ここから本文です
アイエエエエ! ジンジャ!? ジンジャナンデ!?
旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

書庫過去の投稿日別表示

全1ページ

[1]

上川神社 (かみかわじんじゃ)




旧県社、別表神社

神紋:山桜(やまざくら)

主祭神:天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)
左座:豊受姫神(とようけひめのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、天乃香久山神(あめのかぐやまのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、譽田分命(ほんだわけのみこと)、敦實親王(あつざねしんのう)
右座:鍋島直正命(なべしまなおまさのみこと)、黒田清隆命(くろだきよたかのみこと)、永山武四郎命(ながやまたけしろうのみこと)、岩村通俊命(いわむらみちとしのみこと)

例祭日:7月21日

最寄の交通機関:JR富良野線「神楽岡駅」、JR函館本線「旭川駅」から旭川電気軌道バス82番・83番「上川神社」バス停下車







上川神社は旭川市南西の神楽岡公園内に鎮座しています。


イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3


人口が北海道内では2位。上川神社の鎮座する旭川市は、明治23年(1890年)9月20日に旭川村が153戸(人口697人)で開村したのが始まりで、翌明治24年(1891年)から北方開拓と警備のため屯田兵が入植し開拓が進められていきました。

上川神社は、旭川村が開村した3年後の明治26年(1893年)7月15日、上川地方開拓守護の神として、アイヌ民族のチャシ(砦)跡だった現在の旭川駅周辺の義経台(ぎけいだい)と呼ばれていた旭川村市街予定地「に」通4丁目から7丁目(現在の宮下通4丁目から7丁目)までの高台に天照大神を祀ったのが始まりです。

その後、明治31年(1898年)7月に「ぬ」通、及び「る」通8丁目(現在の6・7条通8丁目)に遷座。続いて明治35(1902年)年12月には忠別1944番地(現在の宮下通21丁目)に遷座しました。

明治37年(1904年)7月に大己貴大神と少彦名大神の2柱を合祀し、明治39年(1906年)11月に村社に列格。

大正2年(1913年)11月4日に近文神社(旧無格社、明治39年8月27日創祀)に祀られていた豊受姫神、大物主神、天乃香久山神、建御名方神、譽田分命、敦実親王、鍋島直正命、黒田清隆命、永山武四郎命の9柱を合祀。

大正4年(1915年)6月に郷社、大正12年(1923年)12月に県社。

翌年の大正13年(1924年)6月6日に皇室御料地の上川離宮の建設予定地であった神楽岡に4年の歳月をかけ、本宮と常磐公園内の頓宮の社殿を造営・遷座しました。

昭和30年(1955年)7月、神社本庁の別表神社に指定されました。

昭和41年(1966年)には、大宰府天満宮に祀られている学問の神様・菅原道真公の御分霊を境内社の旭川天満宮として祀りました。

イメージ 4
「旭川天満宮」

平成4年(1992年)に、北海道開拓の功労者で北海道庁初代長官の岩村道俊命を合祀しました。

上川神社の右座の祭神には岩村道俊命のほかに、初代開拓使長官・佐賀藩主・鍋島直正命、開拓使長官・第2代総理大臣・黒田清隆命、北海道庁長官・陸軍中将・永山武四郎命と北海道開拓に功績のあった方々を祀っています。

イメージ 5
イメージ 6
「上川神社・頓宮」



・義経北行伝説と上川神社

実は平泉で死んだはずの源義経が北上して大陸に渡ったという伝説ですが、この旭川、そして上川神社とも関係があります。

というのも、上川神社の最初の鎮座地は、かつてアイヌがチャシを築いていた義経台(ぎけいだい)と呼ばれる場所でした。

現在この高台は明治29年(1896年)から始められた鉄道工事の際に崩されてしまい残っていません。

しかし、かつてこの義経台と呼ばれた場所でアイヌの人々が宴を開き、飲み会のお開きの時に一本締めではなく「ギケイコウ」と全員で唱和してから別れたといいます。

これが、義経を意味していて、北へ逃れた義経がこの地を訪れアイヌの人々から慕われていた名残ではないかという説があります。

旭川市街の西側にある景勝地の神居古潭にも義経伝説が残っています。



・神楽岡の由来

上川神社の鎮座する神楽岡は、昔、チュプカムイ(日の神)と他の神々が集って歌や踊りを楽しんだ場所と言われ、後にこの場所をヘッツィウシと呼ぶようになったそうです。

ヘッチェもしくはヘッツィは、歌の間に「ヘイッ!ヘイッ!」と入れる囃子言葉で、「ヘッツィ・ウシ」(囃子つけている・場所)という意味になります。

そのヘッツィ・ウシを和訳して「神楽岡」という地名になったそうです。



・上川離宮について

元々、旭川に離宮を置くという構想ではなく、この旭川の地に「北京」(ほっきょう)を設置するという構想から始まる。

明治18年(1885年)、開拓官僚として北海道へ赴任した岩村通俊と屯田兵副本部長だった永山武四郎の一行が、現在の旭川市街の西北西に位置する近文山より忠別原野を視察。

そして、北海道庁2代目長官となった永山武四郎は「上川に北京を奠く議」、つまり京都・東京に次ぐ第三の都「北京」を北海道・旭川の地に置くという構想を明治政府に建議する。

この案は結局反対にあい却下されるものの、その代わりに「上川離宮」を造営するという計画が浮上する。

この計画は明治天皇の裁可を得て、明治22年(1889年)12月28日に閣議決定される。

離宮計画が決定した翌年の明治23年(1890年)には旭川村・神居村・永山村が開村し、入植者は一気に増え開発が進みますが、この計画は北海道の中心が旭川に移ってしまうと危惧した札幌経済界の反発と、第4代北海道庁長官の北垣国道が離宮を作るなら札幌が良いと政府に意見書を提出したこと。

そして日清戦争が勃発した事によって計画は実現しませんでした。

上川神社境内には武四郎の歌碑と、記念碑が建立され今に伝わる。



イメージ 7

開くトラックバック(1)

全1ページ

[1]

高倉伽月
高倉伽月
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

1
2
3 4 5
6
7 8 9
10 11
12
13 14 15 16
17 18 19 20
21
22
23
24 25
26
27 28 29 30
31

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事