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旧村社 神紋:丸に剣花菱 祭神:木花咲耶姫 例祭日:6月16-18日 最寄の交通機関: 浅間神社は松前町市街地から国道228号線を上ノ国側へ11kmほど走った松前町静浦に鎮座する。 「旧道から神社入口」 国道沿いには標識は無いので若干入口がわかりづらいかもしれない。旧道から神社への入口に浅間神社の標柱が立っている。 「神社の標柱と脇を流れる雨竜川」 道の脇を流れる雨竜川沿いに山側へ進んでいった先に浅間神社が鎮座していて、裏手にはグループホームがある。 神社用の駐車スペースは無いため、神社手前にあるグループホームの駐車場に停めさせてもらった。 ・最北の浅間神社 静浦の浅間神社は、木花咲耶姫を祭神とし富士山を神体山として信仰する浅間(せんげん・あさま)神社の社号を持つ神社としては全国で最北端の神社である。 昔、村民の多くは農山業に従事し山神尊崇の念が篤く、隣村の赤神神社の祭神が大山祗命を祀っていたことから、その御子神である木花佐久耶姫命を奉斎することに村中で決し、元禄2年(1689)に上雨垂石崎に社殿を建立し勧請奉斎したのが始まりという。 明治9年10月に当時の雨垂石村(のちに合併し小島村、さらに松前町と合併する)の村社に列格、同41年7月25日に氏子・石山常作より土地の寄附があり、大正2年3月20日社殿移転並びに改築の出願し許可を得、移転改築落成し遷座する。 大正8年10月14日、本殿建築拝殿模様替出願許可せられ同11月7日落成。 更に同10年11月移転出願とともに社殿模様替出願許可を得て落成奉遷、同11年1月8日に神饌幣帛料供進神社に指定された。同15年、拝殿・向拝・神饌所改築出願許可を得て落成。昭和21年に宗教法人を設立し、昭和30年12月15日に現在地に遷座した。 本務社は松前神社。 ちなみに松前町と上ノ国町との境にある大千軒岳(だいせんげんだけ)は浅間信仰から来ているという説もあるらしい。 「石鳥居の扁額と社号標」 「手水鉢」 参拝時に境内で氏子さんが焼肉をしていて、自分も呼ばれて焼肉を頂いてしまった。例祭にも呼ばれていたのだけれど都合が悪く参加でき無さそうだったため、例祭日前日にその時撮った写真を本務社の松前神社さんへ届けに行ったりした。 ちなみに、静浦地区は佐藤姓と石山姓の多い地域で、集まっていた氏子さん達も佐藤さんと石山さんだそう。
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寺社仏閣・北海道(54)
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旧郷社、日本最東の氷川神社 旧国郡:日高國新冠郡 神紋:不詳(隅立二重四つ目?) 祭神:須佐之男命 例祭日:7月31日,8月1日 最寄の交通機関: 氷川神社は北海道の日高地方にある新冠町に鎮座する神社で、国内では最も東に鎮座する氷川神社である。 競走馬の産地の一つの新冠町を通る国道235号と海に面した神社。 正式には氷川神社だが、鎮座している新冠町から通称「新冠氷川神社」とも呼ばれる。 「社号標」 創建は万延元年(1860年)、新冠郡民一同の協議のうえ、武蔵国一宮の氷川神社を勧請し、文久元年(1861)9月16日、京都の仏師長沢庄太郎製作の御神像を祀り、高江村字タカエサラ(現在の判官館付近と思われる)に一堂を建立し御祭礼が行われた。 明治4年に村社、同8年に郷社となり、明治15年にタカエサラより現在地に移転した。 元の境内は24mの高台で風雨が強く樹木も育たず社殿の損傷も甚だしい為、境内を下げて、社殿と社務所の新築などのため、昭和48年11月に造営奉賛会を設立し改築工事が始まったが、境内地での先住民族遺跡発掘調査、オイルショック等不況のため着工が遅れ、昭和53年8月に社殿と社務所が完成し、同年8月30日に遷座祭が執り行われた。 昭和36年に高江の八幡神社、昭和41年朝日の日高見神社の二社が合祀された。 全国には同名の氷川神社は200社余りあるが、北海道内にはこの新冠町と今金町に鎮座する2社があり、それぞれ国内の最東と最北の氷川神社である。 「石鳥居の扁額(左)と拝殿の扁額(右)」 「忠魂碑」 「祖霊社」 「先住民遺跡発掘慰霊之碑」 道内に2ヶ所氷川神社があるというのは知っていて日高地方にあるっていうのもうろ覚えだった所で旅行帰りにたまたま通りかかってそのまま参拝した神社。 神職常駐だとは思っていなかったので御朱印が頂けたのが嬉しかった。 やはり風が強いせいなのか、周りに高い木が生えてない。振り返ると石鳥居の先に太平洋が広がる。 |
