot;&quot; height=&quot;139&quot; width=&quot;560&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;こんなステッカーが貼ってある車が結構走っていた&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-b5/kawamukaih/folder/1362895/79/42039979/img_2_m?1425942404&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_960_540&quot; height=&quot;257&quot; width=&quot;457&quot;/&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;どこぞの高校では、トラックにはこうすることが求められた&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
それこそ　United We Standというステッカーがバンパーに張られ、Stars and Stripesの旗をつけたトラックが走り回っていたのである。そして、滞在先の学校関係者から、パスポートは常時携帯すること、北欧系の見るからに北欧人がロサンゼルスのダウンタウンで、その訛りから逮捕拘束され、2日後にようやく解放されるなど、苦労するから、と全外国籍関係者を集めたセミナーが開かれたほどであった。5年前の超のんき、脳天気だったアメリカが、一瞬にしてここまで見事に変質するのか、と唖然とした瞬間であった。まさしく、一瞬の情熱で変質する姿を見たのである。最近の別ブログでの記事ではないが、あぁ、リバイバリズムの影響だったのだなぁ、と今になってみればよくわかる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして、アメリカが非常に外国人に居心地の悪い中、2004年の夏に日本に戻った。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
次回、帰国後キリスト教の幅広いからだとの第3種接近遭遇（古っ！）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42039979.html</link>
			<pubDate>Tue, 10 Mar 2015 07:55:17 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
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		<item>
			<title>When I was Wee（6）</title>
			<description>&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;帰国してから後の自派研究の着手&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　この被り物（ワシントン州では帽子、日本ではベール）の問題を起点に1998年に日本に帰ってきて、同じキリスト集会でもなぜにかくのごとく差異が生まれるのか、キリスト集会の文化とは何か、という問題を考えて始めることになる。そして、女性の服装が19世紀風であるので、なんか、アーミッシュみたいと思っていたのである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかし、アーミッシュと違ったのは、信者さんたちが乗っている乗り物である。何に載っていたかというと、紺色のタウンカー、警察が使用するCrown Vicと呼ばれる車より一回り大きい、Lincoln Continentalとか今でいうLexusとかメルセデスと呼ばれる、鉄の馬から出てくるので、非常に驚いた。&lt;b&gt;ゴージャスなタウンカーという鉄の馬に乗る、テクノ志向のアーミッシュ&lt;/b&gt;という実に矛盾した感じだったのである。Honda CivicやToyota Camryとかではなく、タウンカーだった。（なお、アメリカでは、乗っている車でその人の年収や社会的クラスがわかる。）&lt;br&gt;
あと、ある家系にだけ見られる、特定のイントネーションでの祈り方があったのだ。特定の節回しで、ある部分は高音で祈られ、突然、低音に向かっていくような祈り方が見られた。祈る声の音程が上がったり、下がったりするような祈り方であった。紙とか、イエスとか、主とかっていう語は突然高音の音程で祈られ、そうでない部分は急激に下がるような祈り方をするご一家がおられた。&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
最初の手がかりとなった本&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
「なんで、こうなの？」ってことを理解するためには、歴史を手繰るしかなかった。そこで、Nathan Delynn Smithが1986年に書いておられたRoots, Renewal and the Brethren をAmazonで注文し、2001年ごろから読み始めた。この本の中に、集会の成立過程の略史と関連する諸教派（たとえば、バプティスト、クェーカー、国教会などなど）、集会をやめた人へのインタビューの整理した結果などがまとめてあって、やめた人の行き先としては、バプティストが多いらしい、と書いてあった。「へぇ～、アメリカだとこういう研究して、こういう本が売れるのだなぁ」と思っているうちに、2回目のアメリカでの研究生活の話が始まる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
このNathan Delynn Smithの本で、実は、John Nelson Darbyの母親は、QuakerあるいはShakerと呼ばれるグループの出らしいことが記載されていた。そして、それは、Darbyの特殊な表現や聖書理解に深く影響していると思われる。まぁ、似たようなことは、John Wesleyでも、同様の影響があったらしいことが、野呂さんという方の「ウェスレーの生涯と神学」に書いてあった。あと、このNathan Delynn Smithの本には、このJohn Nelson Darbyの母親が幼児洗礼を強硬に主張していたらしい。集会では現在では成人洗礼が定着しているが、初期のころは幼児洗礼が行われていたことはある面、面白かった。まぁ、この幼児洗礼というのは、当時は幼児の死亡率が高かったため、幼児洗礼をして教会員に形だけでもなっておかないと、教会墓地への埋葬ができなかったという側面もあるようだ。&lt;br&gt;
