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ただの小器用が創った焼き物の仏像“陶仏”の世界へ、ようこそ。そして、戯言の世界にも…。&脱原発!

書庫短編で ひまつぶし

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 この小説は1970年ごろ書いた、原稿用紙100枚のものを20枚に詰め込んだものです。


 
 日本女性と米兵との間に生まれたジョージという実在する一人の青年の、少し切ない物語です。

 昭和40年代後半の、米軍キャンプに隣接する街が舞台の回想形式の小説。 

 これも、今は昔の物語です。。。


 お時間のある方は、暇つぶしには、ちょうどいいかもです。

 短編です。1〜3まで、一気に読めますです。(*^-^*)  







   「実家の周辺」 まえがき 


 “袖触れ合うも多生の縁”とは、昔から言われているなるほどと思う格言ですが、袖(袂)がなくなっ

て満員電車が当たり前になってしまうと、それに代わるのは“出会い頭も多少の縁”・・・。

 とは、実につまらないこじつけをしたものですが、私とジョージ君との間に“多生”ならぬ“多少”の

縁が生じたのは、そんなきっかけなのでした。

 輪廻転生などをにわかに信じかねる私には、あれはやはり多生の程ではなく、ありふれた多少の出来事

に過ぎなかったのかも知れません。





 20年も前のその出来事を思い出したのは、ベランダで我が家の老犬スノーの真っ白い毛を梳いている

ときでした。生後2ヶ月で家族の一員となり、半年で雄の機能を奪われて、一度も“春”を知らずに逝こ

うとしているスノーを見ていて、不意にある言葉が甦ったのです。


 「犬のようにやる・・・」

 少々はしたない言葉ですが、幸い今では死語と言っても良いでしょう。けれどもある意味では、この言

葉がよく使われていた頃、犬が犬らしく自由にできた頃は実に長閑(のどか)で良い時代でした。

 スノーのように、10階建てマンション7階の3LDKに飼われているような犬が増えた今では、「犬

のように」と言われては犬が迷惑で、今の人間は犬とは比較にならないくらい自由奔放で、節操がないの

ですから。


 私はスノーに、「ごめんね」と呟いていた。人間の勝手で大切な機能を奪ってしまってと。

 とそのとき、「犬のようにやる」と「ごめんね」のふたつの言葉が、私がジョージ君と呼んでいたひと

りの青年の像を思い起こさせていました。



 20年前のそこには、米軍基地に隣接する町ならではの、今では決して珍しくはない光景があったので

す・・・。

 その頃私は、新宿から私鉄に乗って50分、さらに5分ほどバスにも乗るという当時では若干辺鄙な新

興住宅地の一角に住んでいました。すぐ近くにはその頃走りのマンモス団地があって、ジョージ君はそこ

の5階の住人でした。

 そして正に出会い頭に彼と会ったのは、バスの中でだったのです。





            *    *    *




    「実家の周辺」 1




 その日、2ヵ月後の結婚を控えていた私は、大きな買い物袋を3つもぶら下げてバスに乗ろうとしてい

ました。

 初夏を思わせる5月の光の中、土埃の舞うバスターミナルには日曜の午後の弛緩した顔の親子連れが目

出っていて、いつもなら定員オーバーのバスの中も、空席こそありませんでしたが、朝晩のラッシュが信

じられないほどの静寂に包まれていました。

 発車寸前のバスに私が乗ると、動き出したバスはすぐにハンドルを右に大きく切ります。乗客が決まっ

て大きく揺さぶられるところです。

 両手が塞がっている私は体のバランスを崩し、右にいた男性に体ごとぶつかってしまいました。その相

手が、ジョージ君だったのです。

 「あっ、ごめんなさい」

 私は即座にそう言うと、相手の顔を見ました。3秒ほど。

 その間に、もっと何かを言わなければと咄嗟に思いました。

 「私、あ、あなたを見たわ、シャトレで」

 「僕も見た、昨日、君を」

 「え?」

 私はこの青年を、電車やバスの中でよく見かけていました。それが10日前、偶然にもシャトレという

喫茶店で働いているのを見ていたのです。
 
 「昨日だけじゃない。おとといも、駅で」

 この言葉がにわかには理解できなくて、しばらくしてようやく気づいたのは、どうやらお互いが相手の

存在を意識していたらしいことでした。

 その時私の中に、淡い思いがふわりと湧いて出た気がしました。

 ジョージ君の言葉は、さらにこう続いたのですから。

 「君が僕を見ていたのを知っている。知っていて僕は横を向いていた。そして君が横を向いている時、

  僕は君を見ていた」

 さらりと言われた私の心臓が、ドクンとひとつ動きました。私が彼をなら解ります。けれども彼が私を

と意外に思えて、戸惑ったのです。

 ジョージ君は、アメリカ人とのハーフです。波うつ褐色の髪に彫りの深いマスク、そして長身とくれ

ば、誰もが彼を見るでしょう。私はといえば22歳の平凡なOLで、容姿とてとりわけ目立つとは思って

いませんでした。

 言葉を失っている私に、さらにジョージ君は耳元で囁きます。

 「シャトレにはもういない。今は西口のコルシカって店にいるんだ」

 「コルシカ?」

 「そう、コルシカ。ナポレオンが生まれた島のコルシカ。今度、来ない?」

 「そ、そうね。ありがとう」

 5分はあっという間でした。『団地入り口』のバス停で私が先にバスを降ります。そこから少し戻ると

我が家ですが、その日は団地の中に消えていくバスをしばらく見送っていました。心なしか胸の動悸がは

やるのを感じたのを、今でも憶えています。




 






 

 




