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第30回 箱館戦争戦死者追悼会&史跡めぐりのお知らせ 今年も函館戦争の追悼会・史跡めぐりが行われます。 去年の追悼会・史跡めぐりは、土方歳三激戦の地・二股口古戦場をはじめ、清水三四郎遭難の碑、新政府軍・佐藤安之助の墓、二股・新政府軍陣地跡、備後福山藩士の無縁墓地、衝鋒隊副隊長・永井蠖伸斎と網代清四郎の墓など、箱館戦争ゆかりの場所を訪ねました。 興味のある方はふるってご応募ください。 「去年の二股古戦場訪問の様子」 日時:6月14日(土) 午後1時〜4時30分 集合場所:北斗市公民館前 地図 参加費:300円 申込期限:6月10日 申込先:事業部・菅野(0138-56-3648)、文保研会長・木下(0138-77-8535) 上記宛に「6月の戦死者追悼会・史跡めぐりに参加したいのですが」とお名前と電話番号を連絡頂ければ申し込みできます。 |
戊辰戦争
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詳細
戊辰戦争の舞台・戦場になった所を紹介していきます。
箱館戦争が主になると思います。
箱館戦争が主になると思います。
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大野口の緒戦 (おおのぐちのしょせん) 住所:北海道北斗市本町周辺 10月24日早朝。大鳥圭介率いる伝習隊は峠下から極寒と雪と北風の中、大野口へ進軍。 大鳥は「道は凍結してつるつるのアイスバーン状態。着ていた合羽の袖も袂も凍って板のようになってしまい、畳むと折れてしまいそうだ」というような愚痴を言っていたらしい。 市渡に差し掛かった24日午前7時頃、新政府軍から臼砲の攻撃を受け大野口の戦闘が始まります。 大野口に布陣していたのは備後福山藩総督・岡田伊右衛門率いる備後福山藩・越前大野藩・松前藩士。こちらは大鳥隊を迎え撃つために北向きに布陣しているため、北風を正面に受けての戦闘となりました。 特に意富比神社(おおひじんじゃ)での戦闘が激しかったものの、1時間ほどで戦闘は終わり、新政府軍は周りの民家を焼きながら撤退。 しかも、大鳥隊が放った砲弾が大野・十字街の民家を直撃し燃え上がり、北風にあおられ十数軒を焼き、村民は銃声と火災に逃げ惑ったそうです。 大野が大鳥隊に押さえられたため、松前藩士は大野から南西4キロの所にあった松前藩戸切地陣屋を幕府軍の手に落ちるのを恐れ自焼して退却しました。 大鳥隊は峠下からはまっすぐ5号線に出るわけではなく、旧道を通って進軍したようです。 新政府軍が布陣した意富比神社のイチイの木には現在も弾痕が残っていますが、取材した時はどれか分かりませんでした。 |
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峠下の戦い (とうげしたのたたかい) 住所:北海道七飯郡七飯町峠下 人見・本多率いる幕府軍の先遣隊30名は、明治元年(旧暦)10月21日(12月4日)に鷲ノ木を出発。その日は宿野部の雪中で野営をし、本道を一路箱館へ向い進軍しました。 今でこそきちんと道路が整備され、大沼からトンネルを抜け、ゆるやかな坂を下ってきて峠下へ出てくることができますが、当時の道は峠下村の裏山の峠越えをするルートで道は険しく、くねくねと曲がりくねった道だったようです。(箱館戦記麦叢録には「険岨ナル峠」と記されていて、現在は古峠と呼ばれる。) 峠から下りてくると峠下村の集落があり、当時は宿舎や駅逓が立ち並んでいました。 鷲ノ木を出発してからの雪中行軍による寒さと疲労でかなり体力を消耗していた先遣隊は22日(5日)の夜に峠下村(現在の七飯町峠下)に到着し、すぐに集落の北の外れにある宿舎の二階に泊まります。 10月23日(12月6日)午前0時頃、突然集落の中に大砲の音が響き渡ります。 「箱館戦争勃発。」 砲声は新政府軍による大砲のもので、その砲声により峠下で散開し待ち伏せしていた新政府軍が攻撃する手はずになっていたらしい。(双方の記録ではお互いに相手が先と書いているが、新政府軍側の記録には「申し合わせの通り、合図の大砲を打ち出す」という記録がある。