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住所:鳥取県鳥取市上町87 旧県社 旧国郡:因幡國邑美郡 神紋:三つ葉葵 祭神:徳川家康,池田忠継,池田忠雄,池田光仲,池田慶徳 例祭日:4月16,17日 最寄の交通機関: 鳥取東照宮は鳥取県鳥取市の樗谿公園にある東照宮で、東照大権現こと徳川家康の他に鳥取藩主の池田氏を祀る。 近年まで樗谿神社(おうちだにじんじゃ)という難読神社名だったのが昔の因幡東照宮にちなみ鳥取東照宮と改称した。 「一の鳥居」 車は樗谿公園の駐車場に停めて歩いて向かい、400mほど歩くと一の鳥居、その先に授与所と神門がある。 一の鳥居には現在は「東照宮」と書かれた扁額が掲げられているが、以前は「樗谿神社」と書かれた扁額が掲げられていた。 「授与所と茶屋(左)と神門(右)」 神門をくぐると左側に鳥取県神社庁が建っている。 「鳥取県神社庁」 「参道」 参道を進むと右手に神池、そして随神門がある。 「神池」 「随神門」 随神門の先に更に参道、石段を登ると鳥取東照宮の社殿がある。 「拝殿」 「本殿」 本殿・幣殿・拝殿・唐門は重要文化財に指定されている。 鳥取東照宮の創建は、鳥取藩主・池田光仲により慶安3年(1650年)に日光東照宮の分霊を勧請し「因幡東照宮」として創建された。 明治7年(1874年)3月に、池田忠継(光仲の伯父)・忠雄(光仲の父)・光仲を合祀し、樗谿神社と改称、県社に列格された。明治11年(1878年)に最後の藩主・池田慶徳を合祀した。 平成23年(2011年)10月、本来の名称が「因幡東照宮」であったとの理由から「鳥取東照宮」に改称した。 鳥取藩は代々池田恒興の子孫である池田氏が治めていたが、同じ池田氏で転封と入封が2度あったためややこしい。 最初は池田恒興の三男・池田長吉→池田長幸と2代続き、備中松山藩へ転封。 代わりに播磨姫路藩から池田家宗家の池田光政が入封。 最終的に池田輝政の次男で岡山藩主・池田忠継の嫡孫で幼齢で家督を継いだ池田光仲が、池田光政と入れ替わる形で鳥取へ入封し明治まで治めることになった。 ちなみに池田光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲は家康の曾孫になる。 ついでに言うと、合祀されている4柱のうち池田忠継・池田忠雄の2柱は岡山藩主なので鳥取藩の藩政は執っていない。 ・探幽の井戸 「探幽の井戸」 樗谿神社には歌は京都青蓮院二十九世門主尊純親王、絵は狩野探幽の手になる三十六歌仙の額と鷹の絵の額がある。慶安三年(一六五〇)四月創建された東照宮(樗谿神社の称は明治七年に定められた)の拝殿を飾るため鳥取藩主池田光仲が青蓮院門跡に所望して、求めたものである。三十六歌仙の額は同年五月八日にできている。(華頂要略、門主傅) 狩野探幽(一六〇二〜一六七四)ははやくから徳川家康に厚遇され、家康の没後元和三年(一六一七)より幕府に仕え奥絵師となった。江戸時代の狩野派はこの探幽によって基礎が固まったである。狩野探幽がこの地にきた資料はないが三十六歌仙の額と鷹の絵の額があることから、この井戸を「探幽の井戸」として今に伝えられたものであろう。 ちなみに「樗谿」という名前の由来については、鳥取市の公式ホームページ(https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1240472250501/index.html)によれば、 「樗谿」の由来については、古来、樗谿の山中に「王子(寺)」(おうじ)という寺院があったことにより、「王子(寺)谷」(おうじだに)と言われていたとの説と、かつて「大日村」という村落があったことから「大日谷」(おおひだに)と言われていたとの2つの説があります。 「樗谿」の字が当てられるようになったのは、園内にある東照宮が明治時代に「樗谿神社」と改称されてからのようです。 とのこと。
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旧県社 延喜式内社:越前國足羽郡 足羽神社 神紋:三光 祭神:[主祭神]継体天皇,生井神,福井神,綱長井神,阿須波神,波比岐神 :[合祀]大穴持像石神,事代主命,少彦名命,柿本人麿,耳皇子,武小広国押楯命,宇多天皇,天国排開広庭命,素盞嗚尊 例祭日:5月15日 最寄の交通機関: 足羽神社は福井市街地の南西部、足羽山に鎮座する第26代・継体天皇を祀る神社。 「参道入口」 「社号標」 「拝殿」 足羽神社は越前祖神として信仰をあつめる式内の古社で、継体天皇と座摩五神を祭神とする。 社家・馬来田氏は継体天皇の皇女・馬来田皇女の後裔と伝えられる。 境内の枝垂桜・もみじは市指定の天然記念物である。 「枝垂桜」 「(左)足羽宮之碑、(右)天壌無窮碑」 「(左)継体天皇御世系碑、(右)九頭龍川修治碑」 「(左)吟道之碑、(右)六地蔵宝塔」 「神紋『三光』」 「御朱印」 「継体天皇像」 |