  翌朝、駅のホームで電車を待っていると、ポンと肩を叩かれました。振り向くとそこにジョージ君が

立っていました。

 「やあ、おはよう。待ってたんだ」

 「私を?」

 「ああ」

 と言う口の中にはガムがありました。その気安さが気にはなりましたが、遠くで見ていただけの青年の

接近は、唐突にせよ悪い気はしないものです。




 こうして私とジョージ君の、朝のデートが始まりました。

 そのデートは、今にして思えば何て儚くて、そして何て危険なとも言えるデートだったのです。



 そして2週間後の朝、2日後の夜のデートの約束をして、その日がやってきました。

 喫茶店コルシカの営業が終わった夜8時、ふたりがいるのはディスコの中の、明滅するピンライトの光

の下でした。

 「決まってるじゃん」

 「そお?」

 「結構、遊んでるんだ」

 「昔はね」

 昔と言うほどではないにしろ、ディスコには誰しも一度くらいは狂うもので、私も学生時代の半年間夢

中になったものです。この喧騒のカプセルの中にいることに、一種の陶酔を覚えた時代でした。
 
 久しぶりのディスコでした。噴き出る汗は若さの象徴のようで、気持ちがいいものです。

 その中でも、ジョージ君の姿は際立っていました。パートナーである私が気後れするくらいに。



 やがてスローな曲がほてった空気を冷ますかのように流れると、ぴたりと寄り添う男女の姿がひとつの

シルエットになって、波のように揺れ動き始めていました。

 腰が密着し、女の長くて白い腕が、男の首に巻きついていく。はばからず唇を重ねる、影。

 私もジョージ君の腕の中にいました。広い胸に片頬をあずけ、目を閉じる。すると心臓の音と曲が重な

り合って聴こえてきて、熱いと感じる体温も心地よく、揺りかごに揺られているような錯覚さえ覚えたも

のです。

 私は酔っていました。顔を上げれば、そこに唇がある。

 けれども曲の最後まで、顔を上げることはできませんでした。






 ふたりが飛び乗った電車は、最終まで1時間はあるというのに、バスのそれには到底間に合わない時間

でした。

 電車の中でもふたりは終始笑い転げていました。ジョージ君は意外にも話術に長けていて、心得のある

空手のポーズをとったかと思うと、腕のあちこちにある喧嘩の傷跡まで見せてくれるのです。私はそれを

恐る恐る、そっと指でなぞったものでした。


 駅に着くといつもの癖で、私は一目散に走り出そうとしました。すると、

 「やめなよ、走るの。見っともないぜ、女が」
 
 とジョージ君が言ったのです。

 「だって、タクシーの順番が」

 「歩こうぜ」

 「え? うそ」

 私は瞬時に、あのバス通りを思い浮かべていました。歩けば30分はかかる道。未舗装の、雑木林を割

って走る道です。

 「月だって出てるし。見なよ、あの列を。さ、歩こう」

 そう言いながらジョージ君は私の手を取ると、大股で歩き出しました。有無もなく、私は歩くしかあり

ません。私は怖いと思いました。闇が怖ければ、もっと怖いのはジョージ君かもしれないと...。

 歩くふたりの横を、タクシーがすれ違う。ヘッドライトに浮かぶジョージ君の横顔が、心なしか硬い気

がしました。

 空には確かに満月が。そして、満天の星。

 道は国道から脇道に入り、やがて木立に挟まれます。私は彼の手を、しっかり握るしかありませんでし

た。 



 しばらく歩くと、百メートル向こうに林の終わる空が見えてきました。その空を音もなく横切る一条の

光。細く長く、規則正しく夜を切っています。
 
 サーチライトの光でした。

 この光景に、越してきたばかりの頃は驚いたものでした。けれどもジョージ君に限らず、混血の若者や

黒褐色の皮膚を持つ米兵の姿が少しも珍しくはないこの町に慣れると、それは日常のありふれた光景のひ

とつになっていたのです。








   

   

