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旧無格社、別表神社、日本五大稲荷、九州三大稲荷 旧国郡:肥後國飽田郡 神紋:宝珠と稲の丸 祭神:宇迦之御魂大神 例祭日:11月8日 最寄の交通機関: 高橋稲荷神社は熊本県熊本市西区に鎮座する稲荷神社で、日本五大稲荷、九州三大稲荷の一社に数えられる神社です。 「北側の大鳥居」 創建は室町時代の明応5年(1496)、肥後守護・菊池氏の重臣で隈本城の初代城主・鹿子木親員(かのこぎ ちかかず)が支城として背後の稲荷山に上代城を築いた際に、城内鎮護のために京都の伏見稲荷神社から稲荷大明神を勧請したのに始まる。 しかし天文10年(1541)5月5日、上代城落城の際に稲荷神社も焼失した。 江戸時代に入り、麓にあった熊本藩主細川氏の菩提寺である海蔵寺の首座・義本氏が霊夢により稲荷神社再興の啓示を受け、寛文元年(1661)11月8日に現在地である稲荷山中腹に社殿を再建し、以降熊本藩主細川氏の崇敬を受けた。 明治維新の際に高橋稲荷神社に改称し、戦後は神社本庁の包括下となり昭和41年(1966)7月1日に神社本庁指定の別表神社となり、その際に鎮座310年及び別表神社加列記念事業として新たに社殿等が造営された。 現在は日本五大稲荷や九州三大稲荷の一社にも数えられています。 平地と山の斜面に建てられている鉄筋コンクリート造の神社で、1階部分が城の石垣を模した構造、2階には神楽殿、3階に社殿と社務所という複雑な構造をしている。 構造としてデパートとかの立体駐車場を小さくして屋上に神社が乗っているような、そんなイメージ。島根県の太皷谷稲成神社に通じるものを感じます。 「下から本殿と拝殿を見上げる」 「拝殿」 「左が社務所、中央にあるのが祈願殿」 屋上にあたる部分には拝殿・本殿・社務所・祈願殿があり、ここから更に上に登ると奥の宮(玉釼社、源策社、峯吉社、元吉社、聖徳太子堂)がある。 「拝殿の右に鎮座する三吉大明神」 「祈願殿」 「境内からの眺め」 |
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旧郷社、別表神社、日本五大稲荷 旧国郡:石見國鹿足郡 神紋:四つ目結 祭神:宇迦之御魂神,伊弉冉尊 例祭日:11月15日 最寄の交通機関:JR山口線「津和野駅」下車、徒歩25分 太皷谷稲成神社は島根県と山口県の県境にある島根県津和野町に鎮座する稲荷神社です。 ちなみに分霊元は京都・伏見稲荷大社であるが、社号は「稲成」と付く。これは国内でも太皷谷稲成神社のみの社号。 「徒歩の場合は麓の参道入口から…」 「九十九折の千本鳥居の参道を登っていく」 島根県津和野町は「山陰の小京都」とも称される古い町並みが残っている山陰道沿いにある山間の町で、江戸時代には津和野藩の城下町として栄えました。 太皷谷稲成神社は、その津和野城(三本松城)の鬼門である北東の太鼓谷に安永2年(1773)5月15日、津和野藩7代藩主・亀井矩貞が城の安穏鎮護と住民の福祉多幸を祈願するため京都・伏見稲荷大社から勧請された。 明治の廃藩置県までは城の管理下にあり歴代藩主から崇敬されていましたが、廃藩置県後は一般庶民も参拝できるようになりました。 現在の社殿・参集殿・大鳥居などはは昭和44年に1億7千万円の巨費を投じて完成たもので、参拝客は年間150万人を超える西中国地方の霊場で、伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社、そして太皷谷稲成神社が『日本五大稲荷』のうちの一社にも数えられ、神社本庁の別表神社に指定されています。 また、麓からの参道に建てられた千本鳥居は実際に1200本余りが建っています。 「千本鳥居」 「神門」 千本鳥居の参道を登って行き、神門を通り抜けると太皷谷稲成神社の境内にたどり着く。 「社殿と参集殿」 「拝殿」 境内は鉄筋コンクリート造の2階建て。 1階部分は駐車場からそのまま乗り入れられるように車祓所が設けられており、その上が境内で社殿と参集殿などが作られている変わった構造をしています。 「境内は鉄筋コンクリート造の2階建て」 神紋は稲荷神社特有の「抱き稲」の中に「四つ目結」の紋が入っています。 「神紋の抱き稲に四つ目結」 恐らく津和野藩主だった亀井氏の家紋が四つ目結紋である関係だと思われます。 境内の東側、表参道の所に元宮があります。 「表参道を登り切ったところにある元宮」 この元宮は現在の社殿が建てられる前の旧社殿で、大正12年に造営されたもので、同じく宇迦之御魂神の御分霊がお祀りされています。 境内からは眼下に津和野市街を一望できますが、津和野市街を挟んで向かいの山の中腹を通る国道沿いには太皷谷稲成神社の大鳥居が建っています 「津和野市街」 「向かいの国道沿いに建てられている大鳥居」 |
