戦国武将列伝

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第二百九十回香川 光景

香川 光景(かがわ みつかげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての戦国武将。安芸香川氏当主。安芸武田氏家臣、後に毛利氏家臣。

(安芸武田氏の衰亡)
香川元景の嫡男として生まれる。当時の主家・安芸武田氏は、当主の夭折や討死などにより、勢力が衰え、存亡の危機を迎えていた。その中で同じ安芸武田家臣であった熊谷信直が離反し、毛利側に転じた。1531年(享禄4年)、安芸武田氏当主・武田光和は香川光景や己斐氏等に命じて、熊谷信直を討つべく三入高松城攻略に向かった。しかし、熊谷信直・熊谷直続兄弟は寡兵ながらも安芸武田方を打ち破った(横川表の戦い)。

武田光和が病死すると、安芸武田家中では、その後継を巡っての争いが起きた。香川光景は若狭武田氏から養子を迎えて、大内氏・毛利と和平して、戦力を立て直すべきだと主張した。しかし品川左京亮らは、主戦論を主張して、家中には大きな亀裂が起きた。結局、新たな安芸武田氏当主には、若狭武田氏より武田信実が迎えられたが、重臣間の軋轢は一層強まり、不穏な空気が流れ始めた。

その最中、ついに品川左京亮らは決起し、香川光景の居城・八木城を攻撃した。光景は熊谷氏らの支援を得て、品川勢を撃退したが、安芸武田氏の崩壊は明らかで、当主の武田信実も佐東銀山城から逃亡し、家臣らも相次いで逃亡した。品川一族はこの際に逃亡し、一部は石見国の益田氏に仕えて、子孫に山中幸盛との一騎打ちで有名な品川将員を出した。

1540年(天文9年)に、出雲国の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が毛利元就の居城・吉田郡山城へ侵攻すると、信実は尼子氏の支援を得て、牛尾幸清らとともに佐東銀山城に復帰した。しかし、吉田郡山城の戦いで尼子氏が撤退を余儀なくされると、信実と牛尾幸清は出雲国へ逃亡した。佐東銀山城にはまだ安芸武田氏の兵士が籠っていたが、毛利元就が佐東川対岸より火の点いた草鞋を流して陽動作戦を行い、後方より奇襲して攻略した。また残存の諸勢力は光景が投降を呼びかけ、抵抗する者は皆無となり、安芸武田氏は滅んだ。

(毛利氏家臣として)
香川光景は熊谷氏らとともに毛利氏に従っていたが、1551年(天文20年)の大寧寺の変により、大内義隆が殺害されると安芸国内も不穏な状況となった。1555年(弘治元年)に毛利元就は大内義長傀儡政権を牛耳る陶晴賢との決別を宣言し、厳島の戦いの前哨戦が始まる。まず、大内方の佐東銀山城を攻略し、光景は広島湾に浮かぶ仁保島(現在の黄金山)にある仁保島城に入り、守将となった。陶方は三浦房清を大将として仁保島城の攻略を図ったが、光景は陶勢を撃退した(仁保島合戦)。厳島の戦い本戦では、水軍を率いて参戦し、陶勢壊滅の一翼を担った。

毛利氏は大内領の周防国・長門国を併呑し、その後に北の尼子氏との対決が始まると、1564年(永禄7年)には三村家親とともに伯耆国の不動ガ嶽城を攻撃して、救援の尼子軍を撃退した後に攻略した。翌年には八橋城攻略戦にも参加して、同城を攻略した。また同年には尼子氏が降伏し、光景の山陰での活動は終わった。

(尼子再興軍・宇喜多氏との戦い)
1569年(永禄12年)、尼子勝久・山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲国・伯耆国の旧尼子勢力を結集して、出雲国へ侵入し、月山富田城を包囲した。それに注目した美作三浦氏の残党は尼子再興軍と、備前国の戦国大名・宇喜多直家と手を結び、連合軍を成して美作国に侵入した。毛利氏は援軍として香川光景を派遣。光景は子の香川広景、香川春継、一族の香川勝雄らを従えて城将・安達信泰の守る高田城に入城、連合軍は光景らの守る高田城への攻撃を開始した。

高田城内には尼子の降将が多数おり、内応者が続出して光景らは苦境に立たされた。香川勝雄はその混乱に乗じて攻撃を加えてきた尼子・三浦連合軍と、その支援に来た宇喜多春家率いる宇喜多勢と戦って討死した。香川光景や香川勝雄らの奮戦によって、高田城は落城を免れた。その後、光景は高田城を放棄して退却し、三浦貞広が高田城に入った。

