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最近 人に感動を与えるということとは どういうことかと常に考えてしまう。
「感動する」 感動といっても ひとつには同じコトをしても 人により感動する人もいればしない人もいる また そのときの状況であったりと、感動は常にひとつではないし一通りではなく全員に感動は伝わらない。
同じことでも 人により 感動する人もいれば しない人もいる 人それぞれの感受性にもそれは
左右する。 感受性が豊かな人、そうでない人、 同じことでも 感じる人もいれば、感じない人もいる でも 感動は人が今までに味わったことがないことをすれば、表面にだすださないは別として、
感じることがあると思う。
最近 自分自身感動を得ようと努力する しかし、 感心はするが 感動までいたらない それは
慣れきっているからか、はたまた 感動具合が足りないのか、もしかすると 自分のなかの感受性が足りなくなってきているのか。
だした答えが 自分自身もっと 素直に純粋になることだと気づいた。
今 生きていること、 食べていること、 笑っていること、 友達がいること、そうやって
何気ないひと時、何気ないことを もっと 純粋に感じ取ろうとおもう。
自分が純粋に物事を感じ取れれば、ひとにももっと 感動が伝えやすいとおもう。
感動を与える まさに 与えようとするのではなく 伝えることが 人にも自らを通して、感動を与えることになるのではないかと思う。
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私は「感動」とは自分から意図的に与えられたり、得られたりするものではないと思います。例えば何気なくラジオから流れた昔のヒット曲、思いがけない人との再会、素晴らしい仕事ぶりに感動したりすることがあります。そこで感動を得よう、与えようという「アンテナ」は常に張っておく必要があるでしょう。 >今 生きていること(中略)もっと 純粋に感じ取ろうとおもう。ここは同感ですよ。何気ないことを意識して過ごしていれば、感動を得たり与えたり、充実した時間を過ごすことができるでしょう。
2005/8/18(木) 午前 8:10 [ KOSUKE ]