今日何食べた? 押忍!!おっちゃんの部屋

復活させております『おっちゃんの部屋2』も同時進行中・・・まだまだ頑張らねば

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思いつくまま

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浅草よもやま話 その7


浅草寺界隈

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浅草よもやま話 その 2 は こちら
浅草よもやま話 その 3 は こちら
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浅草よもやま話 その 5 は こちら
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浅草寺は西暦645年の大化の改新のすぐ後の開山で、東京で最も古い寺だそうです。漁師の網に

掛かった観音様を奉ったのがルーツとか・・・江戸末期には浅草界隈は大変な賑わいであったよう

です。

シンボルである雷門は、松下幸之助が病気治癒を願って参拝して平癒した為、個人で寄進したそう

で、雷門にかかる「大提灯」は松下電器の寄進です。



浅草の食べ物屋はたくさんの種類があります。そば、洋食、どじょう、うなぎ、もんじゃ、串焼き。

その中でも、もんじゃと釜飯について触れてみたい。Wikipediaによれば、下記の通りである。

<1819年刊『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼き

に類するものがあったことが分かっている>



もともとうどん粉を溶いて、鉄板の上で文字を書く練習をした為そう呼ばれたという「もんじゃ焼

き」は、昭和初期の頃は子供の食べ物だった様です。墨田に住む叔父によると、当時は駄菓子屋の

一角に鉄板を置いて子供達が食べていたものだそうです。発祥の地とされる月島では、協会もあり

地区を挙げてもんじゃ文化の浸透をはかっていますが、一枚1000円前後と高い為、今では大人

の酒の肴として定着しています。トッピングにチーズやベビースターラーメン、キムチなどをチョ

イスするのが、現在の流行の様ですがどうも子供の頃の雰囲気が失われてきて調子がでません。

でもビールのピッチは上がりますけどネ・・・・



釜飯もまた浅草界隈ではとても多く感じます。大震災の際、あるおばあさんが「釜さえあれば何と

か生きていける」と考えて始めたとか、浅草の芸人は明治30年代に考案したとか諸説があります

が、焼け野原になった浅草でおばあさんが釜を握り締めながら、「釜さえあれば・・・」と思った

ほうが、なんとなく絵になる感じです。ここ浅草を中心に上野まで多くの釜飯屋が軒を連ねていま

す。



酒が飲める様になって神谷バーに出入りして、しばらくたってからですが、神谷バーの女性店員さ

んのユニフォームと白木屋の隣にある「たいめいけん」のそれが、とても似ている事に気が付きま

した。いずれも長い歴史を誇る飲食店で、大正・昭和初期の雰囲気を大切ししている証拠ではない

かと思います。しばらくたいめいけんに行ってないので、また50円のコールスローでビールを呑

みに行きたいと思いました。

つづく

思いつくまま

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リリエンタールの滑空実験。彼は試験飛行中に墜落死してしまう



浅草よもやま話 その6


超怒級天然の人達

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先頃、僕の義理の妹夫婦が東京にやってきました。僕の妻は3人姉妹の真中で、下の妹は名古屋

