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(2004年度のまとめから抜粋) ・・・・・・・・・ 母のことを少し。 母とは事情があって、5歳のときに、 生き別れたきりの暮らしをしてた私。 ところが、母が末期の癌と分かり、 親戚の者が「少しでも、母子の時間を作ってあげたい」と、 私と私の妹に、母と会う手はずをしてくれた。 それが、2004年5月のことだった。 5月6日から5月10日までの、母と過ごした最期の時間は 私にとっての「奇蹟の四日間」だった。 母が息をひきとる瞬間まで、私は手を握って 看取ることができた。 母が最期の息をついたのは 5月10日。午後10時45分のこと─。 大きく長い息をして、母の壮絶ともいえる生涯は、終わった。 ずっと会わずにいた母だったから すぐには『母との再会』はピンとはこなかった。 母に会ったときには、母はもうすでに意識はなく 何を問いかけても、答えてはくれない状態でもあった。 それでも─ ずっと手を握っていたら、いろんなことを思い出してくる。 母との記憶は、5歳のときのものまでしかない。 しかも その、ほとんどが、辛い記憶しかないのだけれど。 私が5歳のとき。 自分の道を選んで、家を出た母。 私は「母を恨んではいない」・・と 今までずっとずっと思っていたんだけれど。 実は心の中で、あることを母に問いかけ続けていたんだなということが、分かった。 ずっと問い続けていたのは 『お母ちゃん・・私のこと、愛してくれてた・・?』 母は、すっごくすっごくスパルタな人だった。 私はとても厳しく、躾けられた。 母の手のひらが、怖かった。 本当に。 躾けとはいっても、見ようによったら、あれは虐待ととられるだろう。 いや、私でさえ、今も「あれは虐待だった」といぶかしく思うほどだから。 そして幼い私は思っていた。 『お母ちゃんは、私のこと、嫌いなんだ』って。 そのことは、実は、この年になるまで 私の人格に、大きく陰を落としていたのだ・・。 今思えば・・・ではあるが。 大きなしこりとなって、私の中へ、ドカンとあった。 けれど、そのしこりは無くなった。 母との最期の時間を過ごせて、それは消えた。 ・・・ 言葉を交わせなくても、分かった。 母は私を、愛してくれていたんだってことが・・。 他の付き添いの人が誰もいなくなったとき 母の耳元で言えた・・。 「お母ちゃん、生んでくれてありがとう」 自然に思えた。 私の言葉、、、届いたと思う。 意識はなくても、耳はずっと聞いているから、と、看護婦さんが言っていた。 だから、聞いてくれたよね。 私は2001年に父を亡くして、その翌年に 母代わりだった祖母も亡くしているので、これで 私の大切な身内は、すでに空の住人になってしまった。 大切な人が空にいると思うとね・・ 「見てくれてるんだから、今日もがんばろう!」 「せっかく生きてるんだから、生きなくちゃ」 って思うんだよね。 私の中の心の目が、増えたって感じかな・・。 そして「自分の時間を精一杯生きよう」と 思えるようになる。 これが、2004年の一番の出来事だし、 この先の私の人生を大きく変えたであろう 出来事だった。 平成16年12月2日記述
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お母さんとの最後の日々、おかあさんも喜ばれたと思います。母の子への思いは断ち切りがたいもの、心の片隅にず〜っと存在し続けたのじゃないでしょうか。ほんとによかったですね。
2005/4/27(水) 午後 8:39
夢子さん、ありがとうございます。母は、私が側に居ることを、意識がないながらも感じていたようです・・お医者さまが「もう目は開けないと思います。意識を今戻すのは本人さんが辛いので」とおっしゃってたんですが「おかぁちゃん」って呼んだとき一度だけ目を開けたんですよ。そして大粒の涙がこぼれたんです、母の目から・・辛い思いをして目を開けてくれたんですね・・今、思い出しても、胸が痛いです。
2005/4/28(木) 午前 11:51
看護婦さんが言われたとおり、最後まで耳は聞こえるといいますものね。思い残すことがないという嬉し涙だったのでしょう。いいようもないような満足があったような気がします。
2005/4/28(木) 午後 0:59
母の目が開いたときに、確かに母の目と合ったんです。だから、きっと夢子さんが書いてくださったように満足な気持ちだったらいいな・・私は子供がいないので「母親の切実な気持ち」っていうのが想像できないので・・母である夢子さんに言っていただくと、きっとそうだったんだ、と嬉しいです・・(^^)
2005/4/28(木) 午後 2:57