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第二百八十回大内 義長

大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の最後の当主。


(出生と養子縁組)
豊後大友氏の第20代当主大友義鑑の次男として生まれる。天文12年(1544年)、生母が大内氏であった関係もあり、実子の無い叔父の大内義隆の猶子として迎えられる。室町幕府第12代将軍足利義晴からは偏諱を与えられ、晴英と名乗る。

しかし天文14年(1545年)、義隆に実子の義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。しかし義隆の重臣陶隆房(のちの晴賢)が義隆に対して謀反を企てると、隆房は天文20年(1551年)5月に晴英を大内氏の新当主に迎えることを望んだ。晴英の兄大友義鎮は、当初から隆房が晴英を傀儡として擁立するだけで、自分の政権が揺ぎないものとなれば廃位されるに違いないと疑い反対したが、晴英自身が大内氏の当主となることを望み「この要請を断り中傷を受けることの方が悔しいので、命は惜しくない」と主張したため、義鎮もこれを認めた。そして9月に謀反(大寧寺の変)が実行され義隆が殺されると、大内氏の新当主として擁立される。このとき、隆房は晴英を君主として敬うことを内外に表明するため、晴英から偏諱を拝領し、晴賢と改名した。



(大内家継承後)天文22年(1553年)室町幕府13代将軍足利義藤から偏諱を受けて義長と改名した。しかし大内氏の当主とはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。また、弘治2年(1556年)には、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内氏当主としての承認を拒まれている。

弘治元年(1555年)、陶晴賢が毛利元就との厳島合戦で敗死すると、血縁があるとはいえ一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内氏は急速に衰退していく。毛利元就の防長経略で弘治3年(1557年)3月、毛利軍は山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、結局は高嶺城を放棄して重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走する。しかしすぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し、自刃した。しかし義長も長福院(現在の功山寺)に入ったあとに毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に自害した。享年26。

辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

義長の死により、西国の名門大内氏は滅亡したが、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代まで存続した。


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