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			<title>戦国武将列伝</title>
			<description>マニアックな武将から有名な武将まで様々な武将を紹介するブログです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21</link>
			<language>ja</language>
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			<title>戦国武将列伝</title>
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			<description>マニアックな武将から有名な武将まで様々な武将を紹介するブログです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21</link>
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			<title>第二百九十回香川 光景</title>
			<description>香川 光景（かがわ みつかげ）は、戦国時代から江戸時代前期にかけての戦国武将。安芸香川氏当主。安芸武田氏家臣、後に毛利氏家臣。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（安芸武田氏の衰亡）&lt;br /&gt;
香川元景の嫡男として生まれる。当時の主家・安芸武田氏は、当主の夭折や討死などにより、勢力が衰え、存亡の危機を迎えていた。その中で同じ安芸武田家臣であった熊谷信直が離反し、毛利側に転じた。1531年（享禄4年）、安芸武田氏当主・武田光和は香川光景や己斐氏等に命じて、熊谷信直を討つべく三入高松城攻略に向かった。しかし、熊谷信直・熊谷直続兄弟は寡兵ながらも安芸武田方を打ち破った（横川表の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田光和が病死すると、安芸武田家中では、その後継を巡っての争いが起きた。香川光景は若狭武田氏から養子を迎えて、大内氏・毛利と和平して、戦力を立て直すべきだと主張した。しかし品川左京亮らは、主戦論を主張して、家中には大きな亀裂が起きた。結局、新たな安芸武田氏当主には、若狭武田氏より武田信実が迎えられたが、重臣間の軋轢は一層強まり、不穏な空気が流れ始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その最中、ついに品川左京亮らは決起し、香川光景の居城・八木城を攻撃した。光景は熊谷氏らの支援を得て、品川勢を撃退したが、安芸武田氏の崩壊は明らかで、当主の武田信実も佐東銀山城から逃亡し、家臣らも相次いで逃亡した。品川一族はこの際に逃亡し、一部は石見国の益田氏に仕えて、子孫に山中幸盛との一騎打ちで有名な品川将員を出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1540年（天文9年）に、出雲国の戦国大名・尼子詮久（後の尼子晴久）が毛利元就の居城・吉田郡山城へ侵攻すると、信実は尼子氏の支援を得て、牛尾幸清らとともに佐東銀山城に復帰した。しかし、吉田郡山城の戦いで尼子氏が撤退を余儀なくされると、信実と牛尾幸清は出雲国へ逃亡した。佐東銀山城にはまだ安芸武田氏の兵士が籠っていたが、毛利元就が佐東川対岸より火の点いた草鞋を流して陽動作戦を行い、後方より奇襲して攻略した。また残存の諸勢力は光景が投降を呼びかけ、抵抗する者は皆無となり、安芸武田氏は滅んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（毛利氏家臣として）&lt;br /&gt;
香川光景は熊谷氏らとともに毛利氏に従っていたが、1551年（天文20年）の大寧寺の変により、大内義隆が殺害されると安芸国内も不穏な状況となった。1555年（弘治元年）に毛利元就は大内義長傀儡政権を牛耳る陶晴賢との決別を宣言し、厳島の戦いの前哨戦が始まる。まず、大内方の佐東銀山城を攻略し、光景は広島湾に浮かぶ仁保島（現在の黄金山）にある仁保島城に入り、守将となった。陶方は三浦房清を大将として仁保島城の攻略を図ったが、光景は陶勢を撃退した（仁保島合戦）。厳島の戦い本戦では、水軍を率いて参戦し、陶勢壊滅の一翼を担った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛利氏は大内領の周防国・長門国を併呑し、その後に北の尼子氏との対決が始まると、1564年（永禄7年）には三村家親とともに伯耆国の不動ガ嶽城を攻撃して、救援の尼子軍を撃退した後に攻略した。翌年には八橋城攻略戦にも参加して、同城を攻略した。また同年には尼子氏が降伏し、光景の山陰での活動は終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（尼子再興軍・宇喜多氏との戦い）&lt;br /&gt;
1569年（永禄12年）、尼子勝久・山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲国・伯耆国の旧尼子勢力を結集して、出雲国へ侵入し、月山富田城を包囲した。それに注目した美作三浦氏の残党は尼子再興軍と、備前国の戦国大名・宇喜多直家と手を結び、連合軍を成して美作国に侵入した。毛利氏は援軍として香川光景を派遣。光景は子の香川広景、香川春継、一族の香川勝雄らを従えて城将・安達信泰の守る高田城に入城、連合軍は光景らの守る高田城への攻撃を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高田城内には尼子の降将が多数おり、内応者が続出して光景らは苦境に立たされた。香川勝雄はその混乱に乗じて攻撃を加えてきた尼子・三浦連合軍と、その支援に来た宇喜多春家率いる宇喜多勢と戦って討死した。香川光景や香川勝雄らの奮戦によって、高田城は落城を免れた。その後、光景は高田城を放棄して退却し、三浦貞広が高田城に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、光景は家督を嫡男の広景に譲って隠居した。1605年（慶長10年）没</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/29276703.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2012 08:41:03 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十九回伴 繁清</title>