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旧郷社 旧国郡:石狩國札幌郡 神紋:右三つ巴 祭神:宇迦之御魂神、大山祇命、大国主命、事代主命、天鈿女命 例祭日:9月9日 最寄の交通機関:地下鉄円山駅から市バス西12・環50で慈啓会前下車 啓明線大通から市バス西53で啓明ターミナル下車 札幌伏見稲荷神社は札幌市街の南西、藻岩山麓の伏見に鎮座しています。 「藻岩山麓通に面した一の鳥居」 「一の鳥居前の社号標」 一の鳥居は藻岩山麓通に建っていて参道もここからという感じにも見えますが、実際は鬱蒼とした林の下へ更に伸びていて、環状通、更には米里行啓通まで伸びています。この米里行啓通と伏見稲荷神社参道がつながる幌西自転車公園にも伏見稲荷神社の社号標が建っています。 創建は明治17年(1884)4月、野村茂(元官幣大社 札幌神社 禰宜)が発願し、京都の伏見稲荷神社を勧請し、御分神を奉戴して札幌区南五条東一丁目にお祀りしたのが始まり。 明治31年(1898)3月、琴似村十二軒に遷座し、更に明治40年(1907)2月藻岩山麓の現在地に遷宮しました。 現在地の地名が伏見と呼ばれるようになったのもこの伏見稲荷神社が由来となっています。 大正8年村社に列格、昭和16年郷社に昇格になりました。 「扁額」 社殿の右側には荒魂社と大山積大神の石碑が、 「境内社の荒魂社と大山積大神の石碑」 手水舎の近くには願い事が叶うという願石があります。 「願石」 駐車場の脇には、「阿由葉宗三郎翁之像」「上田一徳翁之碑」などの石碑や祠がありました。 「上田一徳翁之碑」 ・阿由葉宗三郎翁之像 阿由葉宗三郎氏(文久二年生)は、昭和八年没するまで、明治、大正、昭和の三代にわたり、自治組織である札幌市火災予防組合連合会の会長として各種の火災予防活動を実践し、今日の防火防災事業及びその精神の基礎を築いた先駆者である。同氏の胸像は、昭和九年九月建立されたが、第二次世界大戦時の金属回収で供出され、台座を残すのみとなっていた。ここにその偉業をたたえ、その理想の実現を期して、この像を復活建立す。
昭和五十九年三月 阿由葉宗三郎氏胸像復活建立期成会 会長 朝川 利雄 |
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旧府社、艦内奉斎神社(戦艦「金剛」) 延喜式内社:河内國石川郡 建水分神社 (並小) 神紋:菊水 祭神:[主祭神]天御中主神,天水分神,罔象女神,国水分神,瀬織津媛神 :[合祀]素盞嗚命,応神天皇,天照皇大神,田心姫命,伊弉諾命,伊弉冊命,市杵島姫命,天児屋根命,斎主神,思兼命,国常立尊,地水分神,中筒男尊,八幡大神,神日本磐余彦命 例祭日:4月25日 最寄の交通機関:近鉄南大阪線「富田林駅」乗換、金剛バス千早線「水分神社口」停留所下車 建水分神社は大阪府南部、金剛山山麓の千早赤阪村に鎮座する。 金剛山総鎮守、またこの地を治めていた楠木氏の氏神として崇敬されていた。 「神社は奈良県御所方面へ抜ける国道309号線沿いにある」 「(左)建水分神社と(右)南木神社」 別名・水分神社(すいぶんじんじゃ)とも呼ばれるが、その名の通り水を司る神を祀る。 本殿中殿に祀られているのは創造神である天御中主神だが、本殿左殿右殿に祀られている4柱は水に関係する神である。 水分神は、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二柱の御子神とされ、天之水分神と国之水分神の二柱があり、近畿地方、吉野水分神社など主に奈良県に多く鎮座する。 