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住所:奈良県御所市高天476 旧村社、艦内奉斎神社(護衛艦こんごう) 旧国郡:大和國葛上郡 神紋:菊水 祭神:[主祭神]葛木一言主大神 :[配祀]建角身命,大山祇命,豊受比売命,素盞嗚命,大国主神,少彦名神,玉依比売命,健御名方富命,後醍醐天皇,護良親王,楠木正成,楠木正行 例祭日:7月7日 最寄の交通機関: 葛木神社は奈良県西部の金剛山山頂に鎮座する神社。 金剛山の山頂一帯は県境ではなくギリギリ奈良県に属しているものの、金剛山へのアクセスは大阪府側からの金剛山ロープウェイからが一番アクセスしやすい。 というわけで、今回は大阪府千早赤阪村の金剛山ロープウェイを利用させていただくことにした。 麓のロープウェイ千早駅の下にある駐車場に車を停め、千早駅まで徒歩10分程、そこからロープウェイで金剛山駅まで所要時間6分、高低差267mの空中散歩。 ちなみにロープウェイの料金は往復で大人1340円、子供(小学生以下)720円。平日は30分おき、日曜祝日は15分おきの運航。 金剛山駅に到着するとそこからは徒歩での登山となる。 上の地図を見ると、右下のロープウェイからは東側ルートと西側ルートがあり、距離的には西側ルート、歩きやすいのは東側という感じになっており、葛木神社には東側ルートが若干近いのと一の鳥居が東側ルートにある。 ただ葛木神社の御朱印は転法輪寺近くの山頂売店で頂く形になるので結局は転法輪寺まで行くことになる。 というわけで自分は西ルートから右回りで戻ってくることにしました。 さて、当日はにわか雨と霧であまり天候が良くなく、10月で山頂は10度という肌寒い気温でした。 西ルートは少々凸凹として雨が降ってると踏み固められた土の道で若干滑りやすい感じです。 「葛城家御廟所」 途中、葛城家御廟所を通り過ぎ、大体ロープウェイから25分くらいの道のりで転法輪寺に到着します。 ここで転法輪寺に参拝と御朱印、そして山頂売店で葛木神社の御朱印を頂きました。 少し休んでから、葛木神社へ。 途中、参道沿いにある夫婦杉や宝剣塔、福石があります。 「夫婦杉」 「宝剣塔(左)と福石(右)」 その先、転法輪寺からは歩いて3分ほどで葛木神社に到着します。 「石段(石段を登らなくても左手の転法輪寺側の坂道から登れる)」 「拝殿・本殿」 「社号標」 この葛木神社裏の禁足地が金剛山山頂(1,125m)となります。 昔は葛城山または高天山(たかまやま)とも呼ばれ、『日本書紀』の神武天皇の条では「高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。」という事に由来しています。(紀元前662年)。 天智天皇4年(665年)、修験道の開祖とされる役小角が16才の時、この山に登り霊気を感得し長い修行の後、金剛山頂上に法起菩薩を御本尊とする金剛山転法輪寺を建立し、役小角の祖神であった一言主神を祀る葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったのが始まりとされています。 以後、真言密教の霊場として信仰を集め転法輪寺の山号である「金剛山」が略称のように使われ葛城山脈中の最高峰を指す名称になったとも言われています。 鎌倉時代末期には、一帯を治めていた楠木正成が転法輪寺の勢力を利用し、500の寡兵で幕府軍5万の大軍を寄せつけず、転法輪寺のすぐ近くに位置する国見城が千早城の背後の抑えとして重要な役割をしていました。 明治元年には神仏分離の憂き目に遭い廃寺となっていたのを、昭和37年に復興し現在に至ります。 「葛木神社・御朱印(金剛山山頂売店でいただける)」 境内右手には祓戸社をはじめとする末社十三社があります。 「末社十三社(右が祓戸社)」 葛木神社の石段を降りたすぐ先には矢刺神社が鎮座しています。 ・矢刺神社 葛木神社摂社 祭神:雄略天皇 「矢刺神社」 『日本書紀』によれば、雄略天皇4年(460年)2月に、雄略天皇が狩に御登山され葛木一言主神と鹿狩を楽しみ、翌5年(461年)2月に再び狩りに来られた際には天皇に食いつこうとした猪を弓で刺し、踏み殺されたという記紀ゆかりの場所で、鎮座する矢刺神社には祭神として雄略天皇が祀られています。 矢刺神社からそのまま表参道を下って行くと、道の両側に立つ仁王杉、更に進むと一の鳥居がありロープウェイ方面と奈良県御所市側に下っていく分岐があります。 