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旧村社 神紋:丸に棕櫚 祭神:木花咲夜媛命、徳川家康、藤原角行 例祭日:7月10日 最寄の交通機関: 人穴浅間神社は、富士山西麓の富士宮市人穴に鎮座している浅間神社。 「富士講」の発祥の地で、富士信仰の聖地。境内は「人穴富士講遺跡」という富士宮市指定史跡になっている。 人穴浅間神社は富士宮市の北、県道75号線沿いの人穴地区にある。 富士宮側から北に向かって県道75号を北上すると右手に鳥居と、木製で山の形をした人穴の説明板があるので、それが目印。 事前に大体の場所を把握していなければ見つけづらいかもしれない。ちなみにカーナビには表示されていたが…。 県道から参道へと入っていくと、参道は左側に折れて、参道の左右には草の生えた広場、その奥に社殿へと向かう緩やかな階段がある。 訪れた時間が冬場の夕方5時頃ということも相まって、あまり神社という感じがしない。なんというか寂しい感じの場所という印象。 とりあえず車は参道の右側に停めて、長靴、防寒用のジャケットを装備。LEDライト、ロウソク、ライター、そして一眼レフをリュックに詰めていざ神社へ。 さて、この石段の上に人穴浅間神社と人穴、富士講の石碑群の人穴富士講遺跡があります。 とりあえず「人穴」という名前がなんだか気味が悪いように感じた人もいると思いますが、そもそも人穴とは何ぞやと… 人穴とは富士山麓にある溶岩洞穴の一つで、人穴浅間神社の社殿の横にぽっかり開いている洞窟の事をいいますが、この洞窟…怖い話があるのです。 鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」によると、建仁3年(1203)6月に、鎌倉幕府2代将軍・源頼家による「富士の巻狩」の際に家来の新田四郎忠常主従6人に人穴を探検させたことでも有名で、中に入ってから出てくるまでに一昼夜かかって、中には大河が流れていたり、コウモリがいっぱいいたり、その時には怪奇を見た従者4人が死亡し、新田四郎忠常は命からがら戻ってきたらしい。 「浅間大菩薩の御在所」なので近づいてはいけないと、当時の古老は言っていたそうで、その頃から富士山信仰の聖地として崇敬あるいは恐れられていたようです。 洞窟は遠く江ノ島までつながっているという伝説のあるそんな人穴ですが、実際はそんな入って出てくるまで一日かかるくらいの長い洞窟ではないし川も流れてない。調査によれば総延長83.3mでわりと短い洞窟です。 その後、戦国時代末期の16世紀から17世紀にかけて富士講の開祖といわれる長谷川角行が洞窟内で四寸五分の角材の上に爪先立ちをする千日行を行って、富士講の聖地となり、富士講の信者が富士山登拝の前後に訪れる聖地でもありました。 さて、石段を登って行くとお墓のような石碑群が立ち並んでいて、その先に人穴浅間神社の社殿が鎮座しています。 「石段の最初に現れる富士講の石碑」 「人穴浅間神社・社殿」 社殿に向かう参道の右手にまず墓のような石碑、左手奥にはさらに沢山の石碑群が立ち並んでいます。 とりあえず富士講の石碑ということなのですが、見た感じはお墓以外の何物でもない印象を受けます。 長谷川角行の富士講では人穴が浄土であり、角行自身もここで入滅したということなので、富士講の行者たちもここで眠るという思いがあったそうです。 人穴浅間神社自体の創建は慶安元年(1648)及び寛文5年(1665)で、前身の光�寺の富士講二世・日珀、三世・珀心によって再興されたことに始まります。(wikiより) 明治以後は浅間神社(現在も登録名は浅間神社。「人穴」浅間神社は正式ではない)として社殿を建立し御三柱を祭神とし、昭和17年(1942)、陸軍により人穴部落と共に強制移転をさせられたが、昭和29年(1954)に再び氏神として仮社殿を建立し現在に至る。 境内の富士講の碑塔は全部で233基。主に講祖や先達等の遺徳を称えるものであったり、富士山登拝の大願成就を記念したもので、江戸期のものでは天明~嘉永年間(1781-1854)に建立されたものが35基と一番多い。 ちょうど富士講の最盛期で、主に関東(江戸・安房・上総・下総)の信者によるものである。 ここが、社殿の右側にある人穴の入り口。 とりあえず縄が張ってあって、立て看板にも「「さわらない」「近寄らない」「入らない」の「3ない」行動にご協力ください」って書いてあるので、肝試しとか心霊スポットめぐりの一環で来てる人はご遠慮ください。 確かに先の震災の影響で崩れやすくなっているのかもしれないので注意が必要かもしれません。 人穴に関しては友人からの詳しい情報を得ていて、前日から浅間神社参りをしていたので、聖地たる人穴には富士講の信者として参拝しました。 つまりは…冒頭での装備はこのため。つまり入って奥まで行ってみたわけですが。 |
寺社仏閣・静岡県(6)