の実家で、姉は実家近くで暮らしています。

この3人姉妹のボケのかまし方が尋常ではありません。長女のあっちゃんは、初めての海外旅行

に一族郎党で行く時に素敵な一発をかましてくれました。義理の両親、義理の姉(あっちゃん)、

義理の妹(マミプー)と自分達夫婦で香港へ旅行に出かけた時の事件です。

小牧空港を離陸する時、滑走路を走り始めた飛行機がフラップを出しました。(フラップ=離着

陸時に揚力を上げる為に使用する「補助翼」みたいなもの)これが出たので、「ああフラップが

出た」と僕がつぶやくと、すぐ後ろに座っていたあっちゃんが 「ええ!!今、翼が出たの?」

と大きな声を出したのです。さらにトドメが「それで飛べるの?」




ノースカロライナ州キティホークでのウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトの兄弟が、二枚

翼の愛機「ライトフライヤー号」で始めての飛行をした1903年以来、いやもっと遡ればドイ

ツの航空研究家オットー・リリエンタールが、自作のグライダーで墜落死した1896年以来、

飛ぶ事に命を賭してきた人達のおかげで、現在の大航空時代を迎えているのですよ義姉さん。。。。



飛べない事なんか絶対ありえませんよ。ほら、前の乗客が肘でお互いの体をつつきあって笑いを

こらええてるではありませんか!しかも笑っちゃ悪いと思って、体を「く」の字にしてるじゃな

いですか!


イメージ 2牛久シャトー地下のワイン貯蔵庫。昔はここでかくれんぼをよくした。当然明かりは無く
肝試しみたいな様相であった。かなり怖かった。




















女房だってスゴイ。結婚前に銀座でトンカツを食べた時、外に出てから「ねえ、東京ではトンカ

ツに味噌かけないの?」   絶句!

「おお、わが妻ばっちゃんよ! 28年間もその事実に気が付かなかったのかッ!」


BGM:チゴイネルワイゼン パブロ・サラサーテ作曲





あっちゃん夫婦と僕達夫婦とで、10年程前に銀座に呑みにいった時の事件。銀座「ライオン」

で大ジョッキでグイグイ呑んで(3姉妹共ビール党でやたら強い。2人なら大瓶1ケースはいく)

酔い覚ましに銀ブラをしよういうことになった。

僕が「お登りさんと思われるから、名古屋弁は使わない方が良いよ」と親切心から注意。

皆 「は〜い」 よしよし

和光堂の時計台前で「あ〜ここで写真撮ろうよ!」「ここ見たことあるし!」

ここまでは良かった・・・・次の瞬間

「撮るから、はよ並びゃ〜! 並びゃ〜!」

僕は頭を抱えた!  何言っとんじゃい!  通行人が笑いながら振り返っているではないか!

「あほかァ〜」という僕の顔を見て3人は

「今、名古屋弁使った?」

とキョトンしている。はあ〜〜〜〜〜〜〜〜?





そんな3姉妹のうち、マミプーが超メガトン級のをかましてくれた。神田の創業100年の居酒

屋「みますや」から神谷バーへ向かったときの事。銀座線を降りて混雑する中、3番出口の階段

のところでマミプーが大きな声で僕に問うた。

「かみやばーっておばあさんがやっているの?」




それを聞いた瞬間、全員大爆笑!

またやらかしてくれちゃった。凄いぞ!マミプー





ある日あっちゃんの歯に口紅がついていたので・・・

「あっちゃん。歯紅(はべに)!」と注意したら

「じゃあ、はべイチは誰?」

・・・・・


※ご迷惑でしょうが、またまた続く・・・・・

思いつくまま

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神谷バー店内
店内のボーイ、ウェートレスは昔ながらのレストランの格好。たいめいけんの制服も共通する点が多い

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浅草よもやま話 その5


「みかはや」と「三河屋」

ある日曜日、サザエさんの音楽が聞こえてきてふと思った。そういえば磯野家に出入りしていた

のは「三河屋」であった。さっそく「新明解サザエさん語辞典」で調べてみたら、桜新町にモデ

ルとなった「三河屋」があったらしい。今では「セブン・イレブンサザエさん通り店三河屋」と

なっている模様。

※新明解サザエさん語辞典はこちら



神谷バーの前身「みかはや」は当時相当繁盛していたそうだから、同じ屋号にする店があっても

おかしくないはず、と思いさっそくヤフーの電話帳で東京の三河屋を調べて見た。

67件ヒット。ただし、前述のサザエさんの三河屋みたいに、コンビニに業態転換した店は調べ

る事ができませんでした。こんなに多くの三河出身の酒屋さんがいるとは思えないので、やはり

この明治時代の「みかはや」景気にあやかりたいと思ったのではないか?なんかその方が楽しい

風情ではないでしょうか。

東京都での三河屋の電話登録件数
区名 件数
港区 10
世田谷区 6
杉並区 5
新宿区 4
台東区 4
江東区 3
荒川区 3
板橋区 3
豊島区 3
北区    3
中野区 2
文京区 2
練馬区 2
葛飾区 1
足立区 1
中央区 1
品川区 1
目黒区 1
23区外 10
合計  65
※YAHOO電話帳調べ



