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旧村社、陸奥国二宮、国史見在社、江刺八十八ヶ所霊場・第67番札所 延喜式内社:陸奥國膽澤郡 石手堰神社 神紋:州浜 祭神:天忍穂耳命 例祭日:4月19日 最寄の交通機関:東北本線「陸中折居」下車 石手堰神社は、岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)に鎮座する延喜式内社。 「道の駅みずさわ」から北上川を渡り、交差点を左折。県道14号線を北上し1kmほど走った右カーブの突き当りに鎮座する。 別名・黒石神社とも呼ばれ、一説によれば創建が景行天皇40年(110)まで遡る古社で、社伝によれば陸奥二宮でもあるらしい。 六国史の一つである「三代実録」には清和天皇の貞観4年(862)5月16日に「陸奥國の鎮守府正六位上石手堰神を並びに官社に預からしめき」との記述がある国史見在社で、延長5年(927)に完成した「延喜式神名帳」に記載されている式内社でもあります。 明治6年(1873)5月、村社に列格された。 県道14号線を北上すると右カーブの左前方に赤い一の鳥居が見える。鳥居をくぐると右側に二の鳥居と石段。 その上に拝殿がある。 拝殿 本殿 二の鳥居前にある社号標 「石手堰神社」の扁額 右側に阿形、左側に吽形の狛犬が鎮座。結構ユニークな顔をした狛犬さんであった。
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寺社仏閣・岩手県(19)
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旧無格社 神紋:南部向鶴 祭神:豊受大神(とようけのおおかみ) 例祭日:4月28日 最寄の交通機関:JR山田線「上盛岡駅」 榊山稲荷神社は盛岡市北山、南部家の菩提寺の聖寿禅寺の隣に鎮座しています。 創祀は南部氏26代目・南部信直(盛岡藩初代藩主)が三戸城から慶長2年(1597年)に居城を不来方と呼ばれていた盛岡に移し盛岡城を築城した際に、祖先である南部義光が崇敬していた豊受大神を盛岡城内の榊山曲輪に勧請して祀ったのが始まりです。(盛岡城内には櫻山神社・鳩森八幡宮・榊山稲荷神社が鎮座していた。現在はそれぞれ違う場所に鎮座している。) 明治の廃藩置県で神社は藩主の手を離れそのまま廃社になってしまいます。 しかし、昭和5年(1930年)に、当時神道とは関係の無かったものの加持祈祷を行っていた先代宮司の荒川清次郎氏に稲荷大神から再興せよとの霊示を受けて、御神体を盛岡八幡宮で見つけ、私財を投げ打って南部氏の所有だった北山の地を譲り受け再興したという変わった経歴を持っている神社です。 稲荷神社のほかに境内社として12の神社が鎮座していることから、総称して「もりおか開運稲荷」とも呼ばれています。 境内には「緑風苑」という綺麗な庭園があります。 元々は対馬藩から盛岡藩に配流された規伯玄方(きはくげんぼう)によって作られた庭で、荒廃していたものを神社再興時によみがえらせました。 庭の下のほうには「心」の字をした「心字の池」があり、池の中に観音様の像が立っています。 御朱印はちょっと失敗したらしく、2個押されてます。 巫女さんが応対してくださった。 社殿はあまり大きくないけど、参集殿は立派で、参拝客も来てました。
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札所:盛岡三十三観音・第27番 宗派:曹洞宗 本尊:釈迦牟尼仏 最寄の交通機関:JR山田線「上盛岡駅」、循環バスでんでんむし号「本町通一丁目」下車 報恩寺は盛岡市街の北側、寺町の名須川町にあり、「五百羅漢」で有名なお寺です。 「山門」 「中門。元は盛岡城の城門として使われていたらしい。」 創建は応永元年(1394年)に南部家13代目・南部守行によって、三戸の八幡山下に創建され、慶長6年(1601年)に、南部利直により三戸から現在地に移転されました。 幕末の戊辰戦争では南部藩は幕府側についたため、南部藩の家老で、軍を率いて戦った楢山佐渡は後に新政府側から責任を負わされ、この報恩寺で刎首されました。 