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旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

書庫城郭

盛岡城

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盛岡城 (もりおかじょう)



別名:不来方城(こずかたじょう)

形式:連郭式平山城

築城年:慶長2年(1597年)

築城者:南部信直、南部利直、南部重直

歴代城主:南部氏

遺構:石垣、土塁、堀、移築土蔵・門

備考:日本100名城、国指定史跡






 盛岡城は、明治維新まで続いた南部20万石の居城で、南部信直・利直・重直により北上川と中津川の合流地点にある花崗岩丘陵上に築かれた平山城です。

 東北地方では珍しい総石垣の城で、花崗岩の石垣が特徴。その立派な石垣から会津若松城・白河小峰城と並び東北の石垣造りの三大名城の一つとされていて、かの石川啄木も『不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心』という歌を詠んでいます。(二の丸に歌碑がある)

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_0?1195832949
「奥が本丸、右側が二の丸」

 東を流れる中津川と西を流れる北上川を天然の外堀とし、丘陵上に北側から三の丸・二の丸、空堀を間に挟んで本丸という一列に並んだ連郭式の縄張りで、本丸の周囲を東から淡路丸・腰曲輪・榊山曲輪で囲んで、本丸を露呈しないよう防御しています。(そのため連郭式に梯郭式を組み合わせた縄張りというのが正しいのかもしれない。)

 天守閣は造られず、本丸南東側にある三重櫓を天守の代用としていたようです。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_1?1195832949
「腰曲輪から見た本丸(天守台跡)」

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_4?1195832949
「天守台跡」

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_2?1195832949
「盛岡城縄張図」



 三の丸の不明門跡東側の石垣は花崗岩の岩盤を利用した天然の石垣になっています。

 また、北側には整地で土を削った時に出た烏帽子岩(「櫻山神社」で紹介)があります。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_3?1195832949
「一部だけ岩盤を利用した石垣」



 南部氏は甲斐源氏の武田氏から分かれた一族で、元々は甲斐国巨摩郡南部郷(現・山梨県南部町)を領地としていましたが、鎌倉時代に初代の南部光行(なんぶみつゆき)が源頼朝の側近として仕え、文治5年(1189)の奥州征伐の功績によって岩手県一帯の糠部五郡を賜わったことに始まるらしい。

 

 盛岡城を築城した南部信直(なんぶのぶなお、田子信直とも)は宗家である三戸南部氏の一族、石川高信(いしかわたかのぶ)の子として天文15年(1546年)に生まれます。

 当時の南部氏24代当主・南部晴政(なんぶはるまさ)は男児に恵まれなかったために従兄弟に当たる信直を娘婿に迎えますが、その後に晴政に嫡子・南部晴継(なんぶはるつぐ、25代当主)が生まれたため跡継ぎを辞退しますが、天正10年(1582年)に晴政が死去し、跡を継いだ晴継は葬儀の帰りの途上、暴漢に襲撃され不慮の死を遂げます。

 急遽、南部一族と重臣との議論の末に信直が指名され、南部氏26代当主となります。

 元々南部氏の居城は三戸城(現・青森県三戸町)で、後に九戸城(現・岩手県二戸市)へ居城を移すものの、いずれも居城が南部領の北にあり不便なため、利便性のある岩手郡不来方(こずかた)に居城を構えることに決めます。

 文禄2年(1593年)に段丘上の整地を開始するものの当初の計画よりも歳月がかかり、また秀吉が朝鮮へ出兵した『文禄の役』で信直も九州名護屋城まで出陣したためさらに遅れ、結局、築城工事は慶長2年(1597年)に開始されました。

 築城の指揮は信直が京都に滞在していたので、嫡男の南部利直(なんぶとしなお)が行い、慶長4年(1599年)に信直が九戸で死去した後は利直が家督を継ぎ、翌年の慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で東軍に付き山形へ出兵、大阪の陣でも徳川方に付いたため徳川家康より所領を安堵されます。

 また利直は元々の地名である不来方を「盛り上がり栄える岡」になるようにとの願いを込め『盛岡』と改称します。

 元和年間(1615〜1623年)に居城を九戸城から盛岡城に移動。しかし、北上川の氾濫などで石垣が崩れるなどしたため、一時期、高水寺城(岩手県紫波町)を居城にしました。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_5?1195832949
「三の丸入り口」

 盛岡城が完成したのは南部氏28代・盛岡藩3代藩主の南部重直(なんぶしげなお)が治めていた寛永10年(1633年)、築城開始から実に40年も経っており、前年の寛永9年には利直が江戸で死去しています。

 寛永11年夏には落雷により本丸・天守閣が焼失し、天守が復興するのは39年後の延宝元年(1673年)になります。


 江戸後期の文化5年(1808年)には南部利敬(なんぶとしのり)が蝦夷地警備の論功で石高が加増され20万石となります。

 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では南部利剛(なんぶとしひさ)が奥羽越列藩同盟に属したため、新政府により領地を召し上げられ、子の南部利恭(なんぶとしゆき)に家督を譲り陸奥国白石(宮城県白石市)13万石に転減封されます。

 盛岡城は明治4年(1871年)に廃藩置県のため廃城となり、明治7年(1874年)には天守閣などの建物は破却されます。



 現在、本丸には銅像が乗ってたと思われる台座がありますが、元は南部利恭の長男の南部利祥(なんぶとしなが)の銅像が立っていました。

 南部氏42代当主の南部利祥は日露戦争に陸軍騎兵中尉として従軍し第一軍に属し各地を転戦しましたが、明治38年3月4日に満州井口嶺の激戦において銃弾を受け24歳で戦死。

 市民はこれを悼み、かつ明治維新の際朝敵とされた汚名をそそいだものとして旧藩士を始めとする有志により明治41年9月に建立されました。

 しかし、昭和19年の太平洋戦争の際に軍需資材として供出され、台座のみが残っています。近いうちにまた再建されることを望みます。あまりにもこのままでは寂しすぎます。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1576694/img_1576694_38402616_6?1195832949

 現在は城跡の一帯は国史跡の指定を受け、岩手公園(盛岡城跡公園)として整備されています。

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高倉伽月
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