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住所:北海道千歳市真町1番地 旧郷社、艦内神社元宮(護衛艦ちとせ) 旧国郡:胆振国千歳郡 神紋:左三つ巴 祭神:豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、伊智伎志摩比売命(いちきしまひめのみこと) 交通機関:JR千歳駅から車で5分 千歳神社は北海道の空の玄関口、新千歳空港のある千歳市の総鎮守で青葉公園内に鎮座する。 鳥居は国道36号線に面して建っており、参道の脇を千歳川が流れる。 更に進むと右手に立派な社務所、正面の丘の上に千歳神社の社殿が鎮座している。 社殿へと登る石段の右側には「幸井の水」という湧水が湧いており、ポリタンクを持った人が水を汲みに来ていた。 ちなみに石段の左側には境内社が建っており、鹿島社か香取社のいずれかだと思うがどちらか分からないので次回参拝時に確認してみたいと思う。 松前藩が編纂した資料である『福山秘府』(1780年)によると、「弁財天小社東夷地、志古津、万治元戌造営、同三年神体ヲ安置」とあり、万治元年(1658)に弁天堂が建立されたのが千歳神社の始まり。 千歳は元々はアイヌ語のシコツ(窪地)から志古津と呼ばれていた。 その後、千歳神社に保存されている「思古津稲荷社建立社記」によれば、享和3年(1803)に樺太南部探検に功績のあった勇払詰所役人・高橋治太夫が思古津場所の守護神として、京都伏見から「正一位思古津稲荷大明神」として稲荷大明神を奉斎し、文化2年(1805)に思古津場所の鮭漁が盛んになるに従って、さらに弁財天が勧請された。 この文化2年に祀られた弁財天の御厨子の裏に、箱館奉行・羽太正養により「死骨」から「千歳」と改称された由来が書かれ、この地を千歳と改めた。 明治8年(1875)に主祭神を豊受姫大神として郷社に列格。大正6年(1917)に「稲荷社」を「千歳神社」と改称して、昭和51年(1976)現社殿を造営し今日に至る。 境内の背後には境内社の山神社が祀られていた。 ・山神社 祭神:金山毘古神,金山毘売神,大山祇神 山神社と書かれた立派な石標の他、石祠が三基あったが、もしかすると祭神一柱に一基ということなのだろうか…。 社殿の南側には下の参道から千歳市立図書館へつながる裏参道があり、そこに生えている木の袂に「ろうさん」と書かれた石柱が建っている。 「ろうさん」 説明文によれば、「裏参道の女坂、シコツ十六場所のひとつ。ろうさん(アイヌ語)意味は、ここより川や海(抜けていく道、ここより開けていく処)」 と書かれていた。 いわゆる和人とアイヌは仲が悪いと思われがちだが、鮭を中心とする諸物産などの交易が行われており、ここはそのアイヌとの交易場所一つであったという。 千歳神社の印象としては北海道特有の県社クラスの立派な社殿の他に、境内のあちらこちらに道祖神が祀られていたのが印象に残った。 ・護衛艦「ちとせ」 海上自衛隊の護衛艦「ちとせ」には千歳神社の御分霊が祀られていた。 艦名は千歳川に由来する。 千歳川は日本で二番目の水深を誇る支笏湖を水源とし、東北東に流れ、千歳神社のすぐ北を通り千歳市市街地を通ってから北へと流れを変え、途中、千歳市・長沼町・恵庭市・北広島市・南幌町・江別市の境界として江別市内で夕張川と共に石狩川へ合流する。総延長は108km。 ちなみに旧海軍の「千歳」は筑後川由来であるので、艦名基準から言えば厳密には初代となる。 ちなみに護衛艦の「いしかり」「ちとせ」「ゆうばり」の由来となっている石狩川・千歳川・夕張川はいずれも石狩川水系の一級河川で、千歳川と夕張川は石狩川に合流する。 いしかり×ちとせ×ゆうばり…(゚A゚;ゴクリ
