戦国武将列伝

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第二百八十四回陶 晴賢

陶 晴賢(すえ はるかた)は、戦国時代の武将で、周防大内氏の重臣である。初名は隆房(たかふさ)で、晴賢と名乗ったのは天文20年(1551年)に大内義隆を殺害した後に、大友晴英(後の大内義長)を当主に据えて後、厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけである。



(家督相続)
大永元年(1521年)、陶興房の次男として生まれる。陶氏は大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄であった。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。元服してからの名である隆房(たかふさ)は、義隆の偏諱を受けたものである。

天文6年(1537年)、従五位下に叙位されている。天文8年(1539年)、父が病没したため、家督を相続した(ただし、父の生前から家督を受け継いでいたという説もある)。


(大内氏の家臣時代)
天文9年(1540年)、尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。

天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。このため、義隆は軍事面に興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになった。このため、文治派として台頭してきた相良武任と武断派の隆房は徹底して対立し、さらに相良武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。

天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を掌握する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。しかし同年、義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆に知らされたため、隆房は義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失ってしまった。


謀反)
天文20年(1551年)1月、相良武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて、「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴してしまった。これを契機として義隆と隆房の仲は遂に破局を迎え、8月10日には相良武任が周防から出奔してしまったことにより、両者の対立は決定的となった。

8月28日、隆房は遂に挙兵して山口を攻撃し、9月1日には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した(義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある)。そして野上房忠に命じて筑前を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には、杉重矩も殺害した。義尊同様に義隆の子である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。


(毛利元就との戦いと最期)
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。このとき隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。

その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。

晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。

弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸国厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。



(死後)
晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・陶長房は自害に追い込まれる。以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年(1557年)には毛利軍によって滅ぼされた。


(人物・逸話)
直情型で独断専行の多い人物で、義隆との対立も文治派と武断派との反目というより、自身の性格が原因したとも言われている。

晴賢配下には江良房栄という智勇兼備の武将がいたが、この人物を恐れた毛利元就は房栄が内通しているという噂を流し、晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに、房栄を誅殺してしまった。また、厳島の戦いにおいても腹心の弘中隆包が「元就の狙いが大内軍30000の大軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」と進言したにも関わらず、これを聞かずに出陣・大敗して自害するなど才覚に比して器量に不足していた面をのぞかせる。

父の陶興房に似て武勇に秀でた人物で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。

疑心深く、かつ冷酷な人物で、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。その直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したとされている。一方で、家臣を思いやるような逸話もある。出雲遠征から敗走する際に、自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。

辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。


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