 「初めて? 歩くの」

 ようやくジョージ君の口が動きました。

 「夜はね。でも越してきた頃はよく歩いたわ、散歩を気取って。

  この辺はちょとした自然の中だもの」

 団地の僅か1キロ南には、広大な草原が広がっていて、そこは、行けども行けども鉄条網が張り巡らさ

れた、サーチライトを放つ米軍のキャンプでした。

 「ふう〜ん。そうなんだ」

 「なに? そうなんだって」

 「別に。・・・・・・それより、俺のうち、5階なんだ」

 「え? あ、そう。私は2階よ。ちっぽけな一戸建ての2階。

  私の部屋から、団地が見えるわ。ジョージ君の家は、どの辺?」

 「真ん中だよ。団地の真ん中」

 「私の家、見える?」

 「さあね、今度確かめてみるよ。2階と、5階か・・・」

 「ん?」

 「君とは共通点が、何もない」

 「共通点?」

 「ああ。別にどうってことない。ただそう思っただけさ」

 「共通体験はあるわよ。通勤の友と、ディスコ」

 「なるほど。・・・・・ところで、怒られない? こんな時間で」

 時計を見れば、11時をはるかに回っていました。

 「平気、平気。もう大人だもん。信用されてるし。ジョージ君こそ」

 「俺も平気。信用は、ゼロだけど。怒るやつなんて、いないし」

 「お母さんは?」

 「お袋? あいつにそんな資格、ないさ」

 私は思わずジョージ君の顔を覗き込みました。

 「あいつが帰ってくるの、朝だし。俺の信用がゼロなら、あいつはマイナスさ。

  子供の 頃からね。俺、あいつが何やってるか、知ってるんだ。

  男が何人もいてさ、平気で男を引っ張り込んでさ、毎晩やってるんだよ、犬みてえに・・・・・。

  俺は知ってた、ガキのころからね・・・・・」

 私の足が止まりました。すると手がするりと抜けて、ジョージ君が振り向いたのです。

 「驚いただろう? 俺って、こんなヤツだよ。親がパンパンでさ。

  過去形じゃないな、今もやってんだから・・・・・。ごめん、こんな話してさ」

 タクシーのヘッドライトが、ふたりを一瞬照らして通り過ぎる。

 「俺、女も知ってるよ。それも1人や2人じゃない。みんな年上でさ。

  俺、19ってことになってるけど、本当は16なんだ。驚いたろ?」

 「ううん」

 私は首を大きく横に振って、精一杯強がって見せました。本当は、彼の言うように驚いていたのです。

 まさか、6歳も下だなんてと。

 「心配しなくていいよ。だからと言って、君を襲ったりなんかしないから。

  だいいち、したくても、君にはできないよ」

 「なぜ?」

 「だって、君は、バージンだろ?」

 「・・・・・・・」

 「ついでに喋っちゃうけど、俺、女にはもてるんだよね。不自由してない。

  でもさ、相手はいかれた連中ばっかりでさ、どいつもこいつもちょっと声かけると、

  すぐ尻尾振って付いてくる。そして、すぐやらせる、喜んでね。

  あ、ごめん、君は別だよ。一緒になんか、してないからね」

 「・・・・・・・」

 ジョージ君が、銀色の空き缶を蹴りました。カラカラと乾いた音が闇に溶けると、あたりをしんとした

空気が包みました。

 「俺、お袋が出かけたあと、そいつらを家に連れ込むんだ。

  そしてお袋のベッドの上で、やりまくってやるんだ。

  あいつ、それを知ってても何も言えないのさ。てめえがそうだから・・・・・」




 暗い。街頭がない。車も絶えた道・・・。