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旧村社 旧国郡:渡島国亀田郡 神紋:丸に武田菱 祭神:倉稲魂命、大山祗命、猿田彦命 例祭日:8月26日 最寄の交通機関:函館バス「中央文月」下車 文月稲荷神社は、北斗市の旧上磯市街から旧大野町へ抜ける道道96号線の途中、旧大野町文月に鎮座する神社。旧村社で文月村の鎮守社であった。 「社号標」 「境内の脇を文月川が流れる。」 「左側に民家、右側に文月川。」 ・松前藩領の三大稲荷の一つ 文月稲荷神社の勧請年は不詳。ただし、文月へ南部藩野田村(現在の岩手県九戸郡野田村)の野田作右衛門が入植し米を収穫したのが元禄5年(1692年)で、境内の杉の巨木の樹齢が300年以上ということから、その頃の創建と考えられている。 元々、この「文月」という地名は「船着き」が転訛したものといわれ、入植した先人は海からこの文月までおよそ8kmある川をここまで船で上って来たといい、船を押し上げたと考えられる「押上」という地名も残っていた。 松前藩10代藩主・松前章広が文政6年(1823年)に再建を命じた記録があり、同年に自ら揮毫した「正一位文月白狐稲荷大明神」の社号額や再建の由来を記録した由来額、完成を祝った俳句額が納められ、市の指定文化財となっている。 どちらも大野町郷土資料館では展示されていたが、旧資料館が老朽化のため市役所分庁舎2階へ移された新北斗市郷土資料館は旧資料館よりも展示スペースが大幅に縮小され展示されていない。 社号額「正一位文月白狐稲荷大明神」 造営由来額「正一位稲荷宮奉額序」(上)、俳句額「正一位稲荷宮奉額」(下) ちなみに、松前藩主は徳川幕府直轄時代から有珠の善光寺に将軍家の供進使として代参し、その途中、休憩を兼ねて文月稲荷神社に参詣した。 また、文月から山側に入った姉弟山で松前藩の鷹狩が行われていたり、そういう関係もあってか松前藩からこの文月の白狐稲荷は、湊(旧銭亀沢村)の石倉稲荷、江差笹山の直満稲荷と並ぶ松前藩領内の三大稲荷として崇敬された。 明治9年(1876年)、村社に列格。 明治11年(1878年)に山神神社(大山祗命)と猿田彦神社(猿田彦命)を合祀した。 境内には沢山の杉の木が生えていますが、「文月神社環境緑地保護地区」に指定されています。 文月神社環境緑地保護地区
この地区は、スギ・アカマツ等の大径木が生育する面積742平方メートルの境内林である。 地区内には、開拓の歴史を物語る推定樹齢320余年のスギの大径木があり、昭和47年3月に道条例に基づ く記念保護樹木に指定されているなど、市街地周辺の環境緑地として維持することが必要な樹林地として、 住民に親しまれている。 昭和63年5月26日指定 北海道 「境内の杉うちの一本「母杉」(左)と、記念保護樹木に指定されている杉(右)。」 神社の社殿から右側に降りられるところがあり、そこを降りて行くと不動尊が祀られている祠がある。 文月神社内不動尊
文月神社境内の東側にある祠の中に石像の不動尊が安置されている。不動尊は、台座から焔まで68cmで 身長47cmの座像である。天保9年(1838年)に不動院が奉ったもので、村内安全、五穀成就、諸難消滅を 不動明王に祈願したと刻んでいる。そのわきに長さ45cmの不動の剣が納められていて、明治29年(1896年) の旧正月に、文月村・高田辰三郎が願主となっている。 この不動明王は、大日如来の変身である。だから悟りを開いた完全な仏陀であるため悪を粉砕する怒りの 相をし、働きやすい奴隷の形をしている。不動尊信仰は貴族から武士、町民へと移ったが、文月にもこの信 仰が伝えられ、加護を願った歴史を物語るものとして、大切な遺産である。 昭和62年8月 大野町教育委員会 この横に昔は大野小学校文月分校の校舎が建っていた。 「開校百年顕彰之碑」 |
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住所:北海道北斗市館野294 旧村社、円空仏 旧国郡:渡島国上磯郡 神紋:左三つ巴 祭神:[主祭神]誉田別尊 :[合祀]木花咲耶姫命 例祭日:7月10日 最寄の交通機関:函館バス「富川会館前」下車、徒歩7分 函館から国道228号線を松前方面へ向かうと、上磯市街を通り、谷好、富川に差し掛かるとそれまで周囲が平野部だったのが目の前に山が迫り、そこから海岸線を通る道が続きます。 「国道228号線と奥に見えるのが富川八幡宮の鳥居」 その海岸を通る国道と右側の山側に登っていく旧国道の間にあるのが富川八幡宮です。 