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住所:富山県高岡市古城1-1 越中國一宮、旧国幣中社、別表神社、艦内奉斎神社(軽巡洋艦「神通」) 延喜式内社:越中國射水郡 射水神社(小) 神紋:八つ花型鏡 祭神:瓊瓊杵尊(二上神) 例祭日:4月23日,9月16日 最寄の交通機関: 射水神社は富山県高岡市の高岡古城公園内に鎮座する神社で、古くは越中国一宮、近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。 「参道入口」 「社号標」 創始年代は不明だが、天武天皇3年(674年)正月に奉幣を預かったと『日本書紀』記されている事から(我が家の日本書紀には記載されてないのだが…)、それ以前の創建と言う事になる。(射水神社では鎮座祭の基準を天武天皇3年(674年)にしている。) 射水神社は二上山を神奈備山として、養老年間(714〜723)に行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して祀ったのが二上神の鎮座。(現在の二上射水神社) 祭神である二上神は伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる。 国史には度々この二上神が登場し、 『続日本紀』宝亀11年(780年)12月14日、従五位下に叙せられたほか、 『日本後紀』延暦14年(795年)8月18日、従五位上 『続日本後紀』承和7年(840年)9月29日、従四位下から従四位上 『文徳天皇実録』斉衡元年(854年)3月7日、従三位 『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日、正三位に列格。 延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では越中国34座の内の一社として列格した。 その後、承平年間や天正年間に兵火により社殿は焼失し一時衰退したが、慶長年間、前田利家が社殿再建と社領および一山を寄進し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。 「扁額」 明治4年(1871年)、国幣中社に列格し、明治8年(1875年)に現在の高岡城本丸跡に遷座した。 明治33年(1900年)6月27日の高岡大火の際に社殿が類焼、明治35年に再建された。 昭和59年(1984年)には「参集殿」が竣工した。 平成27年(2015年)には、御鎮座1340年・御遷座140年の区切りの年に式年大祭が斎行される。 本当ならば100名城でもある高岡城もゆっくり見れればよかったけれど、この後、高瀬神社、富山市内、雄山神社と移動しなければいけなかったので滞在時間僅か…。 帝国海軍の軽巡洋艦「神通」の艦内神社に御分霊が祀られていたということもあるし、またリベンジしたい。
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旧内務大臣指定護国神社 旧国郡:下総國千葉郡 神紋:丸に桜 祭神:千葉県出身の護国の英霊 57828柱 例祭日:4月10日,10月10日 最寄の交通機関: 千葉縣護國神社は千葉市中央区の千葉公園内に鎮座する護国神社。 「参道入口」 明治維新から大東亜戦争に至るまでの国事国難に殉ぜられた千葉県出身並びに縁故ある方々の英霊が祀られています。 「社号標」 創建は明治11年(1878年)1月27日、明治天皇の御聖慮を奉戴し、初代県令・柴原和が発起となり、千葉県庁公園内に「千葉縣招魂社」として創建。戊辰戦争の際に戦死した下総国佐倉藩士・安達盛篤命(安達直治とも)をはじめ16柱を合祀したのをはじめとする。 明治22年(1889年)、千葉神社境内に遷座。昭和12年(1937年)3月、境内の狭さと社殿の老朽がひどいことから、亥鼻山(千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目6-1、現在の千葉市郷土資料館)に遷座を決定する。 昭和14年4月、招魂社制度の改正に伴い「千葉縣護國神社」と改称する。 昭和15年7月、社殿の造営に着手。昭和18年3月に社殿竣工。