建水分神社は、第10代・崇神天皇5年(西暦前92年)に、天下饑疫(きえき)の際勅して、金剛葛城の山麓に水神を祭られたのが始まり。 元慶3年(879年)に従四位上に列格された。 河内国の豪族であった楠木家の氏神で、後醍醐天皇の勅令に依って楠木正成が水越川のほとりの下宮にあった社を移して再建したもの。 「建水分神社・鳥居」 「鳥居の扁額」 鳥居の扁額は、もともとは延元5年(1340年)に楠木正行公によって奉納された奉納の後醍醐天皇宸筆といわれる木額の表面の文字が摩滅した為に、宝永2年(1705年)金銅製にて模造されたもの。文字は時の前大納言・葉室頼孝によるもの。 参道から社殿まで樹木が鬱蒼としていて正面からは社殿の全体像が見えない。 また通常は参拝できるのは拝殿前までなので重要文化財に指定されている本殿は拝殿脇の木々の間から辛うじて見ることが出来る程度。 本殿は、建武元年(1334年)に後醍醐天皇の勅命により、楠木正成公が造営されたもの。 本殿は中殿(春日造)・左殿(流造)・右殿(流造)の三殿で構成されており、三殿は渡り廊下でつながっている。 中殿には天御中主神、左右両殿には天水分神(左殿右室)、国水分神(右殿左室)、罔象女神(左殿左室)、瀬織津媛神(右殿右室)がそれぞれ祀られている。 神社建築としては、全国で唯一の形式で明治33年(1900年)に国宝(いわゆる旧国宝)、文化財保護法が施行された昭和25年(1950年)に重要文化財に指定された。 拝殿の左側には末社の金峯神社が鎮座している。 「末社・金峯神社」 ・南木神社 (なぎじんじゃ) 祭神:楠木正成(大楠公) 建水分神社の境内右側に鎮座する摂社の南木神社は、後醍醐天皇の「建武の新政」に功のあった楠木正成公を祭神として祀っている。 「摂社・南木神社」 延元元年(1336年)に正成公が湊川で戦死されると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇自ら楠木正成公の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりで、楠木正成公を祭神として祀る日本最古の神社です。 その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇より「南木明神」の神号を賜った。 現社殿は昭和15年(1940年)に竣工したもので、社殿向かって右前に建てられている由緒標は陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。 以下はその南木神社拝殿前にある由緒標の碑文。 南木神社
南木神社ハ楠木正成公ヲ祀ル當社ノ由緒ニヨレハ延元元年五月公ノ湊川ニ戦死スルヤ後醍醐天皇大タク御悼惜アラセラレ翌年御親ラ公ノ木像を刻マセ給ヒテ公ノ産土神タル當社ノ神域ニ祀ラシメ給ヘリ 之レ本社ノ創始ニシテ南木明神ノ御神號ハ後村上天皇ヨリ賜ハリタルナリト ・戦艦 金剛との関係 帝国海軍の戦艦「金剛」の艦内には金剛山総鎮守である建水分神社の御分霊が奉斎されており、大阪港に入港した際には「金剛」乗員が参拝に訪れていたという。 「戦艦 金剛」 (昭和11年11月14日 館山沖で全力公試時) 「金剛」は金剛型巡洋戦艦の一番艦として英国ヴィッカース社、バロー・イン・ファーネス造船所で明治44年(1911年)1月17日に起工、明治45年(1912年)5月18日に進水した。 艦名は大阪府と奈良県の県境にある金剛山に由来する。 巡洋戦艦として建造されたため命名基準が戦艦に付けられる旧国名ではなく、一等(重)巡洋艦と同じ山岳名が基準となっている。 「金剛山(奈良県御所市方面より撮影)」 「金剛」は世界ではじめて36センチ砲を搭載した戦艦で、日本が外国に技術輸入のため発注した最後の主力艦。 昭和6年に巡洋戦艦の種別が無くなり戦艦に類別され、同年に第一次改装、昭和12年に第二次改装が行われ、煙突が3本から2本に、30ノットの高速戦艦へと生まれ変わった。 大戦時には第三戦隊第二小隊として3番艦「榛名」と共にシンガポールのイギリス海軍東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの抑えとしてマレー方面に進撃。