後、意外だったのは、この時期の集会の指導者層が、かなり高学歴で、インテリばかり、あるいは余裕がある層ばかりなのである。国教会の司祭、学者、文筆家、医師、企業家が中心である。また、これらの人が憐れみの心にあふれた人が多かったため、弱者救済や都市部の貧困な工場労働者、炭鉱労働者などへの伝道をしていく。そして、しかし、第2世代、第3世代と世代交代していく中で、集会の指導者層がかなり変わったことを知って、あ、そうだったのだ、と思うと同時に英国の厳然たる身分社会（現在もなお身分社会は確実に残っている）を思うと、この辺の社会の指導的役割をする層が英国では限られているということを考えると、集会というのは非常に特異な社会集団なのだなぁ、ということを思うようになる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;長老の言うことには問答無用で絶対服従?&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　この自派研究が始まった1998年から2002年にかけて、現在の集会で過ごしたのだが、そこで現在は、他所におられる当時「執事」の方が、クリスマス会を開催方法の問題で、「個人的には異論があるのですが」と申し上げメールでやり取りしていたところ、「集会の責任者にとにかく従うべきである」を名指しはなかったものの公の学びの中でかなり強い語気でご教示してくださったり、「集会の責任者に従えないのか」とご発言があったりしたので、「何でこんなことになるのだろうか？」「何が原因だろうか？」「集会の責任者に何が何でも服従なのだろうか？」「相談や議論の余地がなぜ生まれないのだろうか?」ということを考えるようになった。しかし、その当時は、原因がなぜかは、わからないままであった。後年出会うことになる、工藤信夫さんの「信仰による人間疎外」ではないが、ちょっとした疎外感ぐらいは抱いた。ちなみに、この工藤さんの「信仰による人間疎外」は一読をお勧めする。工藤信夫さんによると、間もなくその続編が出るらしいが。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
まぁ、「集会の責任者に何が何でも従うべきである」ということをお話しされた方は、お住まいと集会所在地が遠距離であったことなどや職場の変更などいろいろご事情もあり、現在私が所属する集会には、参加されなくなってしまったが。個人的には、今集会の責任者をしているが、そんなことは思ったことはないし、基本的には、お互い納得するまで対話をすればいいと思っている。納得できなければ、問題になっていることを一度やめてみればいいだけの話であるとも思っている。&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
遠距離集会への参集への疑念&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
また、この方を含め、かなり遠距離の方が多くの集会の中でメンバーとしておられる集会は多いと思う。これってどうなのだろうか、と思うのだ。阪神大震災といい、その後来られなくなった執事の方といい、このような遠距離通所型の信仰者の姿をある面当然であると考えるのは、どのような意味を持つのか、鉄道や高速道路の存在を前提にした集会運営ということについても思いを巡らせることになった。のちにこの疑問は、キリスト教会の地域コミュニティ性問題としての再検討という概念とのかかわりへの思惟につながっていく。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot; color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;b&gt;ハーバマス研究とシステム理論&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;　このころ、世俗の仕事の関係で、ミクロ経済学の産業組織論との関係でゲーム理論の文献（まだ理論経済研究には少しは未練があったので勉強していた）や企業組織論とのかかわりで一般システム理論を勉強していた。この一般システム論の研究の中で、ユルゲン・ハーバマスというドイツ人哲学者の日本語訳を読んだのだが、さっぱりわからなかった。必死で読んだ。ハーバマスの翻訳本の日本語が日本語でない感じであったので、この時期は、ハーバマス関連の日本人の学者の方が書いた書籍を読んで過ごしていたり、ハーバマスの英訳を読んで過ごしていた（自慢ではないが、フランス語族なので、ドイツ語は読めない）。ハーバマスは英訳の方がはるかにわかりやすかった。これが現在、キリスト教界でも話題になりかけている公共圏を考える出発点となっている。&lt;br&gt;
そして、このハーバマスとの出会いから、カントなど批判哲学の源流への哲学的思惟を進めていくことにもなった。もちろん、メインの仕事は計算機科学になりかけていたから、そちらの方がメインであったので、哲学研究は関連研究であったので、院生向けの入門書程度を読み漁ることでしかなかったけれども。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
被災地支援で、被災地の仮設商業施設（商店街の再建に伴い店舗があっちこっちへとしょっちゅう移転するので）のコンピュータ案内システムなどを作成しながら楽しく過ごさせてもらった。地元紙の産業欄に、かなり大きく報じられたので、同僚からはやっかみ半分の言葉もむけられはした。また、神戸市長田区の被災地のデータ処理のためのシステム化やそれにまつわる作業にも、ちょっとだけ手伝わせてもらった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/42038032.html</link>
			<pubDate>Mon, 09 Mar 2015 06:20:23 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
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