「仁王杉」 「一の鳥居」 ・護衛艦「こんごう」 海上自衛隊の護衛艦「こんごう」はこの金剛山が艦名の由来となっていて艦内神社には葛木神社の御分霊が奉斎されており、こんごう乗組員の参拝もありました。 「こんごう」は日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦で、「こんごう」「きりしま」「みょうこう」「ちょうかい」からなる「こんごう型」のネームシップでもある。 ちなみに護衛艦「こんごう」は3代目で、初代は明治10年(1877年)に進水したコルベット艦「金剛」。巡洋戦艦として明治44年(1911年)にイギリスで建造された戦艦「金剛」は2代目。 2代目の金剛には千早赤阪村の建水分神社の御分霊が祀られていました。
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寺社仏閣・奈良県(48)
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旧村社、国史見在社、元伊勢、艦内奉斎神社(試験艦あすか) 延喜式内社:大和國高市郡 飛鳥坐神社4座 (並名神大 月次・相嘗・新嘗) :大和國高市郡 飛鳥山口坐神社 (大 月次/新嘗)[境内摂社 飛鳥山口神社] 神紋:亀甲左三つ巴 祭神:天事代主命,高皇産霊命,飛鳥神奈備三日女命,大物主命 例祭日:8月18-20日 最寄の交通機関: 飛鳥坐神社は奈良県明日香村の飛鳥寺や蘇我入鹿首塚がある東側の鳥形山に鎮座する。 「参道入口、左手にあるのが飛鳥井、その先に社務所がある」 創建年代や当時の鎮座地などは不詳で、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。 国史における一番最初のものは『日本書紀』天武天皇の御世であった朱鳥元年(686年)7月5日の条に「幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた(奉幣於居紀伊国国懸神飛鳥四社住吉大社)」とある。ちょうどこの年の9月に天武天皇が崩御しており、病気平癒の祈願として幣帛が奉られた。 また諸説あるものの平安時代に編纂されたという『日本紀略』によれば、天長6年(829年)に神託により現在の鳥形山へ遷座したという。 『三代実録』には清和天皇の御世である貞観元年(859年)9月8日の条に「八日庚申、(中略)飛鳥神、飛鳥山口神(中略)に使を遣りて幣を奉りき。風雨の為に祈りしなり。(飛鳥神(中略)等遣使奉幣為風雨祈)」とある。 延長5年(927年)に全国の官社をまとめた一覧である『延喜式神名帳』には大和國高市郡 飛鳥坐神社四座として名神大社に列格され月次・相嘗・新嘗の奉幣を受け、現在は摂社として鎮座している飛鳥山口神社も飛鳥山口坐神社として大社に列格され月次・新嘗の奉幣を受けていた。 享保10年(1725年)には火災により社殿の大半を焼失し、天明元年(1781年)に高取藩8代藩主・植村家利により再建された。 現在の社殿は平成13年(2001年)に上記の江戸時代に再建された社殿が老朽化してきたことから、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設に伴い遷座する際に、旧社殿を移築したもの。 「階段を登った突き当りにある力石」 「拝殿」 拝殿や神楽殿からさらに奥に進むと左手に「むすびの神石」があります。 「むすびの神石」 いわゆる陰陽石で、おんだ祭の夫婦和合の関係からか境内には沢山の陰陽石がありました。 というか明日香村周辺が結構変わった石が多かったりする。 道なりに少し進むと左手に摂社や末社が立ち並ぶ一帯があり、その奥に八坂神社と金比羅神社があります。 「末社・八坂神社と金比羅神社」 「八坂神社と金比羅神社の間にある陰陽石」 さらに奥に進むと奥の社があります。 「奥の社《主》天照皇太神,豊受皇太神」 そこから道なりに戻る感じで歩くと境内摂社で式内社の飛鳥山口神社があります。 「飛鳥山口神社《主》大山津見乃神,久久乃知之神,猿田彦乃神」 ・おんだ祭 有名な神事としては、西日本三大奇祭の一つとされる「お田植祭(おんだ祭)」があります。 