昭和17年6月のミッドウェー作戦、8月にはガダルカナル島攻略戦、10月には榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃した。 昭和19年10月のレイテ沖海戦には栗田艦隊の一艦として参加、サマール島沖で米海軍駆逐艦2隻、護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈している。 昭和19年11月21日、ブルネイ泊地から内地へ帰投中、米潜水艦シーライオンの雷撃によって台湾・基隆北西海域で沈没。潜水艦に沈められた唯一の日本の戦艦である。 連合国側の評価では最古参ながら日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている。 尚、ここで紹介した「金剛」は2代目。初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」で、和歌山県樫野崎で遭難したトルコ軍艦・エルトゥールル号の生存者を「金剛」と2番艦「比叡」(同じく初代)がトルコへ送り届けた。 同じく金剛山に由来する艦名の海上自衛隊の護衛艦「こんごう」は3代目。艦内には建水分神社ではなく、金剛山山頂に鎮座する金剛山葛木神社が祀られている。
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旧村社、国史見在社、元伊勢、艦内奉斎神社(試験艦あすか) 延喜式内社:大和國高市郡 飛鳥坐神社4座 (並名神大 月次・相嘗・新嘗) :大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 (大 月次/新嘗)[境内摂社 飛鳥山口神社] 神紋:亀甲左三つ巴 祭神:天事代主命,高皇産霊命,飛鳥神奈備三日女命,大物主命 例祭日:8月18-20日 最寄の交通機関: 飛鳥坐神社は奈良県明日香村の飛鳥寺や蘇我入鹿首塚がある東側の鳥形山に鎮座する。 「参道入口、左手にあるのが飛鳥井、その先に社務所がある」 創建年代や当時の鎮座地などは不詳で、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。 国史における一番最初のものは『日本書紀』天武天皇の御世であった朱鳥元年(686年)7月5日の条に「幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた(奉幣於居紀伊国国懸神飛鳥四社住吉大社)」とある。ちょうどこの年の9月に天武天皇が崩御しており、病気平癒の祈願として幣帛が奉られた。 また諸説あるものの平安時代に編纂されたという『日本紀略』によれば、天長6年(829年)に神託により現在の鳥形山へ遷座したという。 『三代実録』には清和天皇の御世である貞観元年(859年)9月8日の条に「八日庚申、(中略)飛鳥神、飛鳥山口神(中略)に使を遣りて幣を奉りき。風雨の為に祈りしなり。(飛鳥神(中略)等遣使奉幣為風雨祈)」とある。 延長5年(927年)に全国の官社をまとめた一覧である『延喜式神名帳』には大和國高市郡 飛鳥坐神社四座として名神大社に列格され月次・相嘗・新嘗の奉幣を受け、現在は摂社として鎮座している飛鳥山口神社も飛鳥山口坐神社として大社に列格され月次・新嘗の奉幣を受けていた。 享保10年(1725年)には火災により社殿の大半を焼失し、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。 現在の社殿は平成13年(2001年)に上記の江戸時代に再建された社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い遷座する際に、旧社殿を移築したもの。 「階段を登った突き当りにある力石」 「拝殿」 拝殿や神楽殿からさらに奥に進むと左手に「むすびの神石」があります。 「むすびの神石」 いわゆる陰陽石で、おんだ祭の夫婦和合の関係からか境内には沢山の陰陽石がありました。 というか明日香村周辺が結構変わった石が多かったりする。 道なりに少し進むと左手に摂社や末社が立ち並ぶ一帯があり、その奥に八坂神社と金比羅神社があります。 