			<description>伴 繁清（とも しげきよ）は、戦国武将の武将。安芸武田氏の一族で、武田元繁の子とも弟とも、娘婿とも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永正14年（1517年）の有田中井手の戦いでは、武田元繁配下として出陣し、品川信定らと有田城包囲軍に加わる。しかし、突出した熊谷元直に引き続き、毛利元就によって総大将の武田元繁が又打川で討死するに及び、撤退した。その後は元繁遺児の武田光和を支えて大内氏やその傘下の毛利氏と対抗する。天文2年（1533年）に安芸武田氏と家臣であった熊谷氏が対立。光和は熊谷信直討伐を企てて、繁清は総大将として香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行らを従え、三入高松城下へ出陣、横川表の戦いとなる。この戦いでは少数の熊谷勢が武田勢を圧倒。繁清も負傷して退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文10年（1541年）に吉田郡山城の戦いで尼子詮久（後の尼子晴久）率いる尼子軍が敗れて撤退すると、安芸武田氏居城の佐東銀山城から武田信実らが逃亡、実質安芸武田氏は滅亡してしまった。繁清は居城の伴城に籠るも、同年（翌年説もある）毛利氏らの攻撃を受けて城は落城、討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滅亡時に繁清の孫が伴城から脱出するが、この遺児が成長して安国寺恵瓊と名乗ることとなる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/29276678.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2012 08:36:48 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十八回武田 信重</title>
			<description>武田 信重（たけだ のぶしげ、生年未詳 - 天文10年5月13日（1541年6月7日））は、戦国武将の武将で、安芸武田氏の一族である。武田信実が逃亡した後に、安芸武田氏の家督を継いで当主になったとする説もある。父は武田下野守。子は安国寺恵瓊という説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安芸武田氏の当主・武田元繁の子、武田下野守（名は不明）の子であるとされ、武田信実とは義理の従兄弟の関係にあるとされる。ただし、安芸武田氏の家系図には疑問点も多く、必ずしもこの関係が正しいとは言い切れない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田信実は天文4年（1535年）に武田光和が死去した後（異説有り）に若狭武田氏から養子として迎えられて当主となったが、養子のために家中の統率ができず、天文10年（1541年）の吉田郡山城の戦いで尼子詮久が毛利元就に敗れて出雲国に撤退すると、佐東銀山城は孤立無援となり、信実は城を捨てて出雲国に逃亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし城兵300人ほどは一族の信重を擁立してなおも抵抗する。しかし勝敗はすでに決しており、毛利元就に攻められて佐東銀山城は落城し、信重は自害した。これにより、安芸武田氏は完全に滅亡したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田信重の遺児は、銀山城落城の際に家臣に連れられて安芸国の安国寺（不動院）に逃れ、後に安国寺恵瓊として毛利元就に仕える外交僧となって、戦国の世に名を馳せることになる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/29276656.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2012 08:33:42 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十七回武田 信実</title>
			<description>武田 信実（たけだ のぶざね、大永4年7月18日（1524年8月17日） - 弘治元年10月6日（1555年10月21日））は、戦国時代の武将。国人領主としての安芸武田氏最後の当主。若狭守護武田元光の子。安芸武田氏当主武田光和の急死により、その養子として迎えられ、安芸武田氏の当主となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田光和の後継に迎えられたものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起き、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃した。しかし安芸平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を捨てて逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、出雲に逃亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1540年、尼子詮久が毛利元就討伐のため安芸に出陣すると、晴久は安芸武田氏復興のための援助をするべく牛尾幸清に兵2000を与え、信実とともに佐東銀山城に入城させた。尼子詮久は郡山城を攻撃したが、攻略は遅々として進まず、翌1541年、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる（吉田郡山城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尼子氏の敗北により再度佐東銀山城は孤立し、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡。城兵の多くも逃亡した。佐東銀山城には300余の兵が籠城していたが、武田氏の重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに佐東銀山城は開城した。これにより安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後、安芸武田氏の血を受け継ぐ（武田信実の従兄弟武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも）安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍することとなる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/29276635.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2012 08:30:43 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十六回大内 輝弘</title>
			<description>大内 輝弘（おおうち てるひろ、永正17年（1520年） - 永禄12年11月25日（1569年1月1日））は、戦国時代の武将。第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。子に大内武弘。太郎左衛門。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（生涯）&lt;br /&gt;
