四宮 和彦のチャレンジ

伊東市議会議員四宮和彦に温かいご支援をお願い申し上げます。

読書

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

2月14日(日) 天気:曇り

 2月12日の朝にAmazonに注文してあった荒山徹著「徳川家康トクチョンカガン」が届いた。中古品を頼んだので、上下巻で2,100円也。定価は1冊1,550円だったので、ちょっとだけ安い。

イメージ 1

 届いた本は、ほとんど新品で、何の不満もない。そもそも、2009年9月25日が初版第1刷発行なので、中古本と言っても、よほど酷い取り扱いをしない限りは、新品同然なのも当たり前である。

 新刊図書を購入するんだったら、3,4か月待ってAmazonに注文すれば3割引きで手に入るということか。これじゃあ、出版業界も儲からないわけだ。

 で、つい先ほど、「徳川家康トクチョンカガン」を読み終えてしまった。

 荒山徹という作家については初めてその小説を読んだので、どんなものなのか何の先入観も持たずに読んだのだが、「徳川家康」を「トクチョンカガン」等とわざわざ韓国語読みにしたうえ、小説の始まりが豊臣秀吉の朝鮮征伐から始まり、徳川家康に身体的特徴が酷似した僧兵「元信(ウォン・シン)」が登場するので、

「あぁ、こいつが家康の影武者になるっていうパーターンのヤツやな・・・(Wエンジン風に)」

やはり、「隆慶一郎『影武者徳川家康』ベースの伝奇小説なのだな。」とおおよその世界観が冒頭の数行でつかめる。

 ちょっと、予想外だったのが「泗溟降魔衆(サミョンカンマヂュン)」とかいう朝鮮の忍者達の登場である。彼らは超能力者であり、奇形である異能者集団なのである。

 確かに、隆慶一郎「影武者徳川家康」でも甲斐の六郎が不動金縛りの術とか使っていたが、これは引田天功の催眠術にならったもので、必ずしも荒唐無稽とは言えないものがあった。

 一方、「トクチョンカガン」は、隆慶一郎の作品で言えば「風の呪殺陣」の世界により近く、更に言えば、もはや隆慶一郎ではなく山田風太郎の世界である。

 徳川家康の影武者が世羅田二郎三郎元信であるという部分は「世良田」が「世羅田」になっただけで、「隆慶一郎」の小説を踏襲しているが、世羅田二郎三郎が朝鮮の僧兵であったという設定そのものが、かなり「伝奇的」な設定なので、超能力忍者集団の登場はちょっとやりすぎじゃなかろうか。

 隆慶一郎の小説は、荒唐無稽な伝奇小説の形を取りながら、かなり詳細な歴史資料に裏打ちされており、また、日本における正史に疑問を投げかける網野史観を全面的に取り入れている点でかなり飛躍しながらも、リアリティを持った歴史世界に遊ぶことを可能にしてくれたエンターテイメントである。

 「トクチョンカガン」は読み始めて14頁で荒唐無稽なファンタジーになってしまい、筆者が訴えようとした、正史に対する稗史の記述がぼやけてしまったといえる。

 隆慶一郎の高みを目指したものの、登山道入り口で大怪我してしまったようで、残念。

しかし、荒山徹氏は1961年生まれとのこと、今年49歳。まだまだお若い。池田一朗として時代劇脚本を書いたり、映画の世界に長く、小説家としての力を蓄えていたとはいえ、隆慶一郎が小説家としてデビューしたのは61歳である。

 まだまだ先は長い。これからの作品がとても楽しみな作家であることは間違いない。

小説家としての力量に更に磨きをかけ、隆慶一郎の後継者となってほしいものだ。

イメージ 1

イメージ 2

2月10日(水) 天気:曇り

 週末に白石一郎短編集の「風来坊」を読み終えてしまい、今週からスタニスワフ・レム著「ソラリスの陽のもとに」を読んでいたが、夕べ読み終えた。

 朝青龍と「ソラリス」が何の関係あるのか?というと、少々こじつけっぽいが、理由は次のとおりである。

 「ソラリス」のストーリーには様々なテーマが複雑に織り込まれているが、SF小説としての中心テーマの一つは要約すると次のようなものになる。

 人類が宇宙へ出て行き、地球外知的生命体に接触したときに人間がとり得る態度は、相手を理解する為に努力することであるが、その理解の目的は、わずかに2通りしかない。

1.相互共生的に生きていくために相手を理解する。(友好的理解)

