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開陽丸青少年センター (かいようまるせいしょうねんせんたー) 開陽丸は徳川幕府がオランダに依頼して建造させた木造機帆走軍艦です。 開陽丸の終焉の地、江差町では開陽丸を復元し博物館として一般公開しています。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)の黒船来航がきっかけで、列強諸国に対抗するには一定の海軍力を保有することが必要であるということになり、それまで幕府が大型船の建造を禁止していたのを、それからわずか3ヵ月後の嘉永6年9月15日に「大船建造禁止令の撤廃」を宣言し大型船の建造が解禁されることになります。 その2年後の安政2年(1855年)には、オランダの支援の下、日本海軍及び海上自衛隊のルーツとも言える海軍要員の育成機関『長崎海軍伝習所』が生まれ、学生は幕臣や藩士などから選抜され、その中から勝海舟や榎本武揚(実は裏口入学)を始めとする箱館戦争と関わりのある人達が輩出されます。 文久2年(1862年)、幕府は当初アメリカに軍艦を発注するつもりでしたが折りしも南北戦争の真っ最中でそれどころでは無かったので、長崎駐在オランダ総領事を通して、オランダの貿易会社に1隻の軍艦を発注します。これが後の『開陽丸』です。 同年6月18日(7月14日)、オランダへ16人の留学生が派遣されます。その中に榎本釜次郎(後の武揚)も含まれています。(1名はオランダの地で亡くなっている) 留学生は建造の見学という目的と手抜き工事を行わないように監視するという役目を持って派遣されました。(咸臨丸が中国の建築物の廃材を使われて建造されたこともあったため、監視員をつけるべきだと助言があった) 翌年の文久3年8月(1863年)にオランダ・ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船会社で起工。 元治元年10月20日(1864年11月19日)、命名式が行われ『開陽丸』と命名されます。 『開陽』とは北斗七星の第六星(ミザール)を中国では『開陽』ということから付けられました。 昔は北極星の役目をしていて、古代中国では天を回転させ太陽を引き上げて暗黒の世界を明るい世界に導く不思議な力を持つ星とされていたらしい。 ちなみに現地オランダでは『Voorlichter』(フォールリヒター)と呼ばれていました。オランダ語で「導く人」「前方を照らす人」「情報を与える人」という意味があります。 慶応2年10月25日(1866年12月1日)、オランダ南部フリッシンゲン港から日本へ回航されます。 翌年慶応3年3月25日、横浜港へ入港。オランダ出航から150日目でした。 横浜入港の後、倒幕の扇動をした薩摩藩士330人を乗せた翔鳳丸を砲撃。その後大阪湾の警護に当たります。 慶応4年(1868年)1月2日、開陽丸は、薩摩藩の平運丸を砲撃。これが引き金となり鳥羽伏見の戦いが起きます。 戊辰戦争の勃発後は、後に阿波沖海戦と呼ばれる海戦で春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を座礁させ勝利します。 (後の聯合艦隊司令官 東郷平八郎は春日丸に乗船していました。) 鳥羽伏見の戦いの後、榎本は徳川慶喜に謁見するため開陽丸を下船しますが、入れ違いに徳川慶喜が開陽丸に乗船して、副長の沢太郎左衛門に命じて1月8日に大阪を出航し、11日に江戸へ帰還してしまいます。(慶喜は妾まで乗船させたというんだから余裕というのかヘタレというのか…) 一方、艦長なのに置いてきぼりを食わされた榎本は、富士山丸に大阪城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両とジュール・ブリューネをはじめとするフランスの軍事顧問団を乗せ、1月12日に大阪を出航。1月14日に品川に入港します。 その後榎本は、海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城となりますが、榎本は開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続け、8月19日、開陽丸を旗艦とした回天丸・蟠竜丸・千代田形丸・咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸は品川沖を脱走。 品川を脱出した旧幕府艦隊は途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸が離脱してしまいますが、何とか仙台に寄港し大鳥圭介、土方歳三をはじめとする奥州列藩の敗残兵2800名を乗せ北上。10月20日に蝦夷地・鷲の木(現在の森町)に上陸します。 その後、函館に入港した後、1868年11月15日、旧幕府軍は江差を攻撃しますが、その援護に向かった開陽丸はタバ風と呼ばれる暴風に遭い座礁。 救出に駆けつけた軍艦「神速」も暴風に巻き込まれ沈没。10日後には開陽丸も沈没します。 後の海底調査によって開陽丸の沈没場所が特定され、発掘により大砲・ピストル・日本刀・食器など32,905点の遺物が発見されています。 艦内には建造されてから沈没するまでの歴史や遺留品、大砲発射時のジオラマなど多数展示されています。 ************************************************* 開館時間 9:00〜17:00 休館日 4月〜10月 無休、 11月〜3月 毎月月曜日と祝日の翌日、 年末年始 入館料 大人700円 小中高生300円 ************************************************* ○開陽丸 要目 船型:バーク型3本マスト 基準排水量:2590t 全長:72.80m(バウスプリットを含むと81.20m) 幅:13.04m 喫水:前方5.70m 後方6.40m 補助機関:蒸気機関 1基1軸 出力:400PS 速力:10〜12ノット(18.5〜22.2km/h) 主要装備:クルップ社製16サンチ施条カノン砲 18門、30ポンド滑腔砲 8門 合計26門(後に9門追加され35門) 乗員:350〜500名 ※『開陽丸』は基本的に帆走のため、エンジンは補助機関となる。
帆走時はスクリューは回転せず水の抵抗になるためスクリューユニットごと船内に引き上げる。 |
戊辰戦争




情報を与える人ってネーミングが如何にも尊大な白人らしい名前ですね(笑) でも、歴史を振り返って見ると、もしこの開陽丸とか他の船が沈没していなければ、北海道共和国はできていたのかもしれませんね。でも樺太がどうなったか、国土があれだけで、人口が増えなければやっぱりロシアに飲み込まれてしまったかな・・・
この船、素敵だけど、船着場に係留しているんじゃないんですね?
2007/8/19(日) 午前 2:01
Keiさん、おはようございます。ネーミングは日本から留学しに行った人たちには「開陽のイメージと違う!」って不評だったようですよ…。
開陽丸があったから制海権が確保できていたので官軍も簡単には蝦夷地に兵を送れなかったので、損失は大きかったと思います。
復元された開陽丸って実は「建物」なんですよね。鉄筋コンクリート製で…。一見係留されてるように見えるんですが船底は砂に埋まってます。さすがに航行可能な復元船にするには地方自治体には荷が重いかも。
2007/8/20(月) 午前 10:12
こんばんは。開陽丸って北斗七星の第六星に因んで命名したのは、
ちょっと以外でした。
海洋(かいよう)と同じ発音で、それで命名したと思っていた・・・
今回もいい勉強になりまして、ありがとうございます。
ところで、ジオラマの榎本さん、髪の生え際を見て、SEEDのアスランを思い出しますね。
2007/8/21(火) 午前 0:29
KKさん、こんばんは。確かに意外ですよね。よく行く郷土資料館から借りてきた本に書いてあったんですよ。
確かにアスランも生え際ちょっと気になるかも…。
2007/8/22(水) 午前 0:15