周防大内氏の一族であるが、父の大内高弘が謀反を起こして豊後大友氏の下へ亡命していたため、豊後国で生まれたとされる。大内氏の第18代の当主とする場合もあるが、輝弘に大内氏としての実権は全く無く、大内義長の死によって大内氏は断絶したと見るのが正しいと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に、一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は寄食していた輝弘に兵を与え、同年8月から9月にかけて、若林鎮興らの大友水軍を付けて、密かに海上から周防国に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが、水上戦では市川経好の軍を撃破した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大内氏の一族であったが故に周防に侵入すると、毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし高嶺城を守る市川経好夫人が、少ない城兵を指揮し、徹底して抗戦したため、輝弘は山口の大内氏別邸築山屋形に入るに止まり、山口を完全に占領することができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して、吉川元春、小早川隆景率いる精鋭を周防に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するも、追撃厳しく富海（とのみ：現在の防府市）の茶臼山にて自害して果てた（大内輝弘の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輝弘の山口乱入によって、毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。大内輝弘は大友宗麟の捨て駒として利用されたともいえる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13663310.html</link>
			<pubDate>Sat, 08 May 2010 11:12:51 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十五回冷泉 隆豊</title>
			<description>冷泉 隆豊（れいぜい たかとよ、永正10年（1513年）- 天文20年（1551年））従五位下 左衛門少尉。戦国大名大内氏の家臣。冷泉興豊の子。冷泉元豊、冷泉元満の父。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家系は大内氏の庶流にあたり、母方を公卿の冷泉家とする祖先が、母姓を冒して冷泉姓を称したことにはじまる。冷泉家は藤原為家の子の為相を祖とする和歌の師範家の流れをくむ家柄。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大内義興に早くから仕え、その没後は子の大内義隆に仕えた。大永七年（1527）安芸仁保島、国府城に戦う。天文十年（1541年）には安芸の銀山城主となる。天文十一年、義隆に従い、毛利元就らと共に敵対する尼子氏の出雲に遠征するが、全軍敗走した。同十二年より伊予で戦う。 その後は主君・義隆や相良武任らの文治派と陶晴賢らの武断派の衝突が深刻化すると、両者の暴発を回避しようと、その仲介に奔走する。晴賢が謀反を起こす直前、義隆に晴賢を誅殺するように進言したが、容れられなかったと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1551年、晴賢が謀反を起こすと義隆とともに逃走し、義隆が自害を覚悟するとその介錯を務め、自身も陶軍の中に突撃して果敢に討ち死にしたと言う。その忠臣ぶりは、高く評価されたといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
隆豊は武勇に秀でていただけではなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子の元豊は毛利氏に仕え、門司城の城代をつとめたが、1562年、大友氏の攻撃により討死した。その跡は元豊の弟の元満が継ぎ、水軍の将として活躍した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（寝太郎伝説）&lt;br /&gt;
妻に平賀玄信の娘を迎えていたとされ、父・玄信が武田信玄に討たれた後、弟・平賀清恒は姉を頼って大内氏に仕えたとされる。清恒は大寧寺の変にて義兄が討たれた後、厚狭に逃れ地元農民の為に田畑を開墾したことで三年寝太郎のモデルとして厚狭地方に伝承されている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13616454.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 May 2010 09:34:59 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十四回陶 晴賢</title>
			<description>陶 晴賢（すえ はるかた）は、戦国時代の武将で、周防大内氏の重臣である。初名は隆房（たかふさ）で、晴賢と名乗ったのは天文20年（1551年）に大内義隆を殺害した後に、大友晴英（後の大内義長）を当主に据えて後、厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（家督相続）&lt;br /&gt;
大永元年（1521年）、陶興房の次男として生まれる。陶氏は大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄であった。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。元服してからの名である隆房（たかふさ）は、義隆の偏諱を受けたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文6年（1537年）、従五位下に叙位されている。天文8年（1539年）、父が病没したため、家督を相続した（ただし、父の生前から家督を受け継いでいたという説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（大内氏の家臣時代）&lt;br /&gt;
天文9年（1540年）、尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年（1541年）1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた（第1次吉田郡山城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文11年（1542年）には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め（第一次月山富田城の戦い）には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。このため、義隆は軍事面に興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになった。このため、文治派として台頭してきた相良武任と武断派の隆房は徹底して対立し、さらに相良武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文14年（1545年）､義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を掌握する。天文17年（1548年）に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。しかし同年、義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて大内家中枢から排除される。このため天文19年（1550年）、内藤興盛らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆に知らされたため、隆房は義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失ってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 謀反）&lt;br /&gt;
