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旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

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油日神社 (あぶらひじんじゃ)




旧県社、国史見在社

神紋:木瓜に二つ引

祭神:[主祭神]油日大神、[配祀]罔象女命、猿田彦命

例祭日:5月1日

最寄の交通機関:JR草津線「油日駅」下車・徒歩30分






油日神社は滋賀県甲賀市の南東部の甲賀町油日に鎮座する神社で、『油の祖神』である油日大神を祀っている。

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俗に油日大明神の名で呼ばれる油日神社は、社伝によれば用明天皇の頃に聖徳太子により創建されたと伝わる。

神体山である油日岳は油日神社から南東にあり、油脂の祖神として全国的に信仰されている。

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平安時代、日本の正史の一つ『三代実録』の元慶元年12月3日(878年1月9日)の項には「三日己巳、近江国正六位上油日神に従五位下を授けき」とある。

その平安時代には神仏習合の風により、天台宗の影響を受けたようで、境内には僧坊跡などが残されている。

中世には甲賀五十三家の氏神として崇敬が篤かったという。

明治39年(1906)県社に列格。

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毎年5月1日の油日祭では、国選択無形民俗文化財の「油日の太鼓踊り」、県選択無形民俗文化財「奴振り」の神事が行われる。

また、本殿、拝殿、楼門、および左右回廊の五棟は、室町・桃山時代の建築で、いずれも重要文化財に指定されている。

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NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』を見てて、疎開先の神社に既視感を感じたのでもしかしたらと思ったら、どうやら油日神社でロケが行われていたのは間違いないっぽいということで纏めてみました。

どうやら大河ドラマ『平清盛』でもロケ地として使われていたそうです。

ちなみに、自分が参拝したのは2005年。掲載した写真もその当時の写真で、いずれまた参拝しに行きたいのですがなかなか…。

石山寺 (滋賀県大津市)

石光山 石山寺 (せっこうざん いしやまでら)




近江八景「石山の秋月」

札所:西国三十三箇所観音霊場・第13番札所、近江三十三観音・第3番、江州三十三観音・第1番

宗派:東寺真言宗

本尊:如意輪観音







石山寺は、琵琶湖の南端の滋賀県大津市の琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとりにある寺で、西国三十三箇所観音霊場の第13番札所でもあります。

本堂は国指定天然記念物の珪灰石(けいかいせき)という巨大な岩盤の上に建ち、これが石山寺の名前の由来になっていて、「近江八景」の一つの「石山の秋月」に数えられています。


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開基は、天平19年(747年)、聖武天皇の発願により、良弁(ろうべん)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまり。

当時、聖武天皇は東大寺大仏の造るうえで必要な、像の表面に金メッキを施すための大量の黄金を必要としていました。

そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、金の山と信じられていた吉野の金峯山(きんぷせん)で祈願させた所、良弁の夢に吉野の蔵王権現が現われ、

「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」

というお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てました。

その2年後に陸奥国から黄金が産出され、大仏を作るのに必要な金を確保できたことから元号を天平勝宝と改めました。

しかし、その石山の地から如意輪観音像が離れなくなってしまったため、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺のはじまりと言われています。


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「多宝塔」

本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761)の作で、本尊の胎内には聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像が納めてあるそうです。

現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。





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西国巡礼の大勢の団体さんが本堂で般若心経を唱えてる中での参拝だったんですが、あまりの一体感と声の大きさに、合掌して静かな気持ちには全くなれずでした。凄かった。

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長等山 園城寺(三井寺) (ながらさん おんじょうじ(みいでら))




日本四箇大寺、近江八景「三井の晩鐘」

札所:西国三十三箇所観音霊場・第14番札所(観音堂)、近江西国観音霊場・第5番札所(観音堂)、西国薬師四十九霊場・第48番(水観寺)、湖国十一面観音霊場・第1番札所(微妙寺)

宗派:天台寺門宗・総本山

本尊:弥勒菩薩






 園城寺は、滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山で、山号を「長等山」(ながらさん)と言い、一般的には園城寺ではなく「三井寺」(みいでら)として知られています。(以降は三井寺で書いていきます)