また、石川啄木も周辺の北山一帯をよく訪れていたようで、詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」では、「社陵の学舎にありし頃、秋のひと日、友と城外北邱のほとりに、名だゝる古刹を訪ひ…」と書いています。 宮沢賢治も報恩寺で参禅したこともあります。 「本堂」 「羅漢堂」 報恩寺の本尊は釈迦牟尼仏像。脇侍の文殊・普賢菩薩像と共に聖徳太子作と言われる仏像で、元々は奈良の中善寺の本尊だったもので、享保年間に報恩寺に迎えられました。 羅漢堂中央の大仏盧舎那仏像は弘法大師・空海の作といわれ、これも元々は奈良県明日香村の橘寺の本尊で、京都を経て、享保年間に報恩寺に迎えられたと伝わる仏像です。 羅漢堂の内部全周には五百羅漢が鎮座しています。五百というのは「多数」という意味で使われていますが、報恩寺の五百羅漢は499体の羅漢像が現存しています。 この羅漢像は享保16年(1731年)に、報恩寺17世住職の曇樹一華和尚が願主として造られ、4年後の享保20年(1735年)に現在の羅漢堂が建造され、その中に収められました。 羅漢像は中国・天台山像を模倣して京都で造られたもので、造ったのは駒野丹下をはじめとする9人の仏師で、現在は盛岡市の指定文化財となっています。 五百羅漢は京都の三十三間堂の仏像と同じように、一体一体個性的な顔や姿で、中にはマルコ・ポーロやフビライを模したと言われる羅漢像もあります。 「左がマルコ・ポーロ、右がフビライらしい。」 開館時間は9:00〜16:00。拝観料(羅漢堂)は300円。御朱印込みだと500円です。
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神紋:(不明) 祭神:少名彦尊(すくなひこのみこと)、稲荷大明神(いなりだいみょうじん) 例祭日: 最寄の交通機関:JR山田線「上盛岡駅」 三ツ石神社は盛岡市街の北側、寺町である名須川町の東顕寺の裏手に鎮座していて、『岩手』という名前の由来になった「鬼の手形」で有名な神社です。 「岩手」のという名前が初めて文献に出てくるのは『大和物語』で「平城天皇の御代に、みちのくの国から鷹が献上され、帝はこれを岩手と名付けた」とあるそうです。 他にも、伝説によれば、昔、この地方に羅刹(らせつ)という鬼が住んでいて、付近の住民を悩まし、旅人を脅していました。 そこで住民は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい、境内にある巨大な三ツ石に縛り付けました。 鬼は二度と悪事はしないしこの地方にはこないと誓ったので、約束の印として三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。 現在では手形はどこにあるか分かりませんが、この岩に手形を押したことが『岩手』という県名の由来になっているということと、鬼がもう来ないと誓ったことから『不来方(こずかた、盛岡の旧称)』と呼ばれるようになったといわれています。 鬼の退散を喜んだ住民たちは、幾日も幾日も踊り、神様に感謝のまごころを捧げました。 この踊りが盛岡名物の「さんさ踊り」の起源といわれています。 創建年代のはっきりしていない三ツ石神社ですが、慶長4年10月24日(1599年)に南部利直公が、盛岡に城を移した時に、初代光行公のみたまを三ツ石神社に迎えて、隣の東顕寺に52石を寄進しました。 三ツ石神社は無人社なので、現在も管理は東顕寺が行っているようです。 もし御朱印をいただけるならと思って、東顕寺に伺ったんですが法要中だったようなので諦めて次の場所へ向かいました。 この三ツ石神社、来たのは中学校の時の修学旅行以来2回目で、その頃は、コケも多くて手形のようなものがまだ残っていたと思います。 「鬼の手形」。英訳すると「Demons Hand Prints in the Rocks」らしいです。 なんか凄い…。
