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旧府社、艦内奉斎神社(戦艦「金剛」) 延喜式内社:河内國石川郡 建水分神社 (並小) 神紋:菊水 祭神:[主祭神]天御中主神,天水分神,罔象女神,国水分神,瀬織津媛神 :[合祀]素盞嗚命,応神天皇,天照皇大神,田心姫命,伊弉諾命,伊弉冊命,市杵島姫命,天児屋根命,斎主神,思兼命,国常立尊,地水分神,中筒男尊,八幡大神,神日本磐余彦命 例祭日:4月25日 最寄の交通機関:近鉄南大阪線「富田林駅」乗換、金剛バス千早線「水分神社口」停留所下車 建水分神社は大阪府南部、金剛山山麓の千早赤阪村に鎮座する。 金剛山総鎮守、またこの地を治めていた楠木氏の氏神として崇敬されていた。 「神社は奈良県御所方面へ抜ける国道309号線沿いにある」 「(左)建水分神社と(右)南木神社」 別名・水分神社(すいぶんじんじゃ)とも呼ばれるが、その名の通り水を司る神を祀る。 本殿中殿に祀られているのは創造神である天御中主神だが、本殿左殿右殿に祀られている4柱は水に関係する神である。 水分神は、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二柱の御子神とされ、天之水分神と国之水分神の二柱があり、近畿地方、吉野水分神社など主に奈良県に多く鎮座する。 建水分神社は、第10代・崇神天皇5年(西暦前92年)に、天下饑疫(きえき)の際勅して、金剛葛城の山麓に水神を祭られたのが始まり。 元慶3年(879年)に従四位上に列格された。 河内国の豪族であった楠木家の氏神で、後醍醐天皇の勅令に依って楠木正成が水越川のほとりの下宮にあった社を移して再建したもの。 「建水分神社・鳥居」 「鳥居の扁額」 鳥居の扁額は、もともとは延元5年(1340年)に楠木正行公によって奉納された奉納の後醍醐天皇宸筆といわれる木額の表面の文字が摩滅した為に、宝永2年(1705年)金銅製にて模造されたもの。文字は時の前大納言・葉室頼孝によるもの。 参道から社殿まで樹木が鬱蒼としていて正面からは社殿の全体像が見えない。 また通常は参拝できるのは拝殿前までなので重要文化財に指定されている本殿は拝殿脇の木々の間から辛うじて見ることが出来る程度。 本殿は、建武元年(1334年)に後醍醐天皇の勅命により、楠木正成公が造営されたもの。 本殿は中殿(春日造)・左殿(流造)・右殿(流造)の三殿で構成されており、三殿は渡り廊下でつながっている。 中殿には天御中主神、左右両殿には天水分神(左殿右室)、国水分神(右殿左室)、罔象女神(左殿左室)、瀬織津媛神(右殿右室)がそれぞれ祀られている。 神社建築としては、全国で唯一の形式で明治33年(1900年)に国宝(いわゆる旧国宝)、文化財保護法が施行された昭和25年(1950年)に重要文化財に指定された。 拝殿の左側には末社の金峯神社が鎮座している。 「末社・金峯神社」 ・南木神社 (なぎじんじゃ) 祭神:楠木正成(大楠公) 建水分神社の境内右側に鎮座する摂社の南木神社は、後醍醐天皇の「建武の新政」に功のあった楠木正成公を祭神として祀っている。 「摂社・南木神社」 延元元年(1336年)に正成公が湊川で戦死されると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇自ら楠木正成公の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりで、楠木正成公を祭神として祀る日本最古の神社です。 その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇より「南木明神」の神号を賜った。 現社殿は昭和15年(1940年)に竣工したもので、社殿向かって右前に建てられている由緒標は陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。 以下はその南木神社拝殿前にある由緒標の碑文。 南木神社
南木神社ハ楠木正成公ヲ祀ル當社ノ由緒ニヨレハ延元元年五月公ノ湊川ニ戦死スルヤ後醍醐天皇大タク御悼惜アラセラレ翌年御親ラ公ノ木像を刻マセ給ヒテ公ノ産土神タル當社ノ神域ニ祀ラシメ給ヘリ 之レ本社ノ創始ニシテ南木明神ノ御神號ハ後村上天皇ヨリ賜ハリタルナリト ・戦艦 金剛との関係 帝国海軍の戦艦「金剛」の艦内には金剛山総鎮守である建水分神社の御分霊が奉斎されており、大阪港に入港した際には「金剛」乗員が参拝に訪れていたという。 「戦艦 金剛」 (昭和11年11月14日 館山沖で全力公試時) 「金剛」は金剛型巡洋戦艦の一番艦として英国ヴィッカース社、バロー・イン・ファーネス造船所で明治44年(1911年)1月17日に起工、明治45年(1912年)5月18日に進水した。 艦名は大阪府と奈良県の県境にある金剛山に由来する。 巡洋戦艦として建造されたため命名基準が戦艦に付けられる旧国名ではなく、一等(重)巡洋艦と同じ山岳名が基準となっている。 「金剛山(奈良県御所市方面より撮影)」 「金剛」は世界ではじめて36センチ砲を搭載した戦艦で、日本が外国に技術輸入のため発注した最後の主力艦。 昭和6年に巡洋戦艦の種別が無くなり戦艦に類別され、同年に第一次改装、昭和12年に第二次改装が行われ、煙突が3本から2本に、30ノットの高速戦艦へと生まれ変わった。 大戦時には第三戦隊第二小隊として3番艦「榛名」と共にシンガポールのイギリス海軍東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの抑えとしてマレー方面に進撃。昭和17年6月のミッドウェー作戦、8月にはガダルカナル島攻略戦、10月には榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃した。 昭和19年10月のレイテ沖海戦には栗田艦隊の一艦として参加、サマール島沖で米海軍駆逐艦2隻、護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈している。 昭和19年11月21日、ブルネイ泊地から内地へ帰投中、米潜水艦シーライオンの雷撃によって台湾・基隆北西海域で沈没。潜水艦に沈められた唯一の日本の戦艦である。 連合国側の評価では最古参ながら日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている。 尚、ここで紹介した「金剛」は2代目。初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」で、和歌山県樫野崎で遭難したトルコ軍艦・エルトゥールル号の生存者を「金剛」と2番艦「比叡」(同じく初代)がトルコへ送り届けた。 同じく金剛山に由来する艦名の海上自衛隊の護衛艦「こんごう」は3代目。艦内には建水分神社ではなく、金剛山山頂に鎮座する金剛山葛木神社が祀られている。
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