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平成11年ー(春〜夏)
誤嚥してから母の食はますます細くなってゆく。
先生が往診にこられるたび「今日こそは、、」と経管栄養の為の鼻に通すチューブを鞄から出されるが母は本当に哀しそうな顔し、全身を震わせながら微かに「イヤ!」と言う。
それ以上の抵抗を出来ない母の意を守ることができるのは私しかいない。
「総蛋白が5を切ったら泣いてもしますよ」と言い先生は帰られる。
冷蔵庫の扉に高カロリーの食材のスプーン1さじのカロリーを書き連ねスプーン4さじで200カロリーになるようなものを作る。(スプーン4さじ食べるのが精一杯になっていた)料理ではない。おいしいものでもない。
ただ生きるためだけのものを口に運ぶ。
45キロあった体重は30キロをきりはじめた。
日々介助する母の体が軽くなり顔は骸骨を思わせる輪郭となり手足の関節だけが目だつ。
この頃の母のバイタルはspo2が88%前後、リハビリをして91%。
血圧は変動が激しく上80、下60、上が100を超えることは無く、車椅子に移乗した直後は起立性低血圧による意識喪失が必ず起きる。会話も一言が小さな声でやっと。
それでも外出は続けていた、毎日だったのが1日おきになっても、表の空気景色を見ている母の目は以前にも増して輝いていた。
気管切開についても話し合い母の「する」という言葉を聞いていた。
ぎりぎりのところで母は生を選択した。多分子供の無い私の孤独を思いやってのことと
この際親不孝もありかと母の選択に感謝した。
民間療法の目的で病院の近くにマンションを借り毎週行っていた赤穂も隔週になり何度目かの赤穂での夜。
夕食が少なかったのでせめて何口でもとエンシュアーを飲ませていたらいつもは2〜3口で嫌がるのがゴクゴクと飲んでいる。アッという間に200ml,よかったと思った瞬間
母は息をしていない!誤嚥していた。あわてて吸引を繰り返すが吸引中は息の反応があるが吸引をやめると反応がない。吸引を繰り返しつつ救急車を依頼する。
静かな田舎の遠くでサイレンの音がかすかに聞こえる。うちに来る音がだんだん近ついてくる。マンションのまえで停まり声が聞こえてくる。
(助かった!)と思った。
隊員の方の処置をしてもなお吸引のみが刺激となり反応するがそれ以外の改善はみられず病院へ搬送となる。部屋からは私が吸引役となった為、着替えの間も、財布を持つ間もなく鍵もあけたまま。
車が病院に着く。若い先生が立っている。(これで助かった!)と思った。
「家族の方は処置室の外で」と言われたが「特殊な病気なので、、」と廊下に押し出されるのを実力行使で突破、呆れ顔の先生。
口を大きく開けれない母の口から装管しようと先生は汗だくに、、。前歯が数本折れ口の中は血だらけ、「嚥下障害があるので一度吸引を」と頼むが、「それはナースがしますから」と母に「口を大きく開けて!」と叫びつつ装管の手を止めない。ナースは依然いない。首を固定し口を開けるのが私の役となる。またサイレンの音が聞こえてくる。
同じ処置室に交通事故のけが人が運び込まれる。先生1人看護師2人しかいないのに。
吸引チューブが手渡され、母と私だけの空間。チューブからたくさんの血液がひける。
私がいなかったらどうなってたの?という素直な疑問が今後ほぼすべての処置に立ち会う覚悟を付けることになる。
どれぐらいたっただろう、こちらに戻ってきた先生は装管を諦めアンビュウーをはじめるが数値は上がらない。しばらくたって呼び出されたであろう年配の先生が来られ、彼の手のかかるや酸素の数値が上がる。この時アンビューの使い方を習得することができた。
その先生は穏やかに「気管切開の時期と思いますがどうしますか?」と言われた
その時のspo2が88%であることから日常とかわらないのでもう少し様子を見たいとの私の意向を聞き入れ、しばらく病室で様子をみることとなる。
病室に移動して1時間もたたぬうちに、母のバイタルは弱くなってゆく。
肺炎を併発しかけていた。応急にこの危機を乗り越えるべくと、いつの間にか数人の先生が集まり病室にて気管切開、人工呼吸器装着の準備が始まった。誰もが人工呼吸器の離脱を前提としていたので悲壮な意思確認は無かった。
このことは、難病のスペシャリストのいない田舎の病院であったことで難病というレッテルが無く一人の人間に対しての救命という行為を優先して行われたことがラッキーだったということを後で身にしみて思うことになる。
処置の為病室の外に出た私は、無一文でパジャマ姿の自分に気ずく。夜中の3時。
その後対面した母は人工呼吸器を装着し、数々のチューブに繋がれ眠っていた。
ほんの数時間前の母との違いに原因は自分だとただただ自分を責めていた。
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