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住所:富山県高岡市古城1-1 越中國一宮、旧国幣中社、別表神社、艦内奉斎神社(軽巡洋艦「神通」) 延喜式内社:越中國射水郡 射水神社(小) 神紋:八つ花型鏡 祭神:瓊瓊杵尊(二上神) 例祭日:4月23日,9月16日 最寄の交通機関: 射水神社は富山県高岡市の高岡古城公園内に鎮座する神社で、古くは越中国一宮、近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。 「参道入口」 「社号標」 創始年代は不明だが、天武天皇3年(674年)正月に奉幣を預かったと『日本書紀』記されている事から(我が家の日本書紀には記載されてないのだが…)、それ以前の創建と言う事になる。(射水神社では鎮座祭の基準を天武天皇3年(674年)にしている。) 射水神社は二上山を神奈備山として、養老年間(714〜723)に行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して祀ったのが二上神の鎮座。(現在の二上射水神社) 祭神である二上神は伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる。 国史には度々この二上神が登場し、 『続日本紀』宝亀11年(780年)12月14日、従五位下に叙せられたほか、 『日本後紀』延暦14年(795年)8月18日、従五位上 『続日本後紀』承和7年(840年)9月29日、従四位下から従四位上 『文徳天皇実録』斉衡元年(854年)3月7日、従三位 『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日、正三位に列格。 延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では越中国34座の内の一社として列格した。 その後、承平年間や天正年間に兵火により社殿は焼失し一時衰退したが、慶長年間、前田利家が社殿再建と社領および一山を寄進し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。 「扁額」 明治4年(1871年)、国幣中社に列格し、明治8年(1875年)に現在の高岡城本丸跡に遷座した。 明治33年(1900年)6月27日の高岡大火の際に社殿が類焼、明治35年に再建された。 昭和59年(1984年)には「参集殿」が竣工した。 平成27年(2015年)には、御鎮座1340年・御遷座140年の区切りの年に式年大祭が斎行される。 本当ならば100名城でもある高岡城もゆっくり見れればよかったけれど、この後、高瀬神社、富山市内、雄山神社と移動しなければいけなかったので滞在時間僅か…。 帝国海軍の軽巡洋艦「神通」の艦内神社に御分霊が祀られていたということもあるし、またリベンジしたい。
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旧内務大臣指定護国神社 旧国郡:下総國千葉郡 神紋:丸に桜 祭神:千葉県出身の護国の英霊 57828柱 例祭日:4月10日,10月10日 最寄の交通機関: 千葉縣護國神社は千葉市中央区の千葉公園内に鎮座する護国神社。 「参道入口」 明治維新から大東亜戦争に至るまでの国事国難に殉ぜられた千葉県出身並びに縁故ある方々の英霊が祀られています。 「社号標」 創建は明治11年(1878年)1月27日、明治天皇の御聖慮を奉戴し、初代県令・柴原和が発起となり、千葉県庁公園内に「千葉縣招魂社」として創建。戊辰戦争の際に戦死した下総国佐倉藩士・安達盛篤命(安達直治とも)をはじめ16柱を合祀したのをはじめとする。 明治22年(1889年)、千葉神社境内に遷座。昭和12年(1937年)3月、境内の狭さと社殿の老朽がひどいことから、亥鼻山(千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目6-1、現在の千葉市郷土資料館)に遷座を決定する。 昭和14年4月、招魂社制度の改正に伴い「千葉縣護國神社」と改称する。 昭和15年7月、社殿の造営に着手。昭和18年3月に社殿竣工。昭和18年4月、一県一社の護國神社として指定される。