今日何食べた? 押忍!!おっちゃんの部屋

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フクシマに想う

4年目のあの日がやってくる。東北電力の福島第一原子力発電所事故の想うことがある。いまだ帰還できない方がたくさんいらっしゃるし、帰還できた方も苦労を強いられている現実がある。
「食べて応援」というフレーズがある。震災当初は高揚した気分もあり、何も考えず声高く叫んでいた。しかし冷静になって考えてみると、本当にこれでいいのかと自分で自分に問うている。

福島の農家は、放射能の汚染を恐れながら作物を作っている。国が定めた基準値以下であることを確認しながら市場に出荷している。すくなからず汚染されたものを出荷することについて、良心の呵責に苦しんでいるのではないか。事故があった地区に住む人達の心中を想うと、気持ちが塞がってしまう。
チェルノブイリの時、当時のソ連はその地区に住む住民を移住させ、何人たりとも住む事を許さなかった。一見乱暴ではあるが、この措置は正しいのではないかと考えるようになってきた。日本政府の対応は、対処処方にすぎず根本的な解決になっていないと考えるようになってきた。思い切った政策転換を行わなければ、福島の人達は今後何世代にも渡って苦しむこととなるだろう。
今の政策は福島の農家や漁業者に欺瞞を強いることになっていないか、それを国民の一人として考えるべきである。

原子力発電所の事故を受けて、エネルギーに対する考え方を変える必要性を多くの人が感じたはずである。しかし生活スタイルは変わっているとは言えない。今の生活様式を変えることなく、すべてを手に入れることはできない。誰かがやってくれるのではなく、自分がやるべきこととして動きださなければいけない。そうしなければ、多くの犠牲を強いられている人達を救うことはできない。そして彼らに押し付けている欺瞞という束縛を、取り除くことはできないと考えるのである。

ゆでがえるなのか

日本の国としての借金は確か1月に1000兆円を突破した。これは異常な数値である。ちと考えてみても危険な水域になっていることは間違いない。それなのに国民は落ち着いているし、政府も慌てていない。これはどうしたことであろうか。ヨーロッパの某国では国民が暴動を起こしているというのに、わが国ではまったくその動きすらない。

太平洋戦争で敗れた日本は全面降伏をした。アメリカによって占領されたのであるが、その時にそれまでの国や制度は一切合財が否定された。そして「民主的」こそがこれからの日本の目指すべき道と教えられた来た。この時に国民は国に対する考え方、国を思う気持ちが断絶されてしまったのではなかろうか。国を憂えることは、軍国主義の復活であり新生日本にふさわしくないと思った人が多いのではないか。

では日米安保反対を唱えた人達はどうであったのか・・・彼らは戦前・戦中派に育てられた経験を持つ。だから国のあり方について感心があったのではないか。


話は変わるが、大震災後の災害復興において、多くのボランティアが被災地を目指した。復興については国がすべきことと思っている人が多いのではないだろうか。だから復興予算の使い道に対して、無関心な人が多いのではないかと思う。
国家の借金を自分のものとして捉えていかねばならないと思う。いずれこの代償を払うときが必ずやってくる。借りた金は返すのが道理だからである。その時に「政府がやったことで、自分は関係ない」という人も出てくるであろう。また政治家の中には「これは当時の政権党がやったこと」と言う輩も出てくるに違いない。

できるだけ身のまわりのものを処分して、シンプルな生き方をせねばと思う。
すこしずつ処理をしていって、静かに世を去りたいと言った藤沢周平の言葉を思い出す今日この頃である。



川尻健裕

かなしきこと

川崎の中学生殺人事件は事態が動き始めた。犠牲者の笑顔を見るたびに心が痛む。ご家族の心痛を思うと居ても立っても居られない。13歳の少年を仲間に引き入れ、万引などの非行を指示していたという。自分より弱い人間を引き入れ、支配するという欲望はどうして生まれてしまったのであろうか。
親の教育、社会の課題、いろいろな理由付けがされていくであろう。
非難することは簡単である。
「どこに責任があったのか」
という切り口で、マスコミは論じるのだと思う。

しかしこの痛みは私の発したものであり、私が関わったものである。責を逃れることはできないことなのだ。この世に起こることは今生きている人に原因がある。
他の人や事象に責任を押し付け、知らない振りをして生きていくことは正しくないと私は思う。
もちろん、すべての事象にかかわって行くことはできない。でも少なくても正面から受け止めることはできるはず。直接手を貸すことが物理的、金銭的に無理だとしても、傍観者として生きていくという選択肢は捨てた。

後藤健二さん達の死で学んだことをこれからも続けていきたい。


おしまい

格差社会

日本でも格差が生まれている。ザクッとした言い方だけれど、所得の中心点の半分の収入以下の割合。すなわち相対的貧困率は16%というのが、日本の数値である。
6人に1人が貧困家庭で暮らしているということになる。6人に1人という数字はどう感じるであろうか。この数字はかなり高いと見るのが妥当であろう。
日本の貧困は静かに進行している。

日本の非正規雇用者はどのぐらいになったのであろうか。正確な数字は知らないが25%は越えているのではないだろうか。労働法を改正して非正規社員が使いやすくなり、企業はこぞってその道に行った。
さらに貧困家庭への援助政策も積極的政府は行っている。しかしながら、貧困を生み出したのは、非正規の雇用に門戸を開いた政府の政策にある。貧困世帯を生み出して、貧困学童に対する支援策を行うというこの矛盾はどう解釈したらよいのであろうか。さらに言うならば、法律が許すからと云って非正規雇用者を増やし続けてきた企業側にも問題がある。非正規ではない雇用者が増えることによって、自分のサービスや製品を買う社会が崩壊していくことを予想していたのであろうか。
あまりにも安易過ぎないであろうか。

貧困は街に潜んでいる。目を逸らしてはいけない。

さてさて

歴史に残らないフツーの人が、世の中を作っているんだ。
国も地方が支えているのだと強く思う。地方の疲弊は、国の存在を危うくする。だからこそ、歴史に残らないフツーの人達の大活躍が必要なのである。それを支えるもっと多くのフツーの人も必要なのだ。日本がフツーの人で溢れかえっていることが、この国の活力なのだと思う。
国を引張っていくのは、総理でも大臣でも国会でもない。彼らが自由に動くことができるのは、確固たる地盤あってこそのこと。だからこそ、地方から組み立て直すことが必要だと思うのだ。



国や地方自治体から補助金を貰って、地方再生を目指すところがある。こうした公金を活用した施策は、命に関わるような緊急性限るべきではないか。国や自治体の公金と言えば税金である。補助金を使った施策は、国(、または地方自治体)及びそれを受け取る側の両方に相互依存の構図がある。こうした構図が、その計画をダメにしてしまっているんではないかと考えるのである。
もっと地に足の着いた施策をせねば、地方にな根付かない。一時の補助金でコトが動き始めるほどそんなに単純ではないのだ。

だからこそ、僕はこれからも被災地に向かう。気仙沼大島の友に、何らかの変革を届けたい。前に進むために少しでも役に立ちたい。
失敗だらけだけれど、これからもこうして生きていく。
歴史にも残らないけれど、確かにここに足掻いていた記憶を頭の中に残したい。


おしまい

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