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旧県社、南部一の宮、最北の延喜式内社 延喜式内社:陸奥國斯波郡 志賀理和氣神社(小社) 神紋:十六八重菊、向鶴、左三つ巴 祭神:経津主之大神(ふつぬしのおおかみ)、武甕槌之大神(たけみかづちのおおかみ)、猿田彦之大神(さるたひこのおおかみ)、保食之大神(うけもちのおおかみ)、少彦名之大神(すくなひこなのおおかみ)、大己貴之大神(おおなむちのおおかみ)、船霊之大神(ふなたまのおおかみ) 志賀理和氣神社は岩手県紫波町の紫波運動公園南側の北上川河畔に鎮座しています。 通称・赤石神社。また最北の延喜式内社として知られています。 創始は桓武天皇の治世だった延暦23年(804年)6月、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の折、この地に志和城を築いた際に領内の守護神として香取神宮・鹿島神宮からそれぞれ経津主命と武甕槌命を勧請したのがはじまりです。 その後、醍醐天皇の勅命により延喜年間に全国の神社を調査したいわゆる延喜式神名帳の中で、最北の神社として記載されています。 注釈:(現在地で最北の式内社は秋田県の副川神社になりますが、副川神社は延喜式記載の場所が志賀理和氣神社より南ということと、式内社に「比定」されていて確定ではないため、志賀理和氣神社が最北の式内社となります。) 仁寿2年(852年)には正五位下に加列され、承安年間(1171〜1174年)に奥六郡の領主・藤原秀衡の一族、志和城主・樋爪俊衡・季衡が領内の総鎮守として崇敬し、その後の斯波氏、そして天正14年(1587)に斯波氏を滅ぼした南部信直が紫波郡を治め、南部氏代々藩主からの崇敬を受けます。 盛岡藩8代藩主・南部利視(なんぶとしみ)により社殿が再建され、「御社は とまれかくまれ志賀理和氣 我が十郡の国のみおさき」と詠まれ、南部十郡の第一位、「南部一の宮」として崇敬されてきました。 明治4年(1871年)に郷社に列格。後に県社に昇格します。明治41年(1908年)には官国弊社昇格の請願をしたそうですが、最終社格は県社。 また江戸時代後期・京都の豪商『井筒屋』の小野氏からの崇敬が篤く、神輿を始めとする数々の宝物が奉納されています。 「井筒屋小野組」:元は近江商人。金融業を営み三井小野組合銀行を設立。小野組は破産するものの、それから第一国立銀行、その後、第一勧業銀行となり、現在のみずほ銀行になった。 拝殿の右側に赤い石がありますが、見たまま『赤石』と呼ばれています。 これは天正年間(1573〜1591年)、斯波郡66郷の領主・斯波詮直が北上川遊覧の際に、川底に映える赤色をした大石を見つけ、川の波が石の色を映し紫色に見えることから、「けふよりは 紫波と名付けんこの川の 石にうつ波 紫に似て」と詠まれ、それまで子波・斯波・斯和・志和という変遷をたどっていた地名だったものを『紫波』と改め、現在の紫波町という名前になりました。 神社も赤石大明神、赤石神社(赤石さん)と呼ばれるようになりました。 赤石は詮直公によって引き揚げられ、本殿の裏手に祀られていましたが、昭和59年11月に創建1180年を記念し、現在の場所に移動されました。 参道入り口から境内までの両側には桜の大木が立ち並んでいます。 その中でも参道の入り口の少し入った左側には『南面の桜』があります。 この桜はアズマヒガンという種類の桜で樹齢は700年という古木で、紫波町指定有形文化財「南面サクラ・ヒガンザクラ群」として登録されています。 また、この桜にはこのような伝説があります。 元弘の頃(1331〜1333年)、都からこの地に下った藤原頼之は、河東の領主・河村少将の娘、桃香と相思相愛の仲となった。 ある日二人はこの社頭に桜を植えて、やがて来るであろう爛漫の春をひそかに夢見た。 ところがその二人に悲しい日が訪れた。頼之が急に都に上ることとなったのである。二人は再会を固く誓って別れた。 歳月は流れ、かつて植えた桜はものの見事に咲き、不思議にも花は南面に向かって咲いていた。やるせない桃香の心が桜に宿ったものであろうか。 「南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや」 桃香 宮司さんによると、この『しかりわけ』という名前は、実はアイヌ語から来ているそうで、語源は北海道最長の川・石狩川と同じで『イシカリ』(ishikari)から来ていて、「回流する」もしくは「塞がる」という意味があります。 この事から昔は神社の裏を流れる北上川も石狩川に見られるように蛇行して流れていたり、蛇行して出来る三日月湖ができていたと考えられます。 そのほかにも色々説があるようですがいずれもアイヌ語起源のようですね。 あと、ここからは勝手な想像。アイヌ語で水のことを「ワッカ」というのですが、「イシカリ・ワッカ」だと「回流する水」とか「塞がる水」で意味が通じるんじゃないでしょうか。(文法的に合ってるのかどうかは分かりません) もしくは、北海道の然別(しかりべつ)という地名と同じくアイヌ語で「シカリ・ペッ」(回流する川)で、『別』(ペッ)という地名を「わけ」と読んで「しかりわけ」なのかも知れませんね。 御朱印にしては珍しく文字数が大変多いです。『岩手縣紫波町櫻町延喜式内南部壱之宮志賀理和氣神社』と書いているんじゃないかなと思います。篆書の解読は難しい…。 宮司さんの話では北海道の羊蹄山山麓にも社地を所有しているそうです。なかなかいい場所ですよね。分社を建てられる予定なのかは不明ですが。
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寺社仏閣・岩手県(19)





最北の延喜式内社ですか。立派な神社ですね。
岩手もやはりアイヌの方々が住んでおられたのでしょうか。
2007/11/28(水) 午前 0:37
NORIさん、こんばんは。
はっきりしているのは東北地方はエミシが支配する国だったということでしょうか。アイヌ民族、もしくはアイヌ民族と深い関係にあったと考えられます。言語も同じか近いものだったんじゃないでしょうか。
神武東征の際に大和で倒したのもエミシだと言われていますから、段々と追いやられていったのでしょうね。
2007/11/28(水) 午後 9:55
一の宮だけあり、立派な神社ですね、北の方には往けませんから今後も取材お願いします
解読されているじゃないですか、偉いなー 。
2007/11/29(木) 午前 11:55
ぎょえ〜〜〜!!なんという文字の多さ!これは間違いなく日本一文字数の多いご朱印じゃないの!?びっくりしたわ〜。ご朱印に気をとられて神社の事忘れそうになった^^。ここも拝殿に提灯が一杯飾ってありますが、このあたりでは普通の事なんでしょうか???
2007/11/29(木) 午後 4:07
ヒロ爺さん、こんばんは。一の宮といっても南部領の一の宮なんで全国一の宮には登録されていません…。でも神社庁の社格は1等級なんだそうで、立派な神社です。
一応、神社名と住所と南部一の宮と延喜式内社っていう情報があったのでわかりましたが、何も知らない状態では解読できませんね。
2007/11/29(木) 午後 11:42
トオルさん、こんばんは。
24文字ですね。普通の神社の数倍はありますね。最初見たときはびっくりしましたよ。私の中でも今の所文字数はトップです。
言われてみれば提灯多いですね…。例祭が近いわけでもなし…。何ででしょうね。
2007/11/29(木) 午後 11:47