昭和18年4月19日、鎮座祭を執行する。 昭和20年7月7日、戦災により千葉市の大半焼失の際、社殿炎上する。 昭和21年7月、宗教法人として届出、28年3月認証され、同年5月9日登記する。 昭和21年10月、仮本殿を造営する。 昭和22年4月、「頌徳神社」と改称する。 昭和27年6月、「千葉縣護國神社」に復する。 昭和35年10月、畏くも天皇陛下より終戦十五年の故をもって幣帛料を御下賜あそばされ、幣帛臨時大祭併せて例祭を執行する。 昭和36年7月、遺族の要望にも応え千葉市弁天町地区千葉縣忠霊塔隣地を新境内地(当時国有地)とすることに計画決定する。 昭和41年10月、社殿、廻廊、神門等の造営に着手する。 昭和42年3月、社務所の造営に着手する。 昭和42年5月、社殿、神門等竣工する。 昭和42年8月、社務所竣工する。 昭和42年9月30日、亥鼻山より現境内地に御遷座する。 昭和42年10月1日〜3日、特に天皇陛下より幣帛料御下賜あり、三日間に亘り本殿遷座奉祝祭を斎行する。 昭和53年10月10日、御創立百年大祭を献幣使参向のもとに秋季例大祭に併せて斎行する。 昭和48年10月13日、昭和天皇・皇后両陛下御親拝、幣饌料御下賜。 昭和48年10月28日、今上陛下・皇后陛下(当時は皇太子殿下・皇太子妃殿下)御参拝、幣饌料御下賜。 「神門と社務所(左)」 「社殿」 「扁額(靖國神社宮司・筑波藤麿による揮毫)」 神社に隣接して忠霊塔が建っています。 「千葉県忠霊塔」 千葉県忠霊塔は昭和29年(1954年)4月8日に建てられたもので、護国神社はその後の昭和42年に亥鼻公園から忠霊塔の隣へ遷座しました。 毎年8月15日の全国戦没者追悼式に合わせ忠霊塔の前で千葉県忠霊塔拝礼が行われています。 境内や忠霊塔周辺には他の護国神社と同じように慰霊碑が建っていました。 「千葉県特攻勇士顕彰碑」 「支那駐屯歩兵第三聯隊慰霊碑と愛馬慰霊碑」 「日中戦士鎮魂碑」 「千葉県出身陸軍少年飛行兵慰霊之碑」 「モニュメント「大地」」 護国神社周辺は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の舞台にもなっています。
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旧郷社 延喜式内社:下総國相馬郡 蛟蝄神社(小) 神紋:左三つ巴、五三鬼桐 祭神:[主祭神]弥都波能売命 :[合祀]波迩夜須毘売命,倉稲魂命,須佐男之命,菅原道真,誉田別命, 例祭日:旧9月14日 最寄の交通機関:常磐線「取手駅」下車、大利根交通バス立崎車庫行き「立木」停留所下車徒歩5分 蛟もう神社は、利根川の北側、茨城県北相馬郡利根町に鎮座する式内社で、通称・文間明神。「門の宮」と「奥の宮」の2社がある。 「奥の宮参道入口。道をまっすぐ行くと門の宮がある。」 「もう」は特殊漢字の為、パソコンによっては表示されないが、虫へんに網のつくりを合わせた「虫罔」という字で「もう」と読む。 正式には「蛟蝄(みつち)」神社であり、古くは「延喜式神名帳」、最近では昭和37年の「神社名鑑」にも「みつち」と書かれている。 「蛟(みずち)」は水中に棲む龍を指し、祭神も水の神である「ミヅハノメ」(弥都波能売神・罔象女神・水波能売命とも書く)の神を祀る。 「奥の宮参道石段」 ・関東最古の水神を祀る 創建は孝霊天皇3年(西暦前288年)に、現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれており、文武天皇2年(698年)、土の神様の埴山姫大神を合祀した。 その後、時期は不詳なものの、水害や民家が近いという理由で社殿を現在の奥の宮に場所に遷座。元の場所にあった社殿は氏子崇敬者の声から取り壊しをせず、御祭神の御魂を分祀し「門の宮」としてお祀りすることになった。 延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の「延喜式神名帳」には下総国内の式内社11社の1社として「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社(みつちじんじゃ)」と記載されている。 慶長3年(1598年)8月、布川城主・松平信一(後の土浦藩初代藩主)により増修。同9年3月、将軍・徳川家康が五十石を寄進。 享保元年(1716年)、正一位に列格。 明治4年(1871年)7月、郷社に列格。 「石鳥居と参道」 「拝殿と授与所(右)」 「拝殿」 「拝殿内部」 「本殿」 「奥の宮境内」 「本殿と拝殿」 史跡案内 蛟蝄神社周辺
蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇〜前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。 昭和五十五年三月 利根町教育委員会 文化財保護審議委員会 奥の宮の東側500mほどの所に笠脱沼という沼がある。 「笠脱沼」 むかし、大田羅の神(いわゆるダイダラボッチ)がこの地で休憩したときに置いた笠の跡が沼になったのだという。 なお、この笠脱沼の水で、例大祭(ばかまち)の湯立て神事が行われています。その他にも、沼から龍神様が舞い上がって神社のほうに向かわれたという逸話もあり、神社の授与品の「龍神御守」のデザインはこの伝説を図案化したものです。(この龍神御守と神社の御札を頂きました。「龍神御守」や「うまく行く守り」などの御守は蛟蝄神社オリジナルのデザインだとか。) 2014年現在、奥の宮境内は造営中で、写真の拝殿は取り壊され新しい拝殿が建設中。本殿は後方に移築したらしい。 拝殿は老朽化していたのだろうけど味のあるいい拝殿だっただけに残念。新しい拝殿はもう少し大きな拝殿になるようだ。 ちなみに授与所や社務所があるのは奥の宮の方で、御朱印もこちらで頂いた。 「こうもう」の豪快な字体で気持ちがいい。 奥の宮へのアクセスは車で神社の裏手にある「老人ホームやまなみ園」へ向かい、そのまま老人ホームの駐車場と玄関前を通過して行くと細い交差点にぶつかる。そこを左へ曲がると車を停めるスペースが有り、その先が奥の宮の境内。南側からアクセスは道が細く、すごく鋭角で曲がりきれないくらいのカーブになっているので、老人ホームからのアクセスがベスト。 一方、蛟もう神社・門の宮は、奥の宮から西に700mほど行った所に鎮座する。 社殿の立っている部分が小高い丘のようになっているが、実は立木貝塚という史跡の上に鎮座している。 「門の宮(立木貝塚)」 「門の宮・拝殿」 「門の宮・本殿」 門の宮の拝殿内には「正一位文間大明神」の扁額や、絵馬から飛び出して稲を食べることから手綱を描き加えたら絵馬から出歩くことは無くなったという狩野元信作の「繋ぎ馬図」が奉納されています。 また、門の宮の鎮座している場所は立木貝塚で、拝殿前の地面にはシジミくらいの大きさの貝殻が沢山落ちていました。 利根町指定遺跡 立木貝塚
この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。 縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻がよく捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。 この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。 そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。 土偶は、祭礼や儀式に使われていたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。 利根町教育委員会 以下、余談…。 実は蛟もう神社に参拝した理由は『みずのかけら』というPCゲームの影響です。 というのもゲーム内で登場する神社が「水地神社(みずちじんじゃ)」で祭神が蛟(みずち)。 そういう関係からファンディスクでは蛟もう神社が紹介されており、「蛟」との関係と例大祭の「ばかまち」(ヒロインの名前が「まち」であることから)が取り上げられていました。(背景のモデルは福島県喜多方市の新宮熊野神社) ちなみにゲーム内で登場する「葉月」という女の子は水神で蛟ということなので弥都波能売命なんですよきっと。