 私の心はざわついてきました。ジョージ君がいつ豹変するのかと。闇が怖ければ、ジョージ君も怖かっ

た。けれどもその両方を解消するためには、やはり彼の手を強く握るしかなかったのです。


 林を抜けてしばらくすると『団地入り口』のバス停が見えてきて、そのままゆるい坂道を上ると、スー

パーマーケットの横に出ます。ここまで来るとどこもかしこもアスファルトで、まばゆい街灯が建て物を

白く際立たせ、それがより闇を濃くしています。

 私はそこで左に折れれば、家はすぐそこです。体中の力が、いっぺんに抜けていくのを感じました。

 ふたりは、その場に立ち止まりました。

 「ごめんね、最後にこんな話しちゃって。

  せっかくのデートが、台無しだよね。幻滅しただろ?」

 「そんなことない。ジョージ君との共通体験がもうひとつ増えたわ」

 私は努めて、明るく言いました。

 「たまには不良と付き合うのも、悪くないか」

 「悪くない。スリリングだった。私だって不良かもよ、成りそこないのね。

  誰だって、そうよ」

 「無理するなよ。君って、いいやつだね」

 ふたりの頬を、夜気をたっぷり含んだ風が撫でていく。

 「ありがとう。楽しかったわ、とっても」

 「送らないぜ、家までは」

 ジョージ君は煙草をくわえたままでそう言うと、ジッポーで火をつけ、そして煙を深く吸うと、煙と一

緒に吐き出すように言いました。

 「君とは、これが最後だ」

 と。

 「どういうこと?」

 「君は、僕とはもう会わないはずだよ」

 “俺”が、“僕”に変わったのに気づきました。

 「なぜ? 駅で待っててくれないの?」

 「だって、迷惑だろう?」

 「迷惑?」

 「こんな男で」

 「じゃあ、今日のことは?」

 「今日のこと? そう、今日は君とゆっくり話したかったからさ。

  一度だけね。それだけさ。礼を言うよ、付き合ってくれてさ。サンキュ」

 「ジョージ君・・・」

 「ん?」

 「私、バージンなんかじゃ、ないわよ」

 「何だよ、見栄張って」

 「こう見えても、22よ。そんなんじゃない。

  ・・・それに私、ジョージ君に謝らなければ」

 「謝る? 何を」

 「私、もうすぐ結婚するの」

 隠すつもりはありませんでした。言いそびれては、いましたが。

 「そっ、そういうこと。良かったじゃん、俺となんか深入りしなくて。

  俺とじゃろくなことない」

 くるりと背中を見せられました。

 「ごめんなさい、黙ってて。でも、これだけは解って欲しいの。

  あなたが私をどう思おうと勝手だけれど、私だって一緒よ。

  あなたに声をかけられて、尻尾振って付いていく女と。

  しかも婚約者がいるって言うのに。そうでしょう? 現に、今こうして一緒にいる。

  正直に言うわ。私は心のどこかで期待していた。あなたにキスされるのを。

  抱かれるのを」

 「嘘だ! やめろよ、その気もないくせに。

  今の君は、俺を軽蔑してる。汚い男だと思ってる」

 私は首を振りました。振ったものの心に問えば、確かにその感情が湧いたのも事実で、正直になれば、

彼の唇に触れてみたい衝動に駆られたのも事実でした。

 けれども彼が言うように、その気は失せていました。バージンではないと言っても、たった一度の経験

しかなかったのですから。

 「だったらなぜ話したの? わざわざ男の勲章のような言い方をして。自慢すること?
 