その後、光景は家督を嫡男の広景に譲って隠居した。1605年(慶長10年)没

第二百八十九回伴 繁清

伴 繁清(とも しげきよ)は、戦国武将の武将。安芸武田氏の一族で、武田元繁の子とも弟とも、娘婿とも言われている。

永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、武田元繁配下として出陣し、品川信定らと有田城包囲軍に加わる。しかし、突出した熊谷元直に引き続き、毛利元就によって総大将の武田元繁が又打川で討死するに及び、撤退した。その後は元繁遺児の武田光和を支えて大内氏やその傘下の毛利氏と対抗する。天文2年(1533年)に安芸武田氏と家臣であった熊谷氏が対立。光和は熊谷信直討伐を企てて、繁清は総大将として香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行らを従え、三入高松城下へ出陣、横川表の戦いとなる。この戦いでは少数の熊谷勢が武田勢を圧倒。繁清も負傷して退却した。

天文10年(1541年)に吉田郡山城の戦いで尼子詮久(後の尼子晴久)率いる尼子軍が敗れて撤退すると、安芸武田氏居城の佐東銀山城から武田信実らが逃亡、実質安芸武田氏は滅亡してしまった。繁清は居城の伴城に籠るも、同年(翌年説もある)毛利氏らの攻撃を受けて城は落城、討死した。

滅亡時に繁清の孫が伴城から脱出するが、この遺児が成長して安国寺恵瓊と名乗ることとなる。

武田 信重(たけだ のぶしげ、生年未詳 - 天文10年5月13日(1541年6月7日))は、戦国武将の武将で、安芸武田氏の一族である。武田信実が逃亡した後に、安芸武田氏の家督を継いで当主になったとする説もある。父は武田下野守。子は安国寺恵瓊という説がある。


安芸武田氏の当主・武田元繁の子、武田下野守(名は不明)の子であるとされ、武田信実とは義理の従兄弟の関係にあるとされる。ただし、安芸武田氏の家系図には疑問点も多く、必ずしもこの関係が正しいとは言い切れない。

武田信実は天文4年(1535年)に武田光和が死去した後(異説有り)に若狭武田氏から養子として迎えられて当主となったが、養子のために家中の統率ができず、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いで尼子詮久が毛利元就に敗れて出雲国に撤退すると、佐東銀山城は孤立無援となり、信実は城を捨てて出雲国に逃亡した。

しかし城兵300人ほどは一族の信重を擁立してなおも抵抗する。しかし勝敗はすでに決しており、毛利元就に攻められて佐東銀山城は落城し、信重は自害した。これにより、安芸武田氏は完全に滅亡したのである。

武田信重の遺児は、銀山城落城の際に家臣に連れられて安芸国の安国寺(不動院)に逃れ、後に安国寺恵瓊として毛利元就に仕える外交僧となって、戦国の世に名を馳せることになる。

武田 信実(たけだ のぶざね、大永4年7月18日(1524年8月17日) - 弘治元年10月6日(1555年10月21日))は、戦国時代の武将。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。安芸武田氏当主武田光和の急死により、その養子として迎えられ、安芸武田氏の当主となる。

武田光和の後継に迎えられたものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起き、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃した。しかし安芸平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を捨てて逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、出雲に逃亡した。

1540年、尼子詮久が毛利元就討伐のため安芸に出陣すると、晴久は安芸武田氏復興のための援助をするべく牛尾幸清に兵2000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させた。尼子詮久は郡山城を攻撃したが、攻略は遅々として進まず、翌1541年、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる(吉田郡山城の戦い)。

尼子氏の敗北により再度佐東銀山城は孤立し、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡。城兵の多くも逃亡した。佐東銀山城には300余の兵が籠城していたが、武田氏の重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに佐東銀山城は開城した。これにより安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。

この後、安芸武田氏の血を受け継ぐ(武田信実の従兄弟武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも)安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍することとなる。

大内 輝弘(おおうち てるひろ、永正17年(1520年) - 永禄12年11月25日(1569年1月1日))は、戦国時代の武将。第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。子に大内武弘。太郎左衛門。

(生涯)
周防大内氏の一族であるが、父の大内高弘が謀反を起こして豊後大友氏の下へ亡命していたため、豊後国で生まれたとされる。大内氏の第18代の当主とする場合もあるが、輝弘に大内氏としての実権は全く無く、大内義長の死によって大内氏は断絶したと見るのが正しいと思われる。

永禄11年(1568年)、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に、一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は寄食していた輝弘に兵を与え、同年8月から9月にかけて、若林鎮興らの大友水軍を付けて、密かに海上から周防国に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが、水上戦では市川経好の軍を撃破した。

大内氏の一族であったが故に周防に侵入すると、毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし高嶺城を守る市川経好夫人が、少ない城兵を指揮し、徹底して抗戦したため、輝弘は山口の大内氏別邸築山屋形に入るに止まり、山口を完全に占領することができなかった。

輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して、吉川元春、小早川隆景率いる精鋭を周防に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するも、追撃厳しく富海(とのみ:現在の防府市)の茶臼山にて自害して果てた(大内輝弘の乱)。

輝弘の山口乱入によって、毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。大内輝弘は大友宗麟の捨て駒として利用されたともいえる。

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