2.相手を支配し、人間の生活圏を拡大するために人類にとっての利害を理解する。(敵対的理解)

 民主党の友愛精神に基づけば、宇宙開発は1の立場においてなされるべきであろうと思われるが、現実には1の態度で相手を理解することはほとんどの場合不可能に近い。
 なぜなら、人間の理解力は、人間の想像力の範囲においてしか発揮されることはないからである。

 つまり、人間は、自身の生物的特徴、科学的あるいは文化的な現象形態からの類推においてしか相手を理解することはできないのであり、友好的な態度は人間自身との類似性においてしか認識することはできないのである。

 したがって、ほとんどの場合、人間は2の態度において、相手を理解することになる。なぜなら、類似性に共感するよりも、異質性を憎悪する方が簡単であるし、場合によって、その類似性の段階によっては類似性をも憎悪の対象になりうるからである。

 その結果は、人類が勝利し宇宙の覇権を確立するか、人類が敗退し、殲滅されるかの2通りである。
 
 しかし、「ソラリス」で描かれるように、宇宙空間においておそらく唯一の存在であろう、惑星そのものが一つの知的生命体であるソラリスはその存在そのものが人間にとって理解不能の存在であり、また、その知的活動と想像されるソラリスの海の様々な活動も、人間の知的活動からは全く想定外の活動であり、人間の科学・文化との比較が不可能な異質な知性である。

 良くSFに描かれる宇宙人は宇宙「人」と書かれる段階で、人類のアナロジーである。だから、地球よりはるかに進んだ科学をもっているとか、地球ほどは進んでいないとか、人類の歴史段階に対応する類推として理解可能な存在として描かれる物がほとんどである。その点でソラリスは全く異質な理解不可能な地球外知的生命体なのである。

 そのような存在に出会った時人類は如何なる態度をとり得るか?

友好的にしろ敵対的にしろ基本は相手を理解することが前提である。
小説では、この理解不能なソラリスの存在の前に登場人物全員が始めから終りまでパニック状態にあり、精神を衰弱させながらも最後までずっとそのパニック状態は終わらず、何の解決策も示されない。
 したがって、読者はその登場人物の態度に苛立たされ、読んでいて非常に疲れる。

 理解不能な存在に出会ったとき、人はどう行動するか?

 少なくとも、友好的態度はとる前提がない。から、敵対的になるかというと利用価値があるのか否か、自分にとって有益か有害かすら分からない存在であれば敵対的にすらなりえない。

 理解不能な物を敵対的に処理する可能性はあるが・・・・。

 結果としてその存在を無視して放置しておく以外に対処の仕方はないのである。

 で、朝青龍である。モンゴル相撲と日本の相撲の類似性から、かれは日本で関取になってしまったのだろう。

 何が言いたいかというと、朝青龍の側から言うと、日本相撲協会というところは「惑星ソラリス」だったのではないか?

 日本の相撲とのファーストコンタクトにおいてはモンゴル相撲のアナロジーにおいてそれを理解しようと努力を重ね、時に友好的に時に敵対的にそれを理解しようと試行錯誤を重ねてきた。

 しかし、クリス・ケルビンを始めとした「ソラリスの陽のもとに」の登場人物同様、コミュニケーション不能の存在を前にして、彼はパニック状態に陥って行く。

 こうした、パニックの中、朝青龍がとりえた態度はどのようなものだったか?

