|
「初めて? 歩くの」
ようやくジョージ君の口が動きました。
「夜はね。でも越してきた頃はよく歩いたわ、散歩を気取って。
この辺はちょとした自然の中だもの」
団地の僅か1キロ南には、広大な草原が広がっていて、そこは、行けども行けども鉄条網が張り巡らさ
れた、サーチライトを放つ米軍のキャンプでした。
「ふう〜ん。そうなんだ」
「なに? そうなんだって」
「別に。・・・・・・それより、俺のうち、5階なんだ」
「え? あ、そう。私は2階よ。ちっぽけな一戸建ての2階。
私の部屋から、団地が見えるわ。ジョージ君の家は、どの辺?」
「真ん中だよ。団地の真ん中」
「私の家、見える?」
「さあね、今度確かめてみるよ。2階と、5階か・・・」
「ん?」
「君とは共通点が、何もない」
「共通点?」
「ああ。別にどうってことない。ただそう思っただけさ」
「共通体験はあるわよ。通勤の友と、ディスコ」
「なるほど。・・・・・ところで、怒られない? こんな時間で」
時計を見れば、11時をはるかに回っていました。
「平気、平気。もう大人だもん。信用されてるし。ジョージ君こそ」
「俺も平気。信用は、ゼロだけど。怒るやつなんて、いないし」
「お母さんは?」
「お袋? あいつにそんな資格、ないさ」
私は思わずジョージ君の顔を覗き込みました。
「あいつが帰ってくるの、朝だし。俺の信用がゼロなら、あいつはマイナスさ。
子供の 頃からね。俺、あいつが何やってるか、知ってるんだ。
男が何人もいてさ、平気で男を引っ張り込んでさ、毎晩やってるんだよ、犬みてえに・・・・・。
俺は知ってた、ガキのころからね・・・・・」
私の足が止まりました。すると手がするりと抜けて、ジョージ君が振り向いたのです。
「驚いただろう? 俺って、こんなヤツだよ。親がパンパンでさ。
過去形じゃないな、今もやってんだから・・・・・。ごめん、こんな話してさ」
タクシーのヘッドライトが、ふたりを一瞬照らして通り過ぎる。
「俺、女も知ってるよ。それも1人や2人じゃない。みんな年上でさ。
俺、19ってことになってるけど、本当は16なんだ。驚いたろ?」
「ううん」
私は首を大きく横に振って、精一杯強がって見せました。本当は、彼の言うように驚いていたのです。
まさか、6歳も下だなんてと。
「心配しなくていいよ。だからと言って、君を襲ったりなんかしないから。
だいいち、したくても、君にはできないよ」
「なぜ?」
「だって、君は、バージンだろ?」
「・・・・・・・」
「ついでに喋っちゃうけど、俺、女にはもてるんだよね。不自由してない。
でもさ、相手はいかれた連中ばっかりでさ、どいつもこいつもちょっと声かけると、
すぐ尻尾振って付いてくる。そして、すぐやらせる、喜んでね。
あ、ごめん、君は別だよ。一緒になんか、してないからね」
「・・・・・・・」
ジョージ君が、銀色の空き缶を蹴りました。カラカラと乾いた音が闇に溶けると、あたりをしんとした
空気が包みました。
「俺、お袋が出かけたあと、そいつらを家に連れ込むんだ。
そしてお袋のベッドの上で、やりまくってやるんだ。
あいつ、それを知ってても何も言えないのさ。てめえがそうだから・・・・・」
暗い。街頭がない。車も絶えた道・・・。
私の心はざわついてきました。ジョージ君がいつ豹変するのかと。闇が怖ければ、ジョージ君も怖かっ
た。けれどもその両方を解消するためには、やはり彼の手を強く握るしかなかったのです。
林を抜けてしばらくすると『団地入り口』のバス停が見えてきて、そのままゆるい坂道を上ると、スー
パーマーケットの横に出ます。ここまで来るとどこもかしこもアスファルトで、まばゆい街灯が建て物を
白く際立たせ、それがより闇を濃くしています。
私はそこで左に折れれば、家はすぐそこです。体中の力が、いっぺんに抜けていくのを感じました。
ふたりは、その場に立ち止まりました。
「ごめんね、最後にこんな話しちゃって。
せっかくのデートが、台無しだよね。幻滅しただろ?」
「そんなことない。ジョージ君との共通体験がもうひとつ増えたわ」
私は努めて、明るく言いました。
「たまには不良と付き合うのも、悪くないか」
「悪くない。スリリングだった。私だって不良かもよ、成りそこないのね。
誰だって、そうよ」
「無理するなよ。君って、いいやつだね」
ふたりの頬を、夜気をたっぷり含んだ風が撫でていく。
「ありがとう。楽しかったわ、とっても」
「送らないぜ、家までは」
ジョージ君は煙草をくわえたままでそう言うと、ジッポーで火をつけ、そして煙を深く吸うと、煙と一
緒に吐き出すように言いました。
「君とは、これが最後だ」
と。
「どういうこと?」
「君は、僕とはもう会わないはずだよ」
“俺”が、“僕”に変わったのに気づきました。
「なぜ? 駅で待っててくれないの?」
「だって、迷惑だろう?」
「迷惑?」
「こんな男で」
「じゃあ、今日のことは?」
