目が覚めると見知らぬ天井。そうか実家に帰っていたのか。いつもの8月の茨城ならば、タオルケットをかけなければ風邪をひきそうになるほど涼しい。ところが、この日は暑くて眠るまで苦労した。幸い風が良く入るので12時近くには涼しくなる。実家の前は雑木林であったのだが、所有者が手放してしまい、木は伐られ家が建って地面はアスファルトで覆われてしまっている。子供の頃、張るにはわらびなどの山菜、秋にはきのこや栗、百合根掘りをしたものである。1時間に1本だった常磐線も、いつのまにか本数が増えた。駅を降りてくる人の10人に1人は知り合いだったし、駅前の喫茶店入れば、アポなしで友達に会うこともできた。
明治22年(1889年)牛久村として発足、昭和29年(1954年)町となり隣接の岡田村と奥野村と合併、昭和61年(1986年)に市となったのである。自分が仙台から龍ヶ崎と引越しをして、この地にやってきたのは50年とちょっと前。林と田んぼと畑だけの地だった。街は生き物である。時代時代で大きく変っていくことを実際に体験した。今思うと変って行く事は決して悪いことではない。
被災地を訪問するたびに変っていく景色。立ち止まってそれを見る時間が増えた。この景色が”日常”になっていく日は近い。「昔はこうだった」と若い人達に話をするほど傲慢ではないけれど、変らないものだけは伝えていきたいものである。
朝ごはんを家族3人でいただく。
とうちゃんと妹そしてご先祖様を迎えに墓に行く。墓の塔婆を立てて花を飾り、持参した鬼灯(ほおずき)を飾り、ひとつ持ち帰る。その中にご先祖様やとうちゃん妹が入っているはずなのだ。迎え火まではやらなかったけれど、帰って来てくれた皆さんを家族で供養する。昔むかし子供の頃、かあちゃんの実家の迎えは怖かった。暗くなると提灯を持たされ、村の共同墓地に行くのである。これがたまらなく怖い。祖父は墓で「ほれほれ」というと、子供を背負うようにご先祖様を背負い、家まで帰るのである。子供心にそれが怖くてたまらなかったことを思い出した。
やりかけだった実家の地震対策をする。2011年には震度5強の地震をくぐり抜けたが、柱が多いせいか築50年以上の実家は何もなく伐る抜けることができた。しかし、震度6以上になるといささか心もとない。家屋内で家具の下敷きにならないように家具を固定することにした。最も有効なのはL字型の金具で壁や柱に木螺子で固定するというもの。しかし、これをしてしまうと移動がやっかいである。家具や柱、壁に傷がつくという欠点がある。とくに今の家具の天板と背板は薄い合板であることが多く、固定できないという不都合がある。前面と側面はしっかりとしているので、左右の側面に渡るように板を渡すようにして、天井との間に鋼製束(こうせいづか)を二基設置して押さえつけるというもの。鋼製束の存在は、S先輩が教えてくれたのである。茨木市で地震に遭ったM先輩の話を聞き、家具の固定をすることを決意。一人暮らしの実家のかあちゃんのところもそうすることにしたのである。
実家の洋服箪笥は背が高く、幸い天板も背板もしっかりとしていたのでプラスチック製のプラ束を使ってみた。しっかりと固定ができた。
お昼は蕎麦でありました。
晩ごはん、肉食系のかあちゃんはスキヤキと天ぷらを食べようという。一人暮らしだから天ぷらを作っても食べきれないのだ。心がチクリと痛んだが、天ぷらをあきらめてもらいスキヤキにする。
夕方、馴染みの豆腐屋さんがやってきた。ばっちゃんが出ていって、注文してあった胡麻豆腐と湯葉を受け取る。豆腐屋のおじさん、先だって倒れてしまったというのだ。20数年前から我が家の前にやってきてくれた働き者の豆腐屋さん、働き過ぎなのかな。ばっちゃんによるといつもの元気が無かったそうだ。心配である。
豆腐屋さんの娘さんがとても湯葉が大好きで、一年中湯葉を取るのだそうだ。この湯葉、寒いときでないとキレイに取ることができないのである。豆を煮込んで呉にしたあと、絞り取った豆乳を煮立ててつくるのだが、繊細な作業なのである。そのままいただくとたまらなく美味しいのだ。
豆の風味を日本酒で切って楽しむ。
ごちそうさま
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