 彼に残されている選択肢は、先に整理したとおり、「無視」して、その場を立ち去ることだけである。

このように分析すると、唐突な引退発表からハワイでのゴルフまで彼の行動動機が全て説明がつくのである。

 日本は彼にとってソラリスだったのだ。

白石一郎

2月7日(日) 天気:晴れ

 昨日のTV映画「ソラリス」に触発されて、原作本を探しに、本屋に行く。

本屋さんに行ってみると、「ソラリス」は見つからない。確か早川書房のSFシリーズに「ソラリスの陽のもとに」という邦題で翻訳版が出ていたはずなんだが。

 舐めるように、文庫本コーナーを見ていると平積みしてある本の中に「白石一郎」の名前が目に入る。

 本の題名は「風来坊」。聞いたことがない。

 白石一郎と言えば先日息子の白石一文さんとかいう人が直木賞をとったばかりだと思う。

 息子の直木賞に便乗して出版社が未発表原稿をかき集めて出したんじゃなかろうかと思うような、急造の短編集の様だ。

 作品の質はともかく、「白石一郎」の名を見ては買わざるをえまい。

 で、例によって、知り合いの飲食店で、一杯やりながら読書。

 短編集というより、作品によっては未完なんじゃなかろうか?と思う物もあり、やはり、白石一郎没後の遺稿集のような気がする。

 白石一郎と言えば「海狼伝」に始まる、海洋時代小説という分野を切り開いたパイオニアのイメージがあるが、この「風来坊」に関して言えば、初期の藤沢周平の短編集のような味わいである。

 失礼な言い方だが、情緒的だが完成度が低い藤沢周平と言ったところか。

 しかし、作品の完成度がどんなものだろうと、好きな作家の作品は一通り読んでおきたいものであり、こういう物を出版してくれる徳間書店には感謝したい。

 まだ、半分くらいしか読んでいないが、こういう捻りのない短編集も、結構いいかもしれないと思えてきた。

 帰り際、別の本屋に寄ったら「ソラリスの陽のもとに」があったので、迷わず購入。

 あと、最近気になっているのが荒山徹「徳川家康トクチョンカガン」。

 早く文庫本にならないかな?隆慶一郎の「影武者徳川家康」のリメイク小説のような気もするが、どんなもんなんだろう。amazonで1頁だけ読んだが、いきなり朝鮮半島の倭寇の話から始まっていて、「何で徳川家康の話が朝鮮半島、しかも倭寇?」と期待を持たせる。
 別にケチるわけじゃないが、普通のハードカバーの単行本はかさばるので嫌だ。早く文庫化してくれ。

時代小説と料理

2月4日(木) 天気:深夜につき不明

 深夜に小腹がすいたので夜食を食った。

 食器を片づけていてふと思った。江戸時代はどうしてたんだろう?

 池波正太郎の小説なんかを読んでいると、作品の中に頻繁にうまそうな料理が出てくる。

 これは池波正太郎の描写が巧みで読者に旨そうに感じさせる部分も大きいと思うが、「鬼平犯科帳」や「仕掛人梅安」「剣客商売」などのシリーズもの小説には後に「料理読本」のような物が付随して出版されているぐらいだから、池波正太郎小説と料理は切っても切れない関係にあるのは明らかだ。

 で、話題を戻そう。問題は江戸時代の衛生環境だ。

 まず、水道付きの流しなんかない。水は井戸からの汲み置きだろう。食器洗い用の洗剤もスポンジもないのは当たり前のことだ。

 食器類はどんな状態になっていたんだろう。また、調理器具は使ったあとどうなっていたんだろう?

 まあ、現代みたいに油ギトギト料理は少なかったのかもしれないが、ちゃんと綺麗に洗えていたんだろうか?