天文20年（1551年）1月、相良武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて、「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴してしまった。これを契機として義隆と隆房の仲は遂に破局を迎え、8月10日には相良武任が周防から出奔してしまったことにより、両者の対立は決定的となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月28日、隆房は遂に挙兵して山口を攻撃し、9月1日には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した（義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある）。そして野上房忠に命じて筑前を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には、杉重矩も殺害した。義尊同様に義隆の子である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（毛利元就との戦いと最期）&lt;br /&gt;
天文21年（1552年）、義隆の養子であった大内義長（大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘）を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。このとき隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年（1554年）、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弘治元年9月21日（1555年10月6日）、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸国厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（死後）&lt;br /&gt;
晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・陶長房は自害に追い込まれる。以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年（1557年）には毛利軍によって滅ぼされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（人物・逸話）&lt;br /&gt;
直情型で独断専行の多い人物で、義隆との対立も文治派と武断派との反目というより、自身の性格が原因したとも言われている。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
晴賢配下には江良房栄という智勇兼備の武将がいたが、この人物を恐れた毛利元就は房栄が内通しているという噂を流し、晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに、房栄を誅殺してしまった。また、厳島の戦いにおいても腹心の弘中隆包が「元就の狙いが大内軍30000の大軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」と進言したにも関わらず、これを聞かずに出陣・大敗して自害するなど才覚に比して器量に不足していた面をのぞかせる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の陶興房に似て武勇に秀でた人物で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
疑心深く、かつ冷酷な人物で、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。その直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したとされている。一方で、家臣を思いやるような逸話もある。出雲遠征から敗走する際に、自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辞世は「何を惜しみ　何を恨みん　元よりも　この有様に　定まれる身に」。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13616332.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 May 2010 09:27:40 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十三回内藤 興盛</title>
			<description>内藤 興盛（ないとう おきもり）は、戦国時代の守護大名大内氏の重臣。大内義興、義隆の2代に仕え、約半世紀にわたり長門国守護代、評定衆など重職を占めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（生涯）&lt;br /&gt;
伯父の弘矩は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言により謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で弘矩の弟弘春が家督を継承することになる。弘春の子興盛は、弘矩の娘を娶り、内藤氏の当主となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（大内氏文武の要）&lt;br /&gt;
義興に仕え、宿老として長門国の守護代を務めた。義興の上洛にも参陣し、享禄元年（1528年）に義興が死去した後はその嫡子大内義隆に仕える。義隆の時代には家中随一の大身の重臣となった。評定衆を務め、天文9年（1540年）の吉田郡山城の戦いには陶隆房（晴賢）らと共に援軍として派遣された。また、同11年（1542年）の月山富田城の戦いにも出陣し、菅谷口攻めを担当し毛利元就らと攻撃したが抜くことはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（大寧寺の変）月山富田城の戦いでの敗北の後、軍事・政治に関心を失った義隆との関係は冷却化する。文治派と武断派の対立が深まるなか、興盛は義隆に嫡子義尊に家督を譲り隠居するよう勧めるも拒否されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（1551年）の陶隆房の謀反（大寧寺の変）のときは、消極的に隆房を支持し、義隆からの和睦の仲介要請を拒否したが、その直後に隠居した。隠居には、大内氏の継承を巡る陶隆房との意見の相違があったとも言われる。嫡子の隆時はこの時には既に亡くなっていたため（月山富田城の戦いのときとも。）、家督は嫡孫の隆世が継いだ。天文23年（1554年）に死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（死後）&lt;br /&gt;