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旧村社 旧国郡:渡島国亀田郡 神紋:丸に武田菱 祭神:倉稲魂命、大山祗命、猿田彦命 例祭日:8月26日 最寄の交通機関:函館バス「中央文月」下車 文月稲荷神社は、北斗市の旧上磯市街から旧大野町へ抜ける道道96号線の途中、旧大野町文月に鎮座する神社。旧村社で文月村の鎮守社であった。 「社号標」 「境内の脇を文月川が流れる。」 「左側に民家、右側に文月川。」 ・松前藩領の三大稲荷の一つ 文月稲荷神社の勧請年は不詳。ただし、文月へ南部藩野田村(現在の岩手県九戸郡野田村)の野田作右衛門が入植し米を収穫したのが元禄5年(1692年)で、境内の杉の巨木の樹齢が300年以上ということから、その頃の創建と考えられている。 元々、この「文月」という地名は「船着き」が転訛したものといわれ、入植した先人は海からこの文月までおよそ8kmある川をここまで船で上って来たといい、船を押し上げたと考えられる「押上」という地名も残っていた。 松前藩10代藩主・松前章広が文政6年(1823年)に再建を命じた記録があり、同年に自ら揮毫した「正一位文月白狐稲荷大明神」の社号額や再建の由来を記録した由来額、完成を祝った俳句額が納められ、市の指定文化財となっている。 どちらも大野町郷土資料館では展示されていたが、旧資料館が老朽化のため市役所分庁舎2階へ移された新北斗市郷土資料館は旧資料館よりも展示スペースが大幅に縮小され展示されていない。 社号額「正一位文月白狐稲荷大明神」 造営由来額「正一位稲荷宮奉額序」(上)、俳句額「正一位稲荷宮奉額」(下) ちなみに、松前藩主は徳川幕府直轄時代から有珠の善光寺に将軍家の供進使として代参し、その途中、休憩を兼ねて文月稲荷神社に参詣した。 また、文月から山側に入った姉弟山で松前藩の鷹狩が行われていたり、そういう関係もあってか松前藩からこの文月の白狐稲荷は、湊(旧銭亀沢村)の石倉稲荷、江差笹山の直満稲荷と並ぶ松前藩領内の三大稲荷として崇敬された。 明治9年(1876年)、村社に列格。 明治11年(1878年)に山神神社(大山祗命)と猿田彦神社(猿田彦命)を合祀した。 境内には沢山の杉の木が生えていますが、「文月神社環境緑地保護地区」に指定されています。 文月神社環境緑地保護地区
この地区は、スギ・アカマツ等の大径木が生育する面積742平方メートルの境内林である。 地区内には、開拓の歴史を物語る推定樹齢320余年のスギの大径木があり、昭和47年3月に道条例に基づ く記念保護樹木に指定されているなど、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、 住民に親しまれている。 昭和63年5月26日指定 北海道 「境内の杉うちの一本「母杉」(左)と、記念保護樹木に指定されている杉(右)。」 神社の社殿から右側に降りられるところがあり、そこを降りて行くと不動尊が祀られている祠がある。 文月神社内不動尊
文月神社境内の東側にある祠の中に石像の不動尊が安置されている。不動尊は、台座から焔まで68cmで 身長47cmの座像である。天保9年(1838年)に不動院が奉ったもので、村内安全、五穀成就、諸難消滅を 不動明王に祈願したと刻んでいる。そのわきに長さ45cmの不動の剣が納められていて、明治29年(1896年) の旧正月に、文月村・高田辰三郎が願主となっている。 この不動明王は、大日如来の変身である。だから悟りを開いた完全な仏陀であるため悪を粉砕する怒りの 相をし、働きやすい奴隷の形をしている。不動尊信仰は貴族から武士、町民へと移ったが、文月にもこの信 仰が伝えられ、加護を願った歴史を物語るものとして、大切な遺産である。 昭和62年8月 大野町教育委員会 この横に昔は大野小学校文月分校の校舎が建っていた。 「開校百年顕彰之碑」 |
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住所:北海道北斗市館野294 旧村社、円空仏 旧国郡:渡島国上磯郡 神紋:左三つ巴 祭神:[主祭神]誉田別尊 :[合祀]木花咲耶姫命 例祭日:7月10日 最寄の交通機関:函館バス「富川会館前」下車、徒歩7分 函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、上磯市街を通り、谷好、富川に差し掛かるとそれまで周囲が平野部だったのが目の前に山が迫り、そこから海岸線を通る道が続きます。 