「今日のこと? そう、今日は君とゆっくり話したかったからさ。
一度だけね。それだけさ。礼を言うよ、付き合ってくれてさ。サンキュ」
「ジョージ君・・・」
「ん?」
「私、バージンなんかじゃ、ないわよ」
「何だよ、見栄張って」
「こう見えても、22よ。そんなんじゃない。
・・・それに私、ジョージ君に謝らなければ」
「謝る? 何を」
「私、もうすぐ結婚するの」
隠すつもりはありませんでした。言いそびれては、いましたが。
「そっ、そういうこと。良かったじゃん、俺となんか深入りしなくて。
俺とじゃろくなことない」
くるりと背中を見せられました。
「ごめんなさい、黙ってて。でも、これだけは解って欲しいの。
あなたが私をどう思おうと勝手だけれど、私だって一緒よ。
あなたに声をかけられて、尻尾振って付いていく女と。
しかも婚約者がいるって言うのに。そうでしょう? 現に、今こうして一緒にいる。
正直に言うわ。私は心のどこかで期待していた。あなたにキスされるのを。
抱かれるのを」
「嘘だ! やめろよ、その気もないくせに。
今の君は、俺を軽蔑してる。汚い男だと思ってる」
私は首を振りました。振ったものの心に問えば、確かにその感情が湧いたのも事実で、正直になれば、
彼の唇に触れてみたい衝動に駆られたのも事実でした。
けれども彼が言うように、その気は失せていました。バージンではないと言っても、たった一度の経験
しかなかったのですから。
「だったらなぜ話したの? わざわざ男の勲章のような言い方をして。自慢すること?
それを聞けば、私が面白がるとでも思ったの? 聞きたくなかったわ。知りたくなかった」
私はその時、ジョージ君の瞳の中に哀しげな色が流れるのを見逃しませんでした。
「君って、不思議な人だね。隠し事ができない。何だか自分のこと全て知ってもらいた
いような、そんな気にさせられる」
そう言われ、私は改めて考えました。本当にジョージ君に抱かれたかったのかと。結婚を控え、彼とは
ひと回りも違うその相手に不満はないにせよ、残された独身生活に未練はないのだろうか。最後のアバン
チュール・・・。そんな軽薄さがなかったか。仕残した青春への悪い諦めや、少しでもさもしい心がありは
しなかったかと。
とは言うものの、こうも思うのでした。仮にどんな状況においても、やはり自分は、彼の手には陥ちな
いだろうという、曖昧な自信。
何事もなく終わり、ジョージ君との縁がプツリと切れてしまった今、自分の心さえ確認のしようがな
く、またそうであったことが救いだったと思えなくもないのです。
彼の態度は、謙虚さの裏返しだったのです。残酷にも、彼は自分自身の立場を誰よりも良く知っていた
のです。愛情に飢えていた自分を・・・・・。
私には婚約者がいる。それで全てが終わりでした。
「で、いつ?」
「あと1ヶ月と、少し」
「ふう〜ん。いなくなるんだ、ここから」
ジョージ君は肩をすくめました。
「ごめんなさい」
「何だよ、謝るなよ。そんな必要ないさ。それより、おめでとうだな、今言う言葉は。
おめでとう!」
「ありがとう、ジョージ君」
「じゃあ、元気で。いい嫁さんになれよな。忘れていいよ、俺のこと」
私はまた首を横に振りました。そうすることしか出来きませんでした。
ジョージ君の足が、団地の広場に向かって動き始めました。
街灯の下で、シャツの黄色が数秒ほど鮮やかに見えたと思ったら、忽然と掻き消えてしまいました。
ジョージ君の姿を見たのは、それが最後です。
* * *
私がブラッシングの手を止めると、スノーは訝しげな目を上げ、ゆっくりと尻尾を動かした。
「お父さん!」
居間で中学生の2人の息子とテレビゲームに興じている夫を、私は大きな声で呼びました。返事はな
く、聴こえるのは子供たちの歓声ばかりで、夫はちらと顔を動かしただけでした。
私は再びスノーに、目を落としました。
うらうらとした5月の陽差しの中で、気持ちよさそうに目を閉じている16歳のスノー。一度も“春”
を知ることもなく逝く日が近づこうとしている・・・。
私は「ごめんね」と呟いていました。
そして今さらながら、あの時のジョージ君の心に近づけなかったことに対しても、同じように「ごめん
ね」と呟くのでした。
「お父さん!」
私はもう一度大きな声を出しました。
「何だよ。でかい声で」
顔だけを向け、ぞんざいな返事をする夫。
「明日、実家へ行ってこようかと思って」
「何で」
「別にどうってこともないけれど、両親の顔もしばらく見ていないから。
それに何となく、実家の周辺を歩いてみたくなって」
「ふう〜ん。ま、好きにすれば」
「ちゃんと夕方までには帰ってきますから」
「ああ。言っといてくれよな、よろしくって」
そう言うと夫は、またゲームに熱を入れるのでした。
私は、私を見上げて扇ぐように尻尾を振るスノーを抱き上げると、
陽の傾きかけた西の空に、目をやりました。
おわり
|