娘の嫁ぎ先の毛利氏と、孫娘の嫁ぎ先の陶氏との対立が鮮明となってきた矢先の病死だったため、内藤氏一族は、自らの義兄陶晴賢を支持する嫡孫・隆世派と、娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派が対立し、興盛の死んだ翌天文24年（1555年）の厳島の戦いを機に一族が分裂することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓所は山口県山口市の善生寺。また、同寺には肖像画も残されている。内藤興盛の血筋は毛利氏家臣として存続し、毛利隆元室の尾崎局より生まれた外孫が毛利輝元として毛利氏を相続したことで、血筋は毛利家の外戚としても伝わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（逸話）&lt;br /&gt;
大内家中では、武将・重臣としてとともに文化人、教養人としての信望が厚かったと言われている。近衛尚通に源氏物語の外題を請うたこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大内氏臣下の意見を当主に取り次ぐ役回りを務めるなど、温厚な人柄で人望が高かったが、その一方で大寧寺の変のときには、義隆からの助命の要請を拒絶しており、乱世の厳しい主従関係がうかがわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、興盛自身は熱心な仏教徒であったと言われているが、フランシスコ・ザビエルが天文19年（1550年）と翌20年（1551年）にキリスト教布教のため山口を訪れたとき、ザビエルらを屋敷によく招き、尽力して2度ともザビエルと義隆の面会を実現させた。さらに大寧寺の変のときはザビエル一行を自邸に保護するなど、ザビエルの庇護者としても知られる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13616135.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 May 2010 09:15:52 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十二回相良 武任</title>
			<description>相良 武任（さがら たけとう）は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（生涯）&lt;br /&gt;
明応7年（1498年）、相良正任の子として生まれる。相良氏の本姓は藤原氏。家系は藤原南家のひとつで、肥後の国人・相良氏の一門であるとされている。正任は、室町時代の相良氏の家督争いにおいて下相良氏の相良長続に敗れた上相良氏の相良頼観の子である「鬼太郎」のことではないかという説がある。文人として優れ、『正任記』を著している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武任は大内義隆の右筆・奉行人として仕え、国人の統制と守護代の権力抑制、大名権力の強化に務めた。この行政能力を義隆に信任され、天文6年（1537年）に従五位下に叙位され、評定衆にも列せられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文10年（1541年）、陶隆房（陶晴賢）が出雲遠征を提言したことに対して反対し、これを契機に隆房と対立する。そして出雲遠征が失敗に終わると（月山富田城の戦い）大内家で主導的立場に立つこととなり、大内義隆の信任を受けて文治派を形成し、武断派の陶隆房、内藤興盛らと対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文14年（1545年）、隆房らの巻き返しを受けて失脚し、出家する。その後、肥後に隠棲していたが、天文17年（1548年）に義隆の要請を受けて再出仕した。しかし天文19年（1550年）には隆房との対立が決定的となり、暗殺まで謀られるに至るが、武任は事前に察知して義隆に密告することで難を逃れた。しかし隆房との対立を回避するため、陶長房（隆房の嫡男）に美貌で知られた自分の娘を嫁がせるなど融和策をとったが、すべて失敗に終わったため、同年9月16日に大内家を出奔する。しかし筑前で守護代・杉興連によって抑留され、周防に戻されてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（1551年）1月には「相良武任申状」で義隆に対して「隆房・興盛らに謀反の企てあり」と知らせ、さらに杉重矩のことまで讒訴するにいたり、武断派との仲は破局を迎え、8月10日に武任は再び大内家を出奔する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして陶隆房が謀反を起こしたとき、隆房の命を受けた野上房忠によって杉興連と共に花尾城で殺害された。享年54。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（人物）&lt;br /&gt;
武任のことを「大内義隆記」では「老臣らを讒訴する奸臣」と評している。 &lt;br /&gt;
行政能力は秀でていたようで、文治派の形成は義隆の大名権力の強化を図ったものともされている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13615522.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 May 2010 09:00:51 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>第二百八十一回大内 義隆</title>
			<description>大内 義隆（おおうち よしたか）は、周防の守護大名・戦国大名。周防大内氏の第31代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本姓は多々良氏。家系は周防国の在庁官人・大内氏。周防・長門・石見・豊前・筑前守護職。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は大内義興、母は義興の正室である内藤弘矩の女。正室は万里小路秀房の女・貞子。実子に大内義尊、問田亀鶴丸。養子に大内晴持、大内義長、尾崎局（毛利隆元正室）。幼名は亀童丸。官位は従二位兵部卿・大宰大弐・侍従。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（家督相続）&lt;br /&gt;