 日本四箇大寺の一つにも数えられていて、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所でもあります。また、「近江八景」の一つである「三井の晩鐘」があります。






 三井寺は、天智天皇が大津京に遷都した後に、弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしますが念願叶わず崩御。皇子の弘文天皇は、壬申の乱で天武天皇に攻められ自害します。

 その後、弘文天皇の皇子・大友与多王が父の菩提を弔うため、自分が所有していた「田園城邑」に天智天皇が建立しようとしていた寺の建立を、父を滅ぼした天武天皇に発願しました。

 朱鳥元年(686年)、天武天皇は建立を許可し、『園城寺』の寺号を与えました。

 俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智天皇・天武天皇・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師・円珍が三井寺の三部潅頂の法水に用いられたことに由来します。




 三井寺は冒頭で書いたとおり、天台寺門宗の総本山で、建立したのは大友与多王ですが、天台寺門宗の開祖は智証大師・円珍です。

 智証大師・円珍和尚は弘仁5年(814年)の生まれで、母親は弘法大師・空海の姪に当たる人でした。

 貞観元年(859年)に三井寺の初代長吏(最高職・別当のこと)になり、貞観10年(868年)には第5代・天台座主(天台宗で一番偉い人)に任命され、寛平3年(891年)に78歳で亡くなります。



 その後、比叡山は智証大師・円珍の一派と慈覚大師・円仁の一派とに2分して対立し、正暦4年(993年)に円仁派が円珍派の僧房を打ち壊すという事件があり、円珍派は山を下り三井寺に移りました。

 それから度々比叡山と抗争が起こり、三井寺は小さいものを含めると50回ほども焼き討ちに遭っています。



 平安時代には朝廷や貴族の崇敬を集め、藤原道長や白河上皇が帰依し、鎌倉時代に入ると源頼義が戦勝祈願をしたことから源氏からの崇敬が篤く、源頼朝も三井寺を保護し、幕府は焼き討ちにあった三井寺を御家人に命じて再建させたりしていました。

 しかし、鎌倉幕府3代将軍の源実朝が、三井寺で僧侶として修行していた源頼家の公暁に暗殺されるという事件が起こったため、一時冷遇されますが、その後再興され、足利氏を支持したことから室町幕府からの保護も受けました。



 安土桃山時代の文禄4年(1595年)には豊臣秀吉の怒りに触れ、三井寺は寺領が没収され、一時廃寺に追い込まれます。

 本尊や宝物は移動され、建物も移築、三井寺の金堂は比叡山に移築されてしまいます。

 その後、慶長3年(1598年)に秀吉から三井寺再興の許可が下り、現在の三井寺はこの頃に出来上がりました。





 所々見ないで歩いたので、写真は多くないんですが、とりあえず順路通りに紹介します。

 三井寺の正面にある駐車場からまっすぐ進むと「仁王門」があります。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_0?1204729574
「三井寺 仁王門(室町時代・重文)」

 参拝の栞では仁王門と書かれていますが、「大門」とも呼ばれます。

 元々は滋賀県甲賀の常楽寺にあったもので、宝徳4年(1452年)の建築。

 徳川家康から慶長6年に移築・寄進されました。

 ここが三井寺の入り口。受付もここです。






 まっすぐ進むと、三井寺の本堂である「金堂」があります。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_1?1204729574
「三井寺 金堂(安土桃山時代・国宝)」

 三井寺の金堂は豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)によって慶長4年(1599年)に作られました。

 現在国宝に指定されています。

 本尊は天智天皇が信仰していた弥勒菩薩像が安置されていますが、秘仏になっているので見ることができません。

 金堂の前には妙なオブジェが…。

 こちらでも御朱印がいただけるそうですが、後で知ったのでここでは頂いてません。





 金堂の横には三井寺の名前の由来になった閼伽井屋(三井の霊泉)があります。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_2?1204729574
「三井寺の由来になった『閼伽井屋(重文)』の内部」