「鳥居と石段、そして通称「七曲り」と呼ばれる旧国道」 旧社格は村社で、富川地区(旧・富川村)の鎮守社である。(本務社は有川大神宮) 富川と館野の境、旧国道と228号線の分岐点から百数十段の石段を登り、通称ヤギナイの高台にある。風光明媚な場所で後方には神域にふさわしい林があり、津軽海峡、函館港を一望できる。 神社の起源は宝暦2年(1752年)、村中で勧請再建と記録が残されており、富川村の知行主・蠣崎三弥が武運長久祈願のため館内にあったものを現在地に移したものである。 当時の富川は戸数三十余戸、人口140人余りで、近年、社殿内を調査の際、二体の木造が発見され、一体は円空仏、もう一体は目定作の神像があったという。 明治8年に村社に列格され、明治40年に川濯神社(宝暦3年創祀。祭神:木花咲耶姫命)が合祀された。 「両側になぜか狛犬ではなく金色の鯱が…」 「階段は200段弱ある」 この石段の途中の右側にレンガ造りの四角形の台座のようなものがあるが、かつてこの石段を挟んだ両側にレンガ造りで、頂部に宝珠の載った塔が建っていた。 当時の写真は上磯町の写真集『道程』にも掲載されているが、かつてこの塔に付いていた陶板が北斗市郷土資料館に展示されている。 それには「明治四拾三年拾月吉日 富川煉瓦工場主 寄附人〆文工藤弥寿治」「明治四拾三年拾月吉日 富川村 寄附人〆十吉江才次郎」とあり、明治43年に建てられたものだと分かる。 ちなみにレンガ工場は八幡宮の裏を少し歩いた現在の高速道路と海岸の崖の間の小高い丘の上にあったらしい。 また、ここには御影石製の鳥居があり、向かって右には「奉納白子屋利助」、左に「文政十一年三月吉日、長崎御用船永寿丸積下」の刻字がある。 「文政11年奉納の石鳥居」 「石鳥居と参道の両側に仁王像のように生えている杉」 「社殿」 「手水鉢」 「記念碑」と「改元紀念碑(大正三年十月)」 昔は海岸線の国道は整備されておらず、旧道は富川八幡宮から山に入り、通称「七曲り」と呼ばれるカーブの多い谷沿いに登り、ゴミ処理場のある平坦な高台を抜け、その先にある矢不来で一度海岸に出て矢不来の集落の先から再び山道を登って茂辺地に抜けていました。 福山街道
箱館(函館市)と福山(松前町)を結ぶ道を「福山街道」と呼びました。江戸時代の有川(現北斗市)は、箱館から約4里の距離で、人馬引継所がおかれ、追分には茶屋が3軒あり食事や休憩地点として賑わいました。 松前藩の政策上、街道であっても架橋は許されず、渡船がおかれたが「有川の長橋」は許可されていました。 安政元年(1854)戸切地・三谷・富川・三石・当別・釜谷に駅(後の駅逓)を開設して旅人に役立てました。平坦な箱館から街道もいよいよ険しい峠・山道が始まります。当時の交通は船便や馬が多く利用されたが、旅人は山道を避け、好天の日は海浜の波打ち際を通行したようです。 平成23年3月 北斗市教育委員会 ここは松前藩の置かれていた福山城(松前城)から港町である箱館間の交通の要衝でもあり、箱館戦争では富川八幡宮の裏に大鳥圭介が率いる幕府軍伝習隊が設営した「富川塁」がありました。 この富川塁は函館江差自動車道の建設によってほとんど破壊されてしまっていますが、説明板が旧道沿いに設置されています。 ・円空作観音像 北斗市内には3体の円空仏が現存していますが、その内の1体が富川八幡宮の円空仏です。 富川八幡宮の円空仏は、高さ530mm、幅220mm、厚さ120mm、重さ1.95kg 当神社には、町指定文化財の円空作・観音像が安置されている。
僧円空は寛永九年(一六三二)美濃国に生れ、二十三歳で出家し三十五歳で渡道した。 二年間滞在したが、その後修行しながら帰郷し、元禄八年(一六九五)六十四歳で入没したといわれる。 渡道時の作品は「鉈作り」の極意に到達した充実期の作品のような迫力、荒々しさはみられず、端正で純粋さあふれるものが多い。 当神社のは数少ない梵字の墨痕があり、”みそぎ”の神事の言い伝えを残している。 神社からの景色はこんな感じ。境内からは函館湾内を一望でき景色は良い。 個人的には大晦日の夜に参道を照らす提灯がまっすぐ神社へ伸びていく光景は幻想的に思う。
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