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住所:(本社)岩手県奥州市水沢区中上野町1-83 :(仙台藩・里宮)岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根雛子沢13 :(南部藩・里宮)岩手県北上市和賀町岩崎18地割25番 :(奥宮)岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ケ岳 陸中国一宮、旧国幣小社、別表神社 延喜式内社:陸奥國膽澤郡 駒形神社(小社) 神紋:十六八重菊、左三つ巴 祭神:駒形大神(こまがたおおかみ、(天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天之常立尊(あめのとこたちのみこと)、国之狭槌尊(くにのさつちのみこと)、吾勝尊(あかつのみこと)、置瀬尊(おきせのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) の総称して駒形大神という。) 陸中一の宮の駒形神社は岩手県奥州市、合併前の水沢市の水沢公園に鎮座しています。 岩手県内の別表神社三社のうちの一社です。(もう二社は盛岡八幡宮と志和稲荷神社) 駒形神社は今回紹介する本社の他に、仙台藩と南部藩の里宮と、駒ケ岳頂上に奥宮があります。 「鳥居」 祭神の駒形大神は上記の6柱を総称したものですが、はっきりしておらず、木股神(こまたのかみ)・神馬・馬頭観音・天忍穂耳尊・崇神天皇の皇子・豊城入彦命の末裔の毛野氏の氏神であるなどいろいろな説があります。 文献でも祭神に関しては色々あり、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・大宜津比売神(おおげつひめのかみ)・大市比売神(おおいちひめのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀っていたこともあるらしい。 また、駒形大神は仏教の大日如来や馬頭観音と習合しました。東北は馬の一大生産地だったこともあり東北各地に祀られ、各地にある駒形神社や大日堂などは元々この駒形神社からの分霊だといわれています。。 「神門」 「拝殿」 駒形神社の創建時期は不明です。 一説では、雄略天皇21年(477年)に京都の籠神社から宇賀御魂大神を勧請して奥宮へ、里宮に大宜津比売神と事代主神を配祀したともいわれます。 他にも、景行天皇40年(110年)、日本武尊が東征の折に、天照大神・置瀬命・彦火々出見尊・天常立尊・吾勝尊・国狭槌命を勧請して創建したという説や、坂上田村麻呂の東夷征伐の時に創祀されたともいわれています。 朝廷からも篤い崇敬があり、仁寿元年(851年)に正五位下、貞観4年(862年)には従四位下(奥州の神社では最高の神階)、延喜式神名帳では小社に列格。 武家や領主の崇敬も篤く、天文年間(1532〜1555年)に胆沢郡領主の柏山氏が駒ケ岳山上に社殿を造営し、江戸時代には南部藩と仙台藩が20年ごとに改築しました。 当時の駒形神社は駒ケ岳山頂にあり、駒形連峰は神域とされ女人禁制であったことと、山頂にあるため険しく参拝が大変で、冬季には積雪のため参拝ができないため、仙台藩が麓の金ケ崎町西根字雛子沢に、南部藩が北上市和賀町岩崎にそれぞれ里宮を造営することとなりました。 明治4年に国幣小社になってから、現在の駒形神社にあった塩竈神社を遥拝所とし、明治36年に正式に本社として、駒ケ岳より神霊を奉遷し、駒ケ岳山頂の社殿は奥宮として現在に至ります。 また、この際に元の塩竈神社は境内にあった春日神社に合祀され、社号も塩竈神社と改称されました。 東北地方にはあちこちに駒形神社や大日堂などが散在していますが、この駒形神社から勧請されたものです。 オリジナル御朱印帳は緑がかったマジョーラっぽい感じの御朱印帳。見る角度によっては黒く見えたり緑に見えたりします。 ここは去年の正月に仙台の神社と平泉を観光した後に参拝しました。 陸中一の宮ですが、境内もあまり広くは無く、若干質素な感じを受ける神社でした。
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