「おんだ祭が行われる神楽殿」 元々は摂社である八幡神社の祭事であったそうで、毎年2月第1日曜に行われ、春の始まりに五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祭りですが、奇祭と言われる所以は公開セッ…夫婦和合の所作があるからです。 祭の前と後に天狗と翁と牛が先を割った青竹(ササラ)を持って、村中の人の尻をフルスイングでたたきながら暴れまくる。結構な勢いで叩くので叩かれる方は痛いのだが厄祓いになるらしい。 祭は天狗とお多福(プラス翁)のコミカルな「子孫繁栄の神事」(モノは言いようである)があることで知られている神事ですが、いわゆる「田遊び」というもので、田遊びは田を牛で犂を引いて耕す所から始まり、稲作の各作業を演じてその年の豊作を祈願する予祝行事です。 「天狗(夫)、お多福(妻)、翁(仲人)という役割。画像はイメージ」 中でも田植えの際に用いられる稲の苗を模した松の枝(苗松)や、天狗とお多福の××の事後にアレを「拭いた」紙(福の紙)は、餅まきのような感じで見物客に授与されますが、苗松は田圃の水口に差しておくと農作物に虫が付かず、福の紙は子宝に恵まれるといわれ、それ目的で大勢の参拝客が訪れます。 御朱印には「元伊勢」とあります。 元伊勢といえば神託によって天照大御神が笠縫邑から各地を経て現在の伊勢神宮へ至るまで各地で祀られていた所を指しますが、この飛鳥坐神社も最初に祀られていた笠縫邑の伝承地の一つで元伊勢と称されていました。 自分にとって人生一番最初に参拝した神社でもあるので思い入れが深いのですが、参拝したのがおんだ祭が行われた一週間後だったので、あと一週間早く来ていればと後悔した記憶があります。 試験艦『あすか』 海上自衛隊の試験艦「あすか」の艦内神社には飛鳥坐神社の神札が奉斎されています。 帝国海軍時代から数えると試験艦「あすか」は2代目で、命名基準として名称旧跡から採られているので現在の試験艦あすかと同じ。 初代「飛鳥」は元は中国海軍の砲艦「永建」(ユンチュン)。大正4年(1915年)に上海の江南造船所で建造され、昭和12年(1937年)の日華事変の際に上海で修理中の所を日本軍の爆撃で擱座着底。日本軍が上海を占領後に浮揚・修理して特設水雷砲艦「飛鳥」として就役させた。 昭和16年(1941年)12月8日の太平洋戦争開戦初日に上海で「出雲」「勢多」「熱海」と共同で英国海軍砲艦「ペトレル」の撃沈に参加。 昭和20年(1945年)に対空哨戒艦となったが、5月7日に黄浦江でB-29の爆撃を受けて沈没した。 「試験艦 あすか」 (ASE-6102) [海上自衛隊 写真ギャラリーより引用] 2代目の「あすか」は、自衛隊の技本で開発された艤装品を装備し試験運用するためのテストベッド、試験艦のとして建造された。姉妹艦は無い。 見た目の違いは、他の戦闘艦と比較して鋭く突き出た艦首、そして艦上構造物の上の、例えて言うなら修験者が額につける頭襟(ときん)のような形をしたフェイズドアレイレーダー(射撃指揮装置3型(FCS-3))である。 「↓頭襟はこんなの」 堺港に試験艦「あすか」入港の際など乗組員が艦名の由来となっている飛鳥坐神社に参拝するのが恒例となっているようです。 計画:平成4年度計画
発注:1992年 起工:1993年4月21日 住友重機械工業浦賀造船所 進水:1994年6月21日 就役:1995年3月22日 排水量:基準 4,250トン、満載 6,200トン 全長:151.0m 全幅:17.3m 深さ:10.0m 吃水:5.0m 機関出力:43,000PS 速力:27ノット 乗員:70名+試験要員100名 兵装:Mk.41mod.17 VLS×8セル、3連装短魚雷発射管×1基 艦載機:ヘリコプター1機搭載可能 |
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延喜式内社:大和國高市郡 甘樫坐神社 四座 (並大 月次・相嘗・新嘗) 旧村社、国史見在社 神紋:(未確認) 祭神:推古天皇(すいこてんのう)、八十禍津日神・大禍津日神・神直日神・大直日神 例祭日:9月18日 奈良県明日香村の甘橿丘(あまかしのおか)の麓、豊浦寺のすぐ横に甘樫坐神社は鎮座しています。 創建年代は不明、一説によると武内宿禰(84-367)の創建と言われる。その時点でかなり古い。ついでに武内宿禰が長生きしすぎなので創建年の幅が広くて分からない…。 