昭和18年4月、一県一社の護國神社として指定される。昭和18年4月19日、鎮座祭を執行する。 昭和20年7月7日、戦災により千葉市の大半焼失の際、社殿炎上する。 昭和21年7月、宗教法人として届出、28年3月認証され、同年5月9日登記する。 昭和21年10月、仮本殿を造営する。 昭和22年4月、「頌徳神社」と改称する。 昭和27年6月、「千葉縣護國神社」に復する。 昭和35年10月、畏くも天皇陛下より終戦十五年の故をもって幣帛料を御下賜あそばされ、幣帛臨時大祭併せて例祭を執行する。 昭和36年7月、遺族の要望にも応え千葉市弁天町地区千葉縣忠霊塔隣地を新境内地(当時国有地)とすることに計画決定する。 昭和41年10月、社殿、廻廊、神門等の造営に着手する。 昭和42年3月、社務所の造営に着手する。 昭和42年5月、社殿、神門等竣工する。 昭和42年8月、社務所竣工する。 昭和42年9月30日、亥鼻山より現境内地に御遷座する。 昭和42年10月1日〜3日、特に天皇陛下より幣帛料御下賜あり、三日間に亘り本殿遷座奉祝祭を斎行する。 昭和53年10月10日、御創立百年大祭を献幣使参向のもとに秋季例大祭に併せて斎行する。 昭和48年10月13日、昭和天皇・皇后両陛下御親拝、幣饌料御下賜。 昭和48年10月28日、今上陛下・皇后陛下(当時は皇太子殿下・皇太子妃殿下)御参拝、幣饌料御下賜。 「神門と社務所(左)」 「社殿」 「扁額(靖國神社宮司・筑波藤麿による揮毫)」 神社に隣接して忠霊塔が建っています。 「千葉県忠霊塔」 千葉県忠霊塔は昭和29年(1954年)4月8日に建てられたもので、護国神社はその後の昭和42年に亥鼻公園から忠霊塔の隣へ遷座しました。 毎年8月15日の全国戦没者追悼式に合わせ忠霊塔の前で千葉県忠霊塔拝礼が行われています。 境内や忠霊塔周辺には他の護国神社と同じように慰霊碑が建っていました。 「千葉県特攻勇士顕彰碑」 「支那駐屯歩兵第三聯隊慰霊碑と愛馬慰霊碑」 「日中戦士鎮魂碑」 「千葉県出身陸軍少年飛行兵慰霊之碑」 「モニュメント「大地」」 護国神社周辺は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の舞台にもなっています。
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旧郷社 延喜式内社:下総國相馬郡 蛟蝄神社(小) 神紋:左三つ巴、五三鬼桐 祭神:[主祭神]弥都波能売命 :[合祀]波迩夜須毘売命,倉稲魂命,須佐男之命,菅原道真,誉田別命, 例祭日:旧9月14日 最寄の交通機関:常磐線「取手駅」下車、大利根交通バス立崎車庫行き「立木」停留所下車徒歩5分 蛟もう神社は、利根川の北側、茨城県北相馬郡利根町に鎮座する式内社で、通称・文間明神。「門の宮」と「奥の宮」の2社がある。 「奥の宮参道入口。道をまっすぐ行くと門の宮がある。」 「もう」は特殊漢字の為、パソコンによっては表示されないが、虫へんに網のつくりを合わせた「虫罔」という字で「もう」と読む。 正式には「蛟蝄(みつち)」神社であり、古くは「延喜式神名帳」、最近では昭和37年の「神社名鑑」にも「みつち」と書かれている。 「蛟(みずち)」は水中に棲む龍を指し、祭神も水の神である「ミヅハノメ」(弥都波能売神・罔象女神・水波能売命とも書く)の神を祀る。 「奥の宮参道石段」 ・関東最古の水神を祀る 創建は孝霊天皇3年(西暦前288年)に、現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれており、文武天皇2年(698年)、土の神様の埴山姫大神を合祀した。 その後、時期は不詳なものの、水害や民家が近いという理由で社殿を現在の奥の宮に場所に遷座。元の場所にあった社殿は氏子崇敬者の声から取り壊しをせず、御祭神の御魂を分祀し「門の宮」としてお祀りすることになった。 延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の「延喜式神名帳」には下総国内の式内社11社の1社として「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社(みつちじんじゃ)」と記載されている。 慶長3年(1598年)8月、布川城主・松平信一(後の土浦藩初代藩主)により増修。同9年3月、将軍・徳川家康が五十石を寄進。 享保元年(1716年)、正一位に列格。 明治4年(1871年)7月、郷社に列格。 「石鳥居と参道」 「拝殿と授与所(右)」 「拝殿」 「拝殿内部」 「本殿」 「奥の宮境内」 「本殿と拝殿」 史跡案内 蛟蝄神社周辺
蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前二八八)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(六九八)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(九〇五)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前二五〇〇〜前三〇〇)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長三年(一五九八)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(一六九八)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。 昭和五十五年三月 利根町教育委員会 文化財保護審議委員会 奥の宮の東側500mほどの所に笠脱沼という沼がある。 「笠脱沼」 むかし、大田羅の神(いわゆるダイダラボッチ)がこの地で休憩したときに置いた笠の跡が沼になったのだという。 なお、この笠脱沼の水で、例大祭(ばかまち)の湯立て神事が行われています。その他にも、沼から龍神様が舞い上がって神社のほうに向かわれたという逸話もあり、神社の授与品の「龍神御守」のデザインはこの伝説を図案化したものです。(この龍神御守と神社の御札を頂きました。「龍神御守」や「うまく行く守り」などの御守は蛟蝄神社オリジナルのデザインだとか。) 2014年現在、奥の宮境内は造営中で、写真の拝殿は取り壊され新しい拝殿が建設中。本殿は後方に移築したらしい。 拝殿は老朽化していたのだろうけど味のあるいい拝殿だっただけに残念。新しい拝殿はもう少し大きな拝殿になるようだ。 ちなみに授与所や社務所があるのは奥の宮の方で、御朱印もこちらで頂いた。 「こうもう」の豪快な字体で気持ちがいい。 奥の宮へのアクセスは車で神社の裏手にある「老人ホームやまなみ園」へ向かい、そのまま老人ホームの駐車場と玄関前を通過して行くと細い交差点にぶつかる。そこを左へ曲がると車を停めるスペースが有り、その先が奥の宮の境内。南側からアクセスは道が細く、すごく鋭角で曲がりきれないくらいのカーブになっているので、老人ホームからのアクセスがベスト。 一方、蛟もう神社・門の宮は、奥の宮から西に700mほど行った所に鎮座する。 社殿の立っている部分が小高い丘のようになっているが、実は立木貝塚という史跡の上に鎮座している。 「門の宮(立木貝塚)」 「門の宮・拝殿」 「門の宮・本殿」 門の宮の拝殿内には「正一位文間大明神」の扁額や、絵馬から飛び出して稲を食べることから手綱を描き加えたら絵馬から出歩くことは無くなったという狩野元信作の「繋ぎ馬図」が奉納されています。 また、門の宮の鎮座している場所は立木貝塚で、拝殿前の地面にはシジミくらいの大きさの貝殻が沢山落ちていました。 利根町指定遺跡 立木貝塚
この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。 縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻がよく捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。 この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。 そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。 土偶は、祭礼や儀式に使われていたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。 利根町教育委員会 以下、余談…。 実は蛟もう神社に参拝した理由は『みずのかけら』というPCゲームの影響です。 というのもゲーム内で登場する神社が「水地神社(みずちじんじゃ)」で祭神が蛟(みずち)。 そういう関係からファンディスクでは蛟もう神社が紹介されており、「蛟」との関係と例大祭の「ばかまち」(ヒロインの名前が「まち」であることから)が取り上げられていました。(背景のモデルは福島県喜多方市の新宮熊野神社) ちなみにゲーム内で登場する「葉月」という女の子は水神で蛟ということなので弥都波能売命なんですよきっと。
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