 ここが冒頭で書いた天智・天武・持統の三天皇が産湯に使われたという泉です。

 今も、耳を澄ますと水が湧き出る「ゴポッ…」という音がします。

 泉を覆っている覆屋は慶長5年(1600年)の建築。

 覆屋の正面上部には当時有名だった彫刻家・左甚五郎が彫ったとされる龍の彫刻があります。

 昔、この龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込んで鎮めたという伝説が残っています。




 金堂の左側には近江八景『三井の晩鐘』で知られる鐘楼があります。

 この鐘は宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられていて、重要文化財に指定されています。

 また、その鐘の音は「日本の残したい音風景百選」にも選ばれています。

 今回見てなかったので残念ながら写真はありません…。





 先に進むと、左側に「弁慶の引き摺り鐘」があります。

 以前紹介した御上神社とも関係していますので、ちょっと参照してみてくださいね。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_3?1204729574
「弁慶の引き摺り鐘」
 

 こんな伝説が残っています。

 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。

 その後、山門(延暦寺)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り揚げて撞いてみると、

 「イノー、イノー。」(関西弁で「帰りたい」)

 と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。

 その時のものと思われる傷跡や破目などが残っています。




 道を進むと右側に室町時代の建築で毛利輝元により山口県・国清寺から移築・寄進された「一切経蔵」があり、さらに進むと三井寺の開祖・智証大師円珍和尚の廟所である「唐院」があります。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_4?1204729574
「唐院の三重塔(重文)」

 写真では三重塔しか写していませんが、他にも「潅頂堂」「大師堂」などがあります。

 三重塔は慶長6年(1601年)に奈良県の比蘇寺にあったものを徳川家康により寄進・移築されたものです。




 再び道を進むと、湖国十一面観音霊場・第1番札所になっている微妙寺、さらに道を登っていくと、登った先に「観音堂」があります。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_5?1204729574
「観音堂」

 観音堂は西国観音霊場の第14番札所になっていて、本尊は33年に一度しか見ることができない秘仏の如意輪観音(平安時代・重文)。

 西国観音霊場の札所だけあって、ここが一番人が多かったです。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40816087_6?1204729574

 結局一つしか御朱印は貰ってませんが、他にも札所になっているので5つくらいはいただけるんじゃないでしょうか。

建部大社 (たけべたいしゃ)




近江國一宮、旧官幣大社、別表神社、三十番神

延喜式内社:近江國栗太郡 建部神社 (名神大)

神紋:三本杉

祭神:[本殿]日本武尊(やまとたけるのみこと)、[相殿]天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、[権殿]大己貴命(おおなむちのみこと)

例祭日:4月15日

最寄の交通機関:JR東海道本線「石山駅」






 建部大社は滋賀県の県庁所在地である大津市の「勢田の唐橋」の近くに鎮座していて、近江國一宮・旧官幣大社です。



 主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。古代のヒーローとして有名ですから歴史に詳しくなくても名前だけは聞いたことあると思います。


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「参道」


 祭神の日本武尊は景行天皇43年(113年)に東国征伐の後に帰還する途中、近江国伊吹山で病になり、伊勢国能褒野(亀山市能褒野)で亡くなりました。

 その後、景行天皇46年(116年)4月、日本武尊の子・建部稲依別王が神勅によって神前郡建部郷千草嶽(東近江市八日市建部周辺?)に神宮を創建し、父・日本武尊の神霊を祀り、建部大神と称したのが始まりと言われています。



 天武天皇白鳳4年(664年)、建部連安麿(たけべのむらじやすまろ)が勅を奉じて勢田郷大野山(場所は不明。勢田郷なので近くと思われる。)に遷座し、さらに天平勝宝7年(755年)3月、子孫の建部公伊賀麿は孝徳天皇の勅をにより、大野山の麓・広庭(現在地)に遷座しました。

 その際に大和國一宮・大神神社から大己貴命を勧請して、現在は権殿に祀られています。

 貞観2年(860年)3月に官社となり、延喜式神名帳には名神大社に列格、貞観5年(863年)6月には神階が従五位下になり、その後、応和2年(962年)に正三位に昇格しました。



 祭神として日本武尊が祀られていることもあってか武門の神として崇敬され、永暦元年(1160年)3月20日、平家に捕らわれた源頼朝が伊豆へ流される際に参拝し、源氏再興後の建久2年(1191年)に上洛の際に再び参拝、社領を寄進し、本宮や摂末社の造営や太刀・神馬・神宝などが奉納されました。建部大社へのお礼ですね。