永正4年（1507年）11月15日、周防・長門の太守で、大内氏の第30代当主である大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元服後の大永2年（1522年）から父に従い、大永4年（1524年）には安芸に出陣する。岩国永興寺から厳島へ入り、陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月には尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享禄元年（1528年）に父が死去したため、家督を相続する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（勢力拡大）&lt;br /&gt;
享禄3年（1530年）からは九州に出兵し、北九州の覇権を賭けて、豊後の大友氏や筑前の少弐氏と対立する。そして家臣の杉興連・陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めさせた。そして肥前の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし、杉興連に命じて行なわせた少弐氏攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫し、失敗に終わった（田手畷の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文元年（1532年）、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、長府に在陣し、義隆は名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文3年（1534年）、龍造寺家兼と密かに結んで少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。興房に命じて大友氏の本拠である豊後を攻略しようとするが失敗（勢場ヶ原の戦い）する。この年には後奈良天皇の即位に合わせて2千貫を朝廷に寄進して、翌年に大宰大弐の叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、金銭で官職を買う義隆の姿勢に釈然としないものがあったらしく1日で取り消されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文5年（1536年）、漸く大宰大弐に任命され、大義名分を得た義隆は9月には少弐資元を肥前多久城に討って龍造寺氏とともに少弐氏を滅亡に追い込み、北九州平定をほぼ完成させた。このとき、龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文6年（1537年）、将軍・足利義晴から幕政に加わるように要請を受け、京都への上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、さらに領国経営に専念するために中止した。このころ、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。また、宿敵であった大友義鑑とも和睦している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文9年（1540年）には、尼子経久の孫尼子詮久が安芸へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った（吉田郡山城の戦い）。義隆は陶隆房（興房の子、後の晴賢）を総大将とした援軍を送り、尼子軍を撃破する。以降は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年（1541年）には、尼子方の国人である安芸武田氏・友田氏を滅ぼして安芸を完全に勢力下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（文治体制）&lt;br /&gt;
天文11年（1542年）、出雲に遠征して月山富田城を攻囲するも、配下の国人衆の寝返りにあって尼子晴久に大敗した（月山富田城の戦い）。しかも、この敗戦により養嗣子の大内晴持を失ったため、政治的関心を失い、もともと関心の強かった文人的傾向が強まり、文治派の相良武任らを重用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。また、天文16年（1547年）、天竜寺の策源周良を大使に任じ、最後の遣明船を派遣している。さらに京都風を取り入れた独自の文化である大内文化を創始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文19年（1550年）には山口に来たフランシスコ・ザビエルとも面会したが、男色を罪とするキリスト教の教えに義隆が激怒したためにザビエルとの関係は途絶えることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文19年（1550年）には陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時、大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶討伐を諫言したが、義隆はこれを受け入れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（大寧寺の変）&lt;br /&gt;
しかし険悪な関係であった武断派の陶隆房（周防国守護代）は天文20年（1551年）8月末、謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛（長門国守護代）も黙認し、義隆を救援することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが、暴風雨のために逃れることができず、長門深川の大寧寺に逃亡し、そこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりは目覚しかったが、多勢に無勢であり、義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。辞世は「討つ者も　討たるる者も　諸ともに　如露亦如電　応作如是観」と伝わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍の手によって殺害された。義隆・義尊の死により事実上、周防大内氏は滅亡した。なお､この時､周防に滞在していた太政大臣三条公頼をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ、殺害された。また、義隆の死を以って日明勘合貿易が断絶した。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kazano21/13615428.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 May 2010 08:56:09 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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