祭神は第33代・推古天皇だが、これは現在の祭神(神社本庁の資料では祭神は推古天皇のみ)で、元々は八十禍津日神・大禍津日神・神直日神・大直日神の4柱を祀る神社だったらしい。 甘樫坐神社では現在、盟神探湯神事というものが行われているが、この「盟神探湯」(くがたち)とは古代の裁判方法の一つで、煮えたぎるお湯に手を入れ、正しい方は火傷をせず、偽っている方は火傷をするというもの。 『古事記』によると允恭天皇の治世(412-453)に盟神探湯を行ったとの記録が残っています。 この神社は特に御朱印頂けたり、授与所があるわけでもない小さなお社だけれど、創建はかなり古い式内大社です。 ここ最近、記事を投稿する元気が無いので、心の故郷の奈良の神社で英気を養おうと、記事にしてみた次第。
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旧村社 式内社:大和國宇陀郡 室生龍穴神社 (小) 神紋:(未確認) 祭神:[主祭神]高オカミ?神(たかおかみのかみ) :[配祀]天児屋根命、大山祇命、水波能賣命、須佐之男命、埴山姫命 例祭日:10月10日、10月15日 最寄の交通機関: 室生龍穴神社は奈良県宇陀市の女人高野で有名な室生寺の近くに鎮座する神社。 主祭神は高???神となっているけれど善如龍王が主祭神ともされることから別名・善女龍王さんとも呼ばれる。 掲示板の御由緒書きにはこのようにある。 主神高オカミ?神は伊弉那岐大神其御子迦具土神を斬り給へる時生れませる神にして水火を司るの威徳を具へ給ひ晴雨を調節して国土民生を安んじ給ふ。 蓋し、農を以て国の本とするが我国古来の伝統的民族信仰として旱天に慈雨を祈るの風潮野を挙げて後を断たざりし所以にして、木津川、淀川の上流の当地に此大神の鎮まります事深く故なしとせず、随って古来暦朝、朝野の信仰篤く祈雨止雨の奉幣に預かり給ふこと度々にして神階は度々昇敍されて、應和元年(961)正四位下に敍せられ給ふ。 延喜の制、貴船、丹生等の社と並びその神威嚇々たる官幣の小社に列せられ、所謂式内社として近畿一円に衆庶の信仰篤く以て今日に及べり。 配祀の祭神は古来聚落の叢祀に奉斎せしを明治末期に合祀せり。 かつて室生龍穴神社の神宮寺として室生寺が建てられたという経緯から、かつてはこの神社のほうが規模が大きかったようです。 境内には「連理の杉」という2本の根っこ部分が一つになった杉の大木があります。 別名・夫婦杉とも呼ばれ、その形から夫婦和合や家庭円満、家運隆昌の神が鎮まるとされて信仰されています。 また、この社殿のしばらく奥には、龍神が眠るという奥宮(龍穴)があるらしい。 こちらはまだ参拝したことがないけれど、確か社務所かどこかに道順とかの説明板があったはず。 正しい作法として白装束で参拝するような事が書かれていた気がする。 実はこの神社には2回参拝しました。 1度目は室生寺に行ったとき。2回目は室生から御杖村方面へ向かった時だったような… 杉の巨木が並んだとても雰囲気のよい神社です。オススメです。
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祭神:不明 例祭日:不明 最寄の交通機関: 姫石明神は、奈良県御杖村の丸山公園の近くにある巨石。 神社ではないけれど、とりあえず寺社仏閣の項目で記事にしました。 場所は旧伊勢本街道沿い、丸山公園の脇から続いていく旧伊勢本街道を歩いて行くと左側に鳥居と巨石があり、その巨石が姫石明神として信仰されている。 いわゆる陰陽石で、女性が俯せになってお尻を突き出してるような形をしている……らしいが、下調べをせずに行ったことと、草木が生い茂っていてよく分からなかった。 ただその姫石明神とされる岩の下にも小さな陰石があるので、てっきりこっちのことかなと思って写真を撮った。正直どっちか分からない。 「姫石明神と旧伊勢本街道」 「姫石明神」 御神体に開いている穴からは赤い水が出てくることもあるらしい。 実際、私が行った時も水が流れでたようなあとがあったけど… 「ご神体?」 この姫石明神は、倭姫命が天照大御神の鎮まる場所を探しに伊勢へ向かうときに参拝したと云われる旧蹟でもあり、ご神徳としては良縁、そして婦人病の平癒とされている。 ちなみに「姫石」は「ひめし」と読み、「姫石の湯」という温泉が「道の駅・御杖」の中に併設されていて、日帰り入浴もできる。
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