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アイエエエエ! ジンジャ!? ジンジャナンデ!?
旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

書庫寺社仏閣・神奈川県(4)

鎌倉宮 (かまくらぐう)




旧官幣中社、建武中興十五社、単立神社

通称:大塔宮(おおとうのみや)

神紋:桜、十六弁八重菊

祭神:大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう、後醍醐天皇の第一皇子)

例祭日:8月20日

最寄の交通機関:JR横須賀線・江ノ島電鉄「鎌倉駅」から京浜急行バス「鎌倉宮(大塔宮)」バス停下車







鎌倉宮は、その名の通り神奈川県鎌倉市に鎮座する神社で旧官幣中社、建武の新政に功のあった人を祀る建武中興十五社の一社でもあります。


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祭神は大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)。

護良親王は後醍醐天皇の第一皇子として延慶元年(1308)に生まれました。

嘉暦元年(1326)に出家して、嘉暦2年(1327)に比叡山延暦寺に入り、第163代天台座主(天台宗のトップ)となって尊雲法親王(そんうんほうしんのう)と呼ばれるようになりました。

その時代は鎌倉幕府の経済的衰退と北条家の独裁政治によって諸国の武士の間に不満が高まっていた頃でした。



元弘元年(1331)、後醍醐天皇は民心を安定し天下を太平にするために、鎌倉幕府を打倒する計画を進めますが、密告によって時の執権・北条高時に知られてしまい、幕府方は京に軍を送ります。これが「元弘の乱」の始まり。

後醍醐天皇は京都のずーっと南にある笠置山に退避して倒幕の兵を募り、護良親王は還俗して比叡山で挙兵したほか、楠木正成をはじめとする武将が挙兵しますが、鎌倉方の勝利に終わり、笠置山は落城。後醍醐天皇は隠岐島へ流されます。

しかし、護良親王と楠木正成は潜伏して、翌年の元弘2年(1332)に護良親王は吉野で、楠木正成は千早城で挙兵。

護良親王は吉野で敗れてしまいますが、楠木正成が千早城で幕府軍を翻弄している間に、後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、現在の鳥取県から倒幕の綸旨を出します。

これに呼応して赤松円心が挙兵。そして幕府側が後醍醐天皇を討伐するために送った足利尊氏が天皇側へ寝返り京都を制圧、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を陥落させ幕府は滅びました。



その後、後醍醐天皇が建武の新政で護良親王は征夷大将軍・兵部卿となりますが、足利尊氏や、父の後醍醐天皇、その対立を影で仕組んでいたといわれる後醍醐天皇の側室・阿野廉子と対立し、建武元年(1334)、皇位の簒奪をもくろんでいると濡れ衣を着せられ、身柄を足利尊氏の弟・直義に預けられ鎌倉にある東光寺裏の土牢に幽閉されました。

建武2年(1335)に北条高時の子・時行が北条の復権のため鎌倉を攻め、足利直義はこれを防ぎきれず、護良親王を北条家が担ぐのを恐れたため、部下の淵部義博に命じて護良親王を殺させました。享年28歳でした。




それから530余年…。


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明治天皇は護良親王の遺徳をしのんで、明治元年(1868)7月に京都聖護院村に神座を設けて護良親王を祀られ、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、

明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じ、同年6月14日に鎌倉宮の宮号が下賜、7月に現在地に社殿が造営されました。

明治6年(1873)4月16日に明治天皇が鎌倉宮を行幸され、同年6月9日には官幣中社に列格されました。




本殿の裏側へは300円を払って入ることになりますが、奥には護良親王のものと伝わる土牢があります。

実際の土牢は違う所にあったという説がありますが、親王は土牢に9ヶ月間閉じ込められていた事になります。

更に進むと、神苑があって、首塚などが残っています。

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鎌倉宮を出て、脇の路を更に奥に進んで、途中で右に曲がると護良親王墓があります。

墓までは長くて苔むした石段をしばらく登っていくと玉垣に囲まれた御陵があります。






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実は675年前の今日、8月12日(旧暦7月23日)は護良親王が薨去された日でもあるため追悼の意味を込めて記事をまとめました。



The 675th summer…

これから3日ほど、今日は何の日がらみの寺社仏閣記事を書く予定です。

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    おおそうだったんですね。鶴岡八幡さまとともに有名ですね〜
    日本史の教科書に親王さまのお名前があったのを覚えています。

    [ 御垣内 ]

    2009/8/12(水) 午後 0:24

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    こちらにコメ残し。
    奥の牢が、生々しかったのを覚えています。
    個人的には神苑と共に、宝殿の山本五十六元帥や
    東郷平八郎大将・野木希典大将などの大先輩が寄進した
    額縁等に、驚嘆の意を唱えた物でございます。

    わたり鳥

    [ wat*ri*ori*1 ]

    2009/8/12(水) 午後 5:00

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    御垣内さん、私の日本史の教科書には出てこなかったかもしれませんが、学研の『楠木正成』のまんがにはきちんと出てきていましたね。

    高倉伽月

    2009/8/12(水) 午後 6:42

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    わたり鳥さん、確かに「こんな所に…」という印象でした…。

    宝物殿は、え!こんななの?という感じですが、展示している品は中々のものでした。

    高倉伽月

    2009/8/12(水) 午後 6:44

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    私はこの春に参拝しました。急ぎ足でしたので土牢は見てきませんでした

    ご朱印は一寸違うようです。

    Hirojii

    2009/8/13(木) 午後 6:44

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    ヒロ爺さん、そうなのですか。

    土牢は見る価値はあると思いますよ。

    高倉伽月

    2009/8/14(金) 午前 3:19

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    一度参拝しました。吉野の山奥に大塔という地名があります。
    北条高時の子 時行が鎌倉から逃げ熱田大宮司家に救われました。熱田家の養子が時行の子にいます。しかし時行は足利尊氏の切れらましたが子は名を変え存続しました
    。栄枯盛衰にポチ!

    熱田北条

    2009/8/20(木) 午後 11:52

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    熱田北条さん、そういえば大塔という地名、地図で見た気がします。

    なるほど、そういう流れなんですね。
    熱田北条さんも北条の末裔なのでは…

    高倉伽月

    2009/8/21(金) 午後 11:29

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    明治時代、南朝には特に思い入れが強いですよね。同じ救国の人物でも、北条時宗は神社さんが無いですから。私は彼の神社さんも鎌倉にあっても良いような気がするんです。でも護良親王さんの神社も隙です。大体「親王」クラスは皆さん、官幣中社になりますよね。

    keinoheart

    2009/10/11(日) 午前 7:44

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    Keiさん、確かに北条時宗の神社があっても不思議ではないんですけどね。国を救ったとはいえ、天皇の意向とは違った行動をとったりしたのが明治政府的にはマイナスだったんでしょうか。

    高倉伽月

    2009/10/16(金) 午後 6:07

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