 それを聞けば、私が面白がるとでも思ったの? 聞きたくなかったわ。知りたくなかった」

 私はその時、ジョージ君の瞳の中に哀しげな色が流れるのを見逃しませんでした。

 「君って、不思議な人だね。隠し事ができない。何だか自分のこと全て知ってもらいた

  いような、そんな気にさせられる」

 そう言われ、私は改めて考えました。本当にジョージ君に抱かれたかったのかと。結婚を控え、彼とは

ひと回りも違うその相手に不満はないにせよ、残された独身生活に未練はないのだろうか。最後のアバン

チュール・・・。そんな軽薄さがなかったか。仕残した青春への悪い諦めや、少しでもさもしい心がありは

しなかったかと。

 とは言うものの、こうも思うのでした。仮にどんな状況においても、やはり自分は、彼の手には陥ちな

いだろうという、曖昧な自信。




 何事もなく終わり、ジョージ君との縁がプツリと切れてしまった今、自分の心さえ確認のしようがな

く、またそうであったことが救いだったと思えなくもないのです。

 彼の態度は、謙虚さの裏返しだったのです。残酷にも、彼は自分自身の立場を誰よりも良く知っていた

のです。愛情に飢えていた自分を・・・・・。  



 私には婚約者がいる。それで全てが終わりでした。

 「で、いつ?」

 「あと1ヶ月と、少し」

 「ふう〜ん。いなくなるんだ、ここから」

 ジョージ君は肩をすくめました。

 「ごめんなさい」

 「何だよ、謝るなよ。そんな必要ないさ。それより、おめでとうだな、今言う言葉は。

  おめでとう!」

 「ありがとう、ジョージ君」

 「じゃあ、元気で。いい嫁さんになれよな。忘れていいよ、俺のこと」

 私はまた首を横に振りました。そうすることしか出来きませんでした。



 ジョージ君の足が、団地の広場に向かって動き始めました。

 街灯の下で、シャツの黄色が数秒ほど鮮やかに見えたと思ったら、忽然と掻き消えてしまいました。

 

 ジョージ君の姿を見たのは、それが最後です。




             *    *    *




 私がブラッシングの手を止めると、スノーは訝しげな目を上げ、ゆっくりと尻尾を動かした。

 「お父さん!」

 居間で中学生の2人の息子とテレビゲームに興じている夫を、私は大きな声で呼びました。返事はな

く、聴こえるのは子供たちの歓声ばかりで、夫はちらと顔を動かしただけでした。

 私は再びスノーに、目を落としました。

 うらうらとした5月の陽差しの中で、気持ちよさそうに目を閉じている16歳のスノー。一度も“春”

を知ることもなく逝く日が近づこうとしている・・・。


 私は「ごめんね」と呟いていました。

 そして今さらながら、あの時のジョージ君の心に近づけなかったことに対しても、同じように「ごめん

ね」と呟くのでした。


 「お父さん!」

 私はもう一度大きな声を出しました。

 「何だよ。でかい声で」

 顔だけを向け、ぞんざいな返事をする夫。

 「明日、実家へ行ってこようかと思って」

 「何で」

 「別にどうってこともないけれど、両親の顔もしばらく見ていないから。

  それに何となく、実家の周辺を歩いてみたくなって」
 
 「ふう〜ん。ま、好きにすれば」

 「ちゃんと夕方までには帰ってきますから」

 「ああ。言っといてくれよな、よろしくって」

 そう言うと夫は、またゲームに熱を入れるのでした。




 
 私は、私を見上げて扇ぐように尻尾を振るスノーを抱き上げると、

陽の傾きかけた西の空に、目をやりました。






 おわり





  

 

他人の顔 7

注意:遡ってお読みください。これは、最後のページです。



    

 その男は、どう見ても喜和子の夫とは思えない。誰かに、似ている……。そう、あの年下の指導員・

梶浩介である。もちろん浩介ではないが、横顔はよく似ている。

 奈美は思いをめぐらせた。彼女は離婚したのだろうか。いやその前に、家出ができたのだろうかと。疑

問符を貼り付けられたまま忽然と消えてしまった喜和子の出現は、唐突で奇異すぎた。

 整形をした、顔…。

 