 しかし、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた『承久の乱』(1221年)以降は、たびたび兵火により社殿が焼失したり社領の横領などもあって衰退してしまいますが、江戸時代には琵琶湖ほとりの膳所城主・戸田氏、本多氏から社領の寄進があり、明治18年(1885年)4月に官幣中社、明治32年(1899年)7月に官幣大社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社に指定されています。


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「拝殿」

 また建部大社は、仏教守護のため1ヶ月30日を交代で日本の神が守るという『三十番神』の26日目に建部大明神、本地仏として阿弥陀如来が割り当てられていました。





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 ちょうど春日大社で購入した御朱印帳が最後の1ページになっていたので、ここは大トリにふさわしい神社の御朱印に残しておこうということで、建部大社で新たに御朱印帳を購入しましたが、いたって普通の御朱印帳でした…。

 ちなみに建部大社を創建した建部稲依別王は全国の建部さんの先祖ですので、ここは氏神さんということになりますね。

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御上神社 (みかみじんじゃ)




延喜式内社:近江國野洲郡 御上神社 (名神大 月次/新嘗)

近江國三宮、旧官幣中社、別表神社、三十番神

神紋:違い釘抜

祭神:天之御影神(あめのみかげのかみ)

例祭日:5月14日

最寄の交通機関:JR東海道本線「野洲駅」









 御上神社は滋賀県野洲市の国道8号線沿い、「近江富士」として知られる三上山の西麓に鎮座しています。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40657230_0?1204180445
「参道入り口」


 祭神は天之御影神。別名・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言って、天照大神の孫・天津彦根命の子で、多度大社の祭神と一緒です。


https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40657230_1?1204180445
「楼門」


 創建は第7代・孝霊天皇6年(西暦前285年)6月18日に天之御影神が三上山に降臨されたのを祀ったのが始まりと言われています。

 その後、奈良時代初期の養老2年(718年)に藤原不比等が元正天皇の勅命により山上から現在地に遷座して社殿を造営しました。

 御上神社は、古来から鍛治の祖神と崇められ、浄火守護の神・日本第二忌火神として崇敬されています。

 神階は貞観元年(859年)の従五位上から徐々に上がり、貞観17年には従三位に列せられ、延喜式神名帳には名神大社に列格されています。

 武家からの崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・豊臣秀吉から社領が寄進されています。



 大正2年(1913年)には県社、大正13年(1924年)には官幣中社となり、現在は神社本庁の別表神社に指定されています。

 本殿は鎌倉時代の建築で国宝、拝殿と楼門は重要文化財に指定されています。


 御上神社は仏教守護のために日本の神が1ヶ月30日を守護するという『三十番神』の27日目・三上大明神、本地仏は千手観音に割り当てられています。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40657230_2?1204180445
「社殿」

 また、こんな昔話も伝えられています。


 朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷と言う剛勇の者が、ある日、勢田の橋を渡ろうとすると、大蛇が橋上に横たわっていたが、田原藤太秀郷は大蛇を踏みつけ通った。

 大蛇は、小男に化けて藤太の剛勇を褒め称え、「吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻半巻いているムカデに悩まされているから助けてくれ」と藤太に嘆願した。

 藤太は、御上神社に祈願し弓の秘訣を授かり、勢田の橋から矢を放ち、一矢は射損じ、二矢は鏃にツバをつけてムカデを射止めた。

 竜神は喜び、米俵や釣鐘等の宝物を贈り、田原藤太を俵藤太の名前に改めた。





https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/4b/b1/kazuki133/folder/1567585/img_1567585_40657230_3?1204181699

 御朱印はスタンプではなくてきちんとした御朱印でした。右上と右下についている紋は「違い釘抜」といって、周辺の豪族だった御上氏の家紋です。

 この神社は参拝当時に拝殿が工事中だということもあって、楼門が印象に残っています。

 あと近くの三上山。近くから見るとよく分からないですが、離れた所から見ると、その近江富士という別名がまさにぴったりと感じられます。

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