その後、傳兵衛は大正10年(1921年)に現在の場所(東京都台東区浅草1−1−1)に今

建っている店舗を完成させました。設計・施工は清水組(現在の清水建設)で鉄筋コンクリート

の4階建てで当時としては高い建物でしたが、浅草にはさらに高い建物がありました。

それが「浅草12階」です。明治23年(1890年)に完成した凌雲閣がそれです。完成当時

には、日本で初めてエレベーターが取り付けられ、多くの人が訪れて大変な賑わいだったそうで

す。

この建物は関東大震災で焼け落ち、震災後陸軍工兵隊によって爆破撤去されました。





さてさて、ここでお得意の脱線を

清水組は文化1年(1804年)富山出身の初代清水喜助が、日光東照宮の修理に参加した後に

江戸の神田で創業したのが始まりで、明治に入ると三井ハウスの建築等、洋館の建築請負を多数

引き受けて、建築屋として大きく成長していました。澁澤榮一の勧めもあって、事業を進めるに

当たっての「家法」を制定し、早くから会社としての形をつくりつつあったところでした。

神谷バーの建設から2年後、同業の間組と清水組の下請け同士のケンカから、鶴見騒擾事件とい

う日本で最大規模といわれるケンカをおこしました。多数の死傷者を出し検挙者は500人余と

いいますから、当時は新聞紙上を賑わす大事件となりました。

明治17年に政府は博徒を取り締まる為、「大刈込み」を実施しました。これは法律を改正して

博徒であるというだけで、懲役10年を科するというもので、今の暴力団対策法が裸足で逃げ出

す程の厳しい法律でした。明治に入って博打の他に博徒達は港湾労働者の手配(沖仲仕)や、建

設現場の人夫の手配師などの仕事をしていましたが、この法律の施行によって多くの博徒が建設

請負業者に模様替えをしました。当時、建築屋は「組」を名乗っていた為に現在に到るまで、ヤ

クザは「〇〇組」と名乗っているのではないでしょうか?





震災の後、復興の為に多くの電力が必要となり、川崎白石町に建設していた東京電力(現在の東

電とは違う、九州電力・関西電力・中部電力の前身)の発電所をめぐり、間組と清水組の下請け

の「組」の間で、大きな騒動が起きました。

関係者多数が国家騒擾罪で起訴される「鶴見騒擾事件(つるみそうじょうじけん)」がそれです。

その後、この事件で名が売れた清水組は、国家的なプロジェクトに係わる様になり、巨大な建築

業者となっていくのです。


※まだまだしつこく・・・

おもいつくまま

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浅草よもやま話 その 2 は こちら
浅草よもやま話 その 3 は こちら