 「てめえら、そんな高いところで空気吸うんじゃねえよ。空気が薄くなるわ、ったくよー」

 と、酔った男に悪態を言われるような夫婦がどこか微笑ましく、そんなふたりがもう夫婦でないのかと

思うと、ちょっぴり寂しい気がしないではない。

 多分貴和子は、念願かなって亭主以外の男に抱かれ、もしかしたら今が大恋愛の最中なのかもしれな

い。だが一方、それで本当に彼女は幸せになれたのだろうかと思う自分がいて、だがそれは、今の奈美に

は知る術もなく…。
 



 たった半年の付き合いで、いったい彼女の何を知ったのかと考えれば、彼女の幸不幸を今さら知ったと

ころで意味もなく、第一今の彼女は、自分の知っている貴和子の顔ではなく、他人の顔…。


 奈美はこう思うことにした。いいんじゃないの、と。





浩介似の男に腰を抱かれ、エスカレーターに乗って消えていく貴和子の後ろ姿を見送っている奈美を、

等が訝しげな顔でエレベーターの前で待っている。紳士服売り場は5階で、早く行こうと口が動いてる。

 等はどちらかというと長身痩せ型で、スーツがよく似合う。女店員の勧めで何着も試着している。褒め

られて、ほくそえんで、ネクタイもジャケットも買う気になっている。



 それを奈美は、他人の顔を見るような目で、見ていた。








おわり。




                  *****




「結婚とは、してもしなくても後悔するものだ」とは、誰の言葉でしたでしょうか。。

しかし若いときの結婚は、何てふわふわと、落ち着きがないものなのでしょうねぇ。


「いいじゃない!」「素敵じゃない!」が、

「ま、いいっか〜ぁ」になるのも、結婚のひとつのあり方かもしれません…。





 拙い文章を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 皆さまに、心から感謝いたします。



 
 な〜んちゃって、途中からどんどん恥ずかしくなってきていた、私目でございます。(‘へ’;)







 蛇足 際立ったキャラ貴和子のモデルは実在しますが、後半は全くのフィクションです。 
     整形…彼女ならしかねないかな〜と思って書きました。知ったら、怒られちゃうかも。
     でも今、無性に会いたくなっています。じわ〜っと…。






   

他人の顔 6

 奈美と貴和子が辞めた前後にも4人が辞め、当初いた新人研修員20人は14人になっていた。

 それでも新戦力は育ちつつあるわけで、奈美もその間に6件の契約を結んだのだからそれなりの貢献度

はあったと言える。14人の半分は要領のいい不真面目組。残り半分はしっかり業界に根付く気配濃厚だ。

 その実績の評価が高いか低いかは、奈美の知るところではない。




 たった7ヶ月の、言ってみればいい加減な仕事振りではあったにせよ、奈美にしてみれば同年代の同僚

たちとの時間はそれなりに楽しかったし、喜和子の代わりに日替わり指導員の同行があったりすれば、も

う少し続けようかとの思いも湧く。

 会社側からすれば大事に育てた新人は、甘やかしてでも残したい。



 それでも辞めたのは夫・等が原因だった

 8歳年上の等はコピーライターで、小さな事務所を共同で経営している。多忙なことはいいとしても、

帰りは連日深夜に及ぶ。煙草は吸うが酒は呑めず、読書以外の趣味がない男だが、博識で優しかった。

 料理を覚える前に結婚した奈美は大型書店をあっさり辞め、若くして専業主婦になった。花嫁修業同時

進行の。




 しかし、1年もすれば退屈な毎日が待っていた。
 
 “大人の男”に憧れての結婚だったが、外で見たその男は家の中では女心に疎く煮え切らない小心な男

に過ぎず、奈美の気持ちは簡単に冷めてしまう。
 
 けれども、さりとて離婚を考えても煮え切らないのは同じで、親の反対もあっただけに、形だけの結婚

でも続けていくしかない。


 そこで奈美の就職である。

 始めはそれに寛容だった夫も、嬉々として楽しそうな妻の姿を見るにつれ、不機嫌な夫になっていく。

落ち着きなく、苛立ちを露骨に表したりもする。

 やがてそれが、次第に夫婦の溝を作るまでになるだろう。

 奈美は敏感に察し、夫を醜い猜疑心の塊にすることを避けるため、辞めたのだ。







 貴和子に会わなくなって1年半が過ぎた桜咲く春の日の午後、奈美夫婦は等のスーツを新調するために

新宿のデパートに出かけた。デパートは春の商戦たけなわでやたらピンクに溢れている。入り口はスクラ

ンブル交差点さながらで、人の流れが定かでない。
 


 そんな中で奈美は、喜和子を見たと思った。

 群衆の中に背が高くひときわ色の白い女がいた。奈美は確信した、貴和子だと。
 
 近づいてみた。
 
 ん? どこか違う。 別人?


 目が違う。

 鼻が違う。

 顎が違う。


 けれども、やっぱり貴和子だった。

 女が髪をかき上げたときの美しい指と、何よりも額のほくろに見覚えがある。

 だが次の瞬間、声をかけようとして別のあることに気が付いて足を止めた。
 
 連れがいたのである。男の・・・。






 つづく (次回が最後)





  

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