釣道楽山道楽

山・川・海・・自然三昧

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

神道

 神道(しんとう)に、教祖も教義もない。
 たとえばこの島にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。
 畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるか後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。
 三輪(みわ)の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。
 ここに、唐破風造(からはふづくり)の壮麗な拝殿ができたのは、ごく近世(江戸中期)のことにすぎない。

 北海道の網走の市営住宅に、戦前、日本領樺太にいた老婦人が住んでいる。
 彼女はウィルタといわれる北方少数民族で、樺太にいたときはトナカイ飼育の小さな社会に所属していた。
 網走川の河畔の市営住宅での彼女の暮らしは、古神道のとおりというほかない。前夜、雨が降ると、朝から森に入って、キノコをとる。森は、彼女にとって神そのもので、神殿にいるような敬虔(けいけん)な心を持している。キノコをとればその場所に感謝のお供えをし、余分にはむさぼらない。
 彼女を車に乗せて札幌見物につれて行った土地の知識人がいる。途中、彼女の指示で何度も車を停めさせられた。彼女にとってあたらしい川や山があらわれれば、そのつど車を降りて供物をそなえる。
 畏れの儀礼化ということで、古神道も、このように簡朴なものであったろう。
 ここで言っておかねばならないが、古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益(げんぜりやく)の卑しさはなかった。

 もっとも、古神道にも、多少の利益はあった。
 『日本書紀』に、説話の神功(じんぐう)皇后の航海を住吉の神が守護したという。利益といっても、その程度だった。
 住吉の神は、いまの大阪湾の海で漁をしていた古代漁労民によってあがめられていたらしい。
 この神は、三柱(みはしら)である。
 表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命である。海面、海中、海底という自然が、畏敬のすえに神格化されたものかと思える。
 古代にも釣りはあったが、この列島に住む人たちが得意としたのは、『魏志倭人伝』にもあるように「沈没シテ魚介」を獲る漁法であった。幾尋(いくひろ)という海底へ沈んでゆくとき、水圧に厳々(いついつ)しさを感じ、浮上してゆくときは浮力の愉快を感じ、さらに海面に出で呼吸を回復するときのたのしさにも、神を感ぜざるをえなかったにちがいない。

 このように、自然をもって神々としてきた日本人が、仏教が渡来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえなかった。
 仏教渡来のことは、『日本書紀』第十九の欽明紀十三年(五五二年)にある。百済(くだら)から金銅の釈迦像一体と経論・仏具などがもたらされた。贈った側の使者が「この法は、周公・孔子も知り給わなかった」とおもおもしく言上した。
 「福徳果報を生(な)す」
 とも言った。本来空(くう)であるべき仏教について、いきなり現世利益を説くのは笑止かと思えるが、いまさら六世紀の外国使者に文句をいってもはじまらない。
 それ以上に当時の日本人をおどろかせたのは、彫刻だった。
 六世紀といえば、古墳におさめるための埴輪(はにわ)がしきりに生産されている時代である。
 その程度の古拙な塑像しか持たなかったこの時代に、生けるがごとき人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのである。
 しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていた。金メッキを見たのも、この時がはじめてであった。

 西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。

 と、欽明天皇の驚きの表現が、記せられている。
 ついでながら、釈迦のころの仏教には、仏像がなかった。金銅仏をふくめた仏像がガンダーラではじめてつくられたのは、二世紀ごろだったらしい。四百年もかかって、日本にきたことになる。
大和の宮廷では神道派が反対した。
 「蕃神を拝みたまわば、恐るらくは国神(くにつかみ)の怒(いかり)を致したまはむ」
 その後曲折を経(へ)、この世紀のおわりには大和の斑鳩(いかるが)の地に法隆寺が造営されるまでに盛んになった。

 神は没落した。
 「日本の神々は迷っている」
 というのが、鎮護国家の仏教を受容した奈良朝(七一〇〜七八四)のころの僧たちの見方であったらしい。
 僧たちは、神々にありがたい経を聞かせて救おうとした。
 仏は上、神は下であった。そういうたかだかとした態度であちこちの有力な神社に(たとえば越前敦賀の気比神宮)祭神を済度(さいど)するための神宮寺がつくられた。そのことで、神々は没落をまぬがれた。

 ここに、八幡神(はちまんしん)という異様な神が現れる。
 後世、津々浦々に八幡社がたてられるが、奈良朝までは、豊国(とよくに:いまの大分県とその付近)の宇佐(うさ)にしかこの神はなかった。
 宇佐には渡来人の小集団が住んでいた。
 秦(はた)氏の一派だったらしい。秦氏は『日本書紀』や『新撰姓氏碌(しんせんしょうじろく)』などによると、遠く秦(しん)の始皇帝の後裔と称していた。
 秦の滅亡後、流浪して朝鮮半島の漢帝国領である楽浪・帯方郡にいたかのようで、五世紀の初めごろ渡来した。ありようは農民の集団ながら、異文化のにおいがあった。
仏教渡来の世紀である六世紀の半ば過ぎ、宇佐のかれらの集団のなかで、
 「八幡神」
 という、異国めいた神が湧出した。この神は風変りなことに巫(シャーマン)の口を藉(か)りてしきりに託宣をのべるのである。それはもっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった。それまで大和にも巫(シャーマン)はいたが、八幡神のように政治好きではなかった。

 以下、重松明久校注『八幡宇佐宮御託宣集』(現代思潮社)に拠る。
 この神は欽明天皇三十二年(五七一年)に湧出したとき、名を名乗った。「われは誉田天皇(ほんだのすめらみこと 注・応仁天皇)である」
 最初から人格神だったことで、当時の他の古神道の神々と異なっており、このあたりにも異文化を感じさせる。さらには、この名乗りによって、大和の宮廷は無視できなくなった。
 仏教が盛んになると、「自分はむかしインドの神だった」と託宣し、新時代に調和した。
 「古(いにしえ)、吾は震旦国(しんたんこく 注・インド)の霊神なり。今は日域(にちいき)鎮守の大神なり」
 聖武天皇(七〇一〜七五六)は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きをよろこび、天平十年(七三八年)、宇佐の境内に勅願によって弥勒(みろく)寺を建立させた。これが神宮寺のはじまりになる。八幡神(シャーマニズム)が古来の神々(多分にアニミズム)を新時代へ先導しはじめたのである。
 さらに、聖武天皇が大仏を鋳造し、東大寺を建立したとき、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣した。
 聖武天皇は大いによろこび、大仏殿の東南の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向山(たむけやま)八幡宮を造営した。
 神社が寺院を守護したのである。いわば、同格に近くなった。これが、平安朝に入って展開される神仏習合という、全き同格化のはじまりになったといえる。

 平安朝の神仏習合の思想は、神々の本地(故郷)はインドで、たまたま日本に垂迹(すいじゃく)した、ということが基礎になっている。滑稽だが、思想というのはあくまで大まじめなものである。この平安朝の思想の先駆をなしているのが、
 「自分は、むかしインドの神だった」
 という八幡神の託宣だった。

 このようにみると、すべて八幡神の神学が、萎れていた神々をよみがえらせたといっていい。

(司馬遼太郎 『この国のかたち』・93「神道(一)」(文藝春秋)より)

 
 

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事