 見た目はともかく、除菌はできなかったろう。

 こういうことを想像してしまうと、せっかくの料理も台無しになる。想像力は適度な方がいい。

警官の血

 週末に佐々木譲著「警官の血」一気に読んでしまった。上下巻で1,000頁弱か。

 ストーリーそのものは、大沢在昌著「新宿鮫シリーズ」ほどエンターテイメント性はなく、購入意図とは異なるものとなってしまったが、「大河警察小説」としては読者に一気に読ませるだけのストーリー性を持つ小説だったと思う。

 小説の面白さというのは本筋のストーリー展開の面白さもあるが、それを支えるディティールもあると思う。何気なく描かれるディティールにおいて、その小説が映画的か否かが決まると思う。

 私が思うエンターテイメント小説というのは「映画的」な小説だと思う。ディティールが描かれるから、頭に映像が浮かぶ。
 ヲタクっぽいが、一例をあげると、「新宿鮫 狼花」の1シーン。

 新宿の路上で鮫島と鑑識の藪が会話している時に、泥棒市場のボス深見が鮫島を狙うシーン。

深見が背後から二人に近づく。手には新聞紙で隠した拳銃。

深見が新聞紙の陰から拳銃を出す。それを見た藪が「SOCOMかよっ!」と叫ぶ。

 このシーンで映像がリアルに頭に浮かんでしまう私がオカシイと言えばオカシイし、わからない人にはわからないのだろうが、新聞紙の後ろからSOCOMが出てくるなんて言うのは、日本の現実の世界であればリアリティはないだろう。SOCOMを裏社会の連中が調達できるわけがないからである。

 しかし、映画的にはこれは非常に面白いシーンになる。つまり、ここで、藪が「拳銃だっ!」って叫んでも小説的には何も面白くなくて「SOCOMかよっ!」って叫ぶことによって、拳銃を持っている深見だけでなく、藪がどんな人間なのかまでが一部読者には理解できてしまうのであり、それが大沢在昌の狙いでもあるのだろうと思う。

 あんまり解説しても面白くないが、中国・朝鮮製の粗悪なトカレフやマカロフでなく、SOCOMを持っているというだけで、深見は、ただ者ではなく、とんでもない拳銃密輸ルートを持っている組織犯罪者の中でも超大物(場合によってはアメリカ政府機関のエージェント)の可能性が高いと分かる。

 更に、藪が一目で「SOCOMかよっ」と見破ることができるのは、藪がただの鑑識係でなくかなりの銃器ヲタクという愛すべきキャラクターの持ち主であることが分かる。だから、その後、藪が撃たれると、読者は本気で藪が「死なないでほしい」と願い、入院中の藪の回復を祈ってやまないのである。

小説のディティールというのは、マニアにとってここまで大切なのである。犯人が持っている拳銃一つで、ここまで人物描写ができるのである。だから、ハードボイルド作家は基本的にヲタクであろうと思う。

SOCOMが何だか分からず映像が頭に浮かばない人は以下を参照

http://ja.wikipedia.org/wiki/H&K_MARK_23


 一方「警官の血」に関して言えば、こういうアイテム、マテリアルに関する拘りはほとんどない。上野・谷中近辺を中心とした東京都内の街の風景の描写はあるが、それほど詳細な都市描写でもない。

 これがハードボイルド小説でないことは間違いないだろう。

 第一に親子3代にわたる主人公は決してハードボイルド特有のストレートなタフガイではない。

どちらかと言えば、情緒的で脆い精神の持ち主であり、肉体的にも決してタフではない。

 あと、残念なのは長編小説で、親子三代の人生において、二つの事件が伏線として一貫して関係してくるのだが(殺人は3つ行われているが)、途中で犯人が分かってしまい、尚且つ現代人にとっては犯意が希薄で理解しがたく、意外性が全くなく、推理小説としても成立しない点である。

 にもかかわらず、小説として面白いと思ったのは、これは警官一家の家族の物語であり、「現場警察官」のリアルな生活感・苦悩が描かれていると思えるからだ。

 ストーリーとしての後味は決して良いものではないが、3代目主人公の末端の現場警官の血を受け継ぐ者としての狡猾さ、悪賢さはある種の痛快さもあり、後味の悪さを相殺している。

 警察官がお好きな方にはお勧め。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事