「国道228号線と奥に見えるのが富川八幡宮の鳥居」 その海岸を通る国道と右側の山側に登っていく旧国道の間にあるのが富川八幡宮です。 「鳥居と石段、そして通称「七曲り」と呼ばれる旧国道」 旧社格は村社で、富川地区(旧・富川村)の鎮守社である。(本務社は有川大神宮) 富川と館野の境、旧国道と228号線の分岐点から百数十段の石段を登り、通称ヤギナイの高台にある。風光明媚な場所で後方には神域にふさわしい林があり、津軽海峡、函館港を一望できる。 神社の起源は宝暦2年(1752年)、村中で勧請再建と記録が残されており、富川村の知行主・蠣崎三弥が武運長久祈願のため館内にあったものを現在地に移したものである。 当時の富川は戸数三十余戸、人口140人余りで、近年、社殿内を調査の際、二体の木造が発見され、一体は円空仏、もう一体は目定作の神像があったという。 明治8年に村社に列格され、明治40年に川濯神社(宝暦3年創祀。祭神:木花咲耶姫命)が合祀された。 「両側になぜか狛犬ではなく金色の鯱が…」 「階段は200段弱ある」 この石段の途中の右側にレンガ造りの四角形の台座のようなものがあるが、かつてこの石段を挟んだ両側にレンガ造りで、頂部に宝珠の載った塔が建っていた。 当時の写真は上磯町の写真集『道程』にも掲載されているが、かつてこの塔に付いていた陶板が北斗市郷土資料館に展示されている。 それには「明治四拾三年拾月吉日 富川煉瓦工場主 寄附人〆文工藤弥寿治」「明治四拾三年拾月吉日 富川村 寄附人〆十吉江才次郎」とあり、明治43年に建てられたものだと分かる。 ちなみにレンガ工場は八幡宮の裏を少し歩いた現在の高速道路と海岸の崖の間の小高い丘の上にあったらしい。 また、ここには御影石製の鳥居があり、向かって右には「奉納白子屋利助」、左に「文政十一年三月吉日、長崎御用船永寿丸積下」の刻字がある。 「文政11年奉納の石鳥居」 「石鳥居と参道の両側に仁王像のように生えている杉」 「社殿」 「手水鉢」 「記念碑」と「改元紀念碑(大正三年十月)」 昔は海岸線の国道は整備されておらず、旧道は富川八幡宮から山に入り、通称「七曲り」と呼ばれるカーブの多い谷沿いに登り、ゴミ処理場のある平坦な高台を抜け、その先にある矢不来で一度海岸に出て矢不来の集落の先から再び山道を登って茂辺地に抜けていました。 福山街道
箱館(函館市)と福山(松前町)を結ぶ道を「福山街道」と呼びました。江戸時代の有川(現北斗市)は、箱館から約4里の距離で、人馬引継所がおかれ、追分には茶屋が3軒あり食事や休憩地点として賑わいました。 松前藩の政策上、街道であっても架橋は許されず、渡船がおかれたが「有川の長橋」は許可されていました。 安政元年(1854)戸切地・三谷・富川・三石・当別・釜谷に駅(後の駅逓)を開設して旅人に役立てました。平坦な箱館から街道もいよいよ険しい峠・山道が始まります。当時の交通は船便や馬が多く利用されたが、旅人は山道を避け、好天の日は海浜の波打ち際を通行したようです。 平成23年3月 北斗市教育委員会 ここは松前藩の置かれていた福山城(松前城)から港町である箱館間の交通の要衝でもあり、箱館戦争では富川八幡宮の裏に大鳥圭介が率いる幕府軍伝習隊が設営した「富川塁」がありました。 この富川塁は函館江差自動車道の建設によってほとんど破壊されてしまっていますが、説明板が旧道沿いに設置されています。 ・円空作観音像 北斗市内には3体の円空仏が現存していますが、その内の1体が富川八幡宮の円空仏です。 富川八幡宮の円空仏は、高さ530mm、幅220mm、厚さ120mm、重さ1.95kg 当神社には、町指定文化財の円空作・観音像が安置されている。
僧円空は寛永九年(一六三二)美濃国に生れ、二十三歳で出家し三十五歳で渡道した。 二年間滞在したが、その後修行しながら帰郷し、元禄八年(一六九五)六十四歳で入没したといわれる。 渡道時の作品は「鉈作り」の極意に到達した充実期の作品のような迫力、荒々しさはみられず、端正で純粋さあふれるものが多い。 当神社のは数少ない梵字の墨痕があり、”みそぎ”の神事の言い伝えを残している。 神社からの景色はこんな感じ。境内からは函館湾内を一望でき景色は良い。 個人的には大晦日の夜に参道を照らす提灯がまっすぐ神社へ伸びていく光景は幻想的に思う。
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