「末社・八坂神社と金比羅神社」 「八坂神社と金比羅神社の間にある陰陽石」 さらに奥に進むと奥の社があります。 「奥の社《主》天照皇太神,豊受皇太神」 そこから道なりに戻る感じで歩くと境内摂社で式内社の飛鳥山口神社があります。 「飛鳥山口神社《主》大山津見乃神,久久乃知之神,猿田彦乃神」 ・おんだ祭 有名な神事としては、西日本三大奇祭の一つとされる「お田植祭(おんだ祭)」があります。 「おんだ祭が行われる神楽殿」 元々は摂社である八幡神社の祭事であったそうで、毎年2月第1日曜に行われ、春の始まりに五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祭りですが、奇祭と言われる所以は公開セッ…夫婦和合の所作があるからです。 祭の前と後に天狗と翁と牛が先を割った青竹(ササラ)を持って、村中の人の尻をフルスイングでたたきながら暴れまくる。結構な勢いで叩くので叩かれる方は痛いのだが厄祓いになるらしい。 祭は天狗とお多福(プラス翁)のコミカルな「子孫繁栄の神事」(モノは言いようである)があることで知られている神事ですが、いわゆる「田遊び」というもので、田遊びは田を牛で犂を引いて耕す所から始まり、稲作の各作業を演じてその年の豊作を祈願する予祝行事です。 「天狗(夫)、お多福(妻)、翁(仲人)という役割。画像はイメージ」 中でも田植えの際に用いられる稲の苗を模した松の枝(苗松)や、天狗とお多福の××の事後にアレを「拭いた」紙(福の紙)は、餅まきのような感じで見物客に授与されますが、苗松は田圃の水口に差しておくと農作物に虫が付かず、福の紙は子宝に恵まれるといわれ、それ目的で大勢の参拝客が訪れます。 御朱印には「元伊勢」とあります。 元伊勢といえば神託によって天照大御神が笠縫邑から各地を経て現在の伊勢神宮へ至るまで各地で祀られていた所を指しますが、この飛鳥坐神社も最初に祀られていた笠縫邑の伝承地の一つで元伊勢と称されていました。 自分にとって人生一番最初に参拝した神社でもあるので思い入れが深いのですが、参拝したのがおんだ祭が行われた一週間後だったので、あと一週間早く来ていればと後悔した記憶があります。 試験艦『あすか』 海上自衛隊の試験艦「あすか」の艦内神社には飛鳥坐神社の神札が奉斎されています。 帝国海軍時代から数えると試験艦「あすか」は2代目で、命名基準として名称旧跡から採られているので現在の試験艦あすかと同じ。 初代「飛鳥」は元は中国海軍の砲艦「永建」(ユンチュン)。大正4年(1915年)に上海の江南造船所で建造され、昭和12年(1937年)の日華事変の際に上海で修理中の所を日本軍の爆撃で擱座着底。日本軍が上海を占領後に浮揚・修理して特設水雷砲艦「飛鳥」として就役させた。 昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦初日に上海で「出雲」「勢多」「熱海」と共同で英国海軍砲艦「ペトレル」の撃沈に参加。 昭和20年(1945年)に対空哨戒艦となったが、5月7日に黄浦江でB-29の爆撃を受けて沈没した。 「試験艦 あすか」 (ASE-6102) [海上自衛隊 写真ギャラリーより引用] 2代目の「あすか」は、自衛隊の技本で開発された艤装品を装備し試験運用するためのテストベッド、試験艦のとして建造された。姉妹艦は無い。 見た目の違いは、他の戦闘艦と比較して鋭く突き出た艦首、そして艦上構造物の上の、例えて言うなら修験者が額につける頭襟(ときん)のような形をしたフェイズドアレイレーダー(射撃指揮装置3型(FCS-3))である。 「↓頭襟はこんなの」 堺港に試験艦「あすか」入港の際など乗組員が艦名の由来となっている飛鳥坐神社に参拝するのが恒例となっているようです。 計画:平成4年度計画
発注:1992年 起工:1993年4月21日 住友重機械工業浦賀造船所 進水:1994年6月21日 就役:1995年3月22日 排水量:基準 4,250トン、満載 6,200トン 全長:151.0m 全幅:17.3m 深さ:10.0m 吃水:5.0m 機関出力:43,000PS 速力:27ノット 乗員:70名+試験要員100名 兵装:Mk.41mod.17 VLS×8セル、3連装短魚雷発射管×1基 艦載機:ヘリコプター1機搭載可能 |