浅草よもやま話 その4


牛久シャトー

こうして「シャトーカミヤ」は明治36年(1903年)に完成しました。後年、岡田は中国に

渡り、中国での西洋建築の先駆けとなりました。代表作には旧大連税関の建物があります。

大正3年(1914年)に建てられたその建物は、現在でもほぼ当時のままに利用されている様

です。新しい国を作るという力強い気概が建物全体から溢れる建物だと思いました。満州では満

鉄の工務課建築係として奉職し、数多くの建物の設計を手掛けました。


牛久シャトーのホームページはこちら


シャトーの2階には宴会場が有り、政財界の大物が招いて大規模なワインパーティが開かれま

した。当時、牛久に来ていた著名人は、大山巌陸軍元帥 1000円札で有名な板垣退助、勝海舟、

最後迄新政府に抵抗して戦い函館で降伏した後、明治政府の高官となった榎本武揚が記録に残って

います。小学生だった僕は、今自分が立っているこの場所に彼らがいた事に異常に興奮を覚えまし

た。シャトーカミヤから牛久の駅までは、出荷用のトロッコが敷かれ、前述の人達は東京から汽車

でやってきて、そのトロッコに乗ってシャトーまで来たそうです。当時の駅からすぐシャトー神谷

のぶどう園が広がり、広大な土地に忽然と洋館が現れるという状況だったのかもしれません。

イメージ 1

神谷傳兵衛記念館「シャトーの古写真集」から転載





僕が子供の頃、シャトーの前には生食用のぶどう畑が広がっていました。ブドウ栽培の技術を持

った人が長くこのぶどう園を管理していましたが、その方が亡くなって技術の継承ができなくな

り、現在では訪れる観光客の為の駐車場に様変わりしています。傳蔵の技術は同時期にワインの

製造を開始していた甲州で大輪の花を咲かせます。傳蔵は請われて甲州に行き、現地の人達にワ

インの製造法やぶどう栽培の為の土壌の整備の仕方を教授しました。この指導でできたワインが

南極大陸に向かった白瀬中尉の部隊と共に、探検の旅をしました。他に持参した酒が赤道で劣化

するなか、甲州から同行したワインはただの一本も損じること無かった為、帝国陸軍から甲州へ

感状が送られました。これも傳蔵が持ち帰り、工夫をした製造法がいかに的を得たものであった

かを証明する逸話です。この甲州のぶどう酒製造が現在のメルシャンとなったのではないか?

(まだ調査できてませんが・・・)と考えています。

傳兵衛は牛久の地で多くの人を雇い、大切に雇用したので地域の人達の尊敬を集めました。





道路に面した所に時計台を持つ城を構え、その後ろに醸造所と保管庫を配しました。醸造所は今

では博物館として当時の写真や器具を展示しています。また、地下にはたくさんのワイン樽が眠

っていて、僕達の格好の遊び場でした。夏でもひんやりと涼しく、殆ど一日中をそこで過ごしま

した。さらに醸造所の裏には、池と広大な畑が広がっていて、釣りやトンボ採りには格好の場所

でした。
   ※まだしつこく・・・つづく

思いつくまま

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上の写真は、牛久市図書館から転載

浅草よもやま話 その 1 は こちら   
浅草よもやま話 その 2 は こちら

浅草よもやま話 その3


ボルドーの神谷傳蔵

牛久と武雄温泉????

明治27年(1894年)9月24日に横浜港から出発した傳蔵は11月にワインの聖地ボル

ドーに到着しました。ボルドーのカルボンブラン村の醸造所で最初はぶどう園の園丁として働

き始め、3年の間に機械の操作法や土壌の勉強を進め、ワイン技師としての認定書を授けられ

ました。約束の3年が経過し、明治30年の1月に、大量の資料と土のサンプルと共に浅草に

帰りました。傳蔵が帰朝してからすぐ、フランスから葡萄の苗木を6000本輸入して東京の

東大久保村で栽培した所、結果が良かった為さっそく傳兵衛は土地の物色に入ります。

茨城の牛久に160haの土地を購入して、翌明治31年に苗を移植しました。これが現在の

「牛久シャトー」です。自分の家はこのシャトーから歩いて3分の所にあり、子供の頃から慣

れ親しんでいました。浅草と自分はこんな繋がりがあったのです。



さてさて、醸造工場を建設して牛久で収穫した最初のワインは明治34年(1901年)に出来

ました。この試作に自信を持った傳兵衛は、同年に「牛久シャトー」を着工しました。

現在シャトーに展示されている写真によると、最初は「牛久葡萄酒」と「蜂印香竄葡萄酒」の2

種類を製造していた様です。

シャトーはフランス政府が認可するワインの醸造所で、葡萄の栽培からビン詰まで一貫して行え

る事が条件となっていて、当時は(現在は何箇所かあるのかなあ?)日本で唯一の「城」でした。

広大な農園には13万本の苗が植え付けられ、フランスで学んだ技術と傳蔵が独自に開発した手

法で葡萄酒が作られました。





少し時計を戻しましょう。維新の志士達の活躍によって成立した明治政府は、一等国を目指す為

に当時の先進国から、多くの技術者や研究者を高額の給料を払って雇い入れました。

そのなかの一人に設計の専門家としてロンドンから招かれた、ジョサイア・コンドル(Josiah

Conder 1852−1920)がいました。 彼はロンドンの大学を出た後、日本に招かれ工

部大学校で日本で最初の西洋建築の教育に携わり、その一方で設計事務所を開設して様々な建物

の設計をしました。鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館や財界の著名人の私邸、たとえば三菱商事

ニ代目岩崎弥之助邸 古河邸などです。また多くの教え子を輩出しました。後に東京駅や日本銀

行本店を設計した辰野金吾もその一人です。辰野と同じ佐賀出身で、辰野の事務所に勤務していた

岡田時太郎がこの傳兵衛のシャトーの設計を担当しました。(彼は旧三笠ホテルを設計したことで

有名です。⇒国指定重要文化財)

コンドル先生は、日本に招かれてその文化に触れ大きな感銘を受け、自ら日本画の師を求めて河鍋

暁斎の門下生となり「暁英」という号を与えられたそうです。日本人の妻を娶り、日本で亡くなり

ました。東京帝国大学の名誉教授としての功績と、当時多くの設計者を育てたことに敬意を表す為

東京大学の工学部1号館の前に銅像が建てられました。

余談ですが三菱地所はこのコンドル先生が建てた「三菱一号館」を復活させる様です。

↓三菱地所の「三菱一号館」復元のプレスリリース
http://www.mec.co.jp/j/group/news/release/040330.htm

辰野が建てた東京駅については、江戸っ子には不評だったそうで「なんであんな不細工なものを

建てやがったんでい!」てな論調だった様です。西洋文化へ次第に傾倒していく風潮への振り戻

しだったのでしょうか?後年、辰野は国会議事堂建設に当たって国と対立してしまいますが、こ

こでは長くなるので先に進めます。

辰野と同郷であった岡田は、この辰野事務所に務めてコンドルの設計思想を十二分に勉強しまし

た。僕は、建築様式については浅学の為なんとも言えませんが、この「シャトーカミヤ」の美し

い姿は見る人に感銘を与えていると思います。小学生の頃、僕はこの二階で開かれていたワイン

パーティに思いを馳せ、ボーっとしているのが好きでした。





彼の設計によって、後の牛久シャトーとなる「シャトーカミヤ」はその美しい姿を明治36年

(1903年)牛久の原野に姿をあらわしました。この後、岡田は明治38年(1905年)に

国指定重要文化財の三笠ホテル、明治39年(1906年)に帝国図書館(現上野こども図書館)

を設計しました。

佐賀の武雄に温泉がありますが、その入口に竜宮城を思わせる何ともユーモラスな建物が建って

います。聞くところによるとこれも辰野ら佐賀県出身の建築家によって作られたものだそうで、

この門の近くに立つ建物も辰野らの設計といわれています。一方では西洋建築の権化の様な建物

を建て、 また一方では伝統建築の建物を建てる所に、日本人としての帰属意識を感じるのは

僕の思い入れ過ぎでしょうか???
イメージ 2

武雄市のホームページより転載

              ※この稿またまた続く・・・・


 ↓牛久シャトーが好きな人のホームページ
http://www.ushiq.net/~kamiya/home/main.htm

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