実際、使者として送られた先遣隊のほうから手を出したとは考えられない。) 箱館府での軍議では、峠下の北側の山には津軽藩2小隊・箱館府半小隊。正面から松前藩1小隊・箱館府1小隊半。市ノ渡方面から津軽藩2小隊が攻撃することになっていた。 峠下で待ち構えていた新政府軍の突然の襲撃に先遣隊は混乱しますが、後続の伝習歩兵隊長・大川正次郎と伝習士官隊長・滝川充太郎率いる隊が砲撃の音を聞き駆けつけ、暗闇の中、小高い丘に登って陣を構え一気に反撃に転じます。 新政府軍は不意の反撃に多数の死傷者を出し、たまらず潰走。それを藤城まで追撃しますが、一度峠下へ戻り戦死者の埋葬や負傷者の手当てをします。 榎本が先遣隊に託した「蝦夷地の事は、徳川家より兼ねて朝廷へ願い出ていたことなので、しばらく同家への元で預け置いて頂きたい。もしそれが許されないならば、新政府軍への抗敵止む無し」という嘆願書は、結局函館府総督の清水谷公考の元には届けられることはなく、開戦の火蓋が切って落とされた。 峠下の戦いから明けて23日の夕方、本道を進軍していた大鳥隊が峠下に到着。 斥候の報告によれば新政府軍は七重(七飯)と大野に布陣し幕府軍を迎撃するつもりでいるらしい。 そこで、軍を二つに分け、大野方面へ大鳥が率いる伝習隊。七重方面へは人見と佐久間悌二の率いる遊撃隊と新撰組を向かわせることになった。 現在の峠下は、とても当時戦争が起こった場所だとは想像できないほど静かな場所です。 国道5号線を札幌方面に向かうと左手に「昆布館」があり、そこの信号を右に曲がります。まっすぐ行くと左手に発電所がありますが、右手に舗装されていない道路と説明板があります。 その右側の道を走ると、新政府軍の戦死者を埋葬した墓と小さな箱館戦争勃発地の碑、その裏手には明治期にあった一行院という寺の跡と、旧幕府軍として戦い、戦後は峠下にあった塾を継いで子供たちに勉強を教えた平山金十郎の墓があります。 墓は全部で5基あり、箱館府・松前藩・津軽藩・備後福山藩などの藩士が葬られています。 古峠方面に行くと途中から車が進めないように車止めがあり、そこから先に進むと「七稜郭」とも呼べるような台場跡があり、南側には七飯・藤城方面への旧道があり、この旧道沿いが戦場になったと考えられます。 上の写真で、右側の突き当りに庚申塚があります。 |
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榎本軍鷲ノ木上陸跡地 (えのもとぐんわしのきじょうりくあとち) 住所:北海道茅部郡森町鷲ノ木 明治元年10月20日(1868年12月3日)、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は開陽丸をはじめとする軍艦8隻と兵士3000名を率いて冬の暴風雪と荒波の中、鷲ノ木村(現在の森町鷲ノ木)に上陸した。 上陸地を鷲ノ木に定めた理由は次のようだった。 1. 箱館は貿易港であり各国の領事館や外国人も多く、常に外国船の入港があり、箱館に幕府艦隊が入港した場合、平和裏に入港することはほぼ不可能で、弁天砲台からの砲撃を受け、箱館湾内の船舶や市街地の在留外国人も巻き込んだ国際紛争に発展する可能性もあった。 2. 官軍は松前に主力部隊を配置しているため箱館攻略の方が松前からの脅威が少ない(100km離れている)。 3. 蝦夷地(北海道)の冬の海は荒天の事が多く、風向や波の状況で接岸できない場合が多い。一方、鷲ノ木がある内浦湾(噴火湾)は上陸可能な日和が多い。
とはいうものの、当時は積雪が1尺(約30cm)ほどで暴風雪と荒波のため上陸時に短艇の転覆などで16名が溺死している。
開戦後は榎本軍の後方陣地として周辺には台場も作られ、戦傷者の療養所などになっていたようだ。 現在、上陸地とされる桂川の横に木製の標柱が建ち、山側にある鷲ノ木史跡公園には上陸地の石柱が建っていて、この一帯が上陸地になったと言われている。 「上陸地周辺。奥に駒ケ岳が見える」 翌日の21日に先遣隊として遊撃隊の人見勝太郎(人見寧、蝦夷共和国松前奉行・後の茨城県知事)、伝習隊の本多幸七郎と護衛の30名、計32名が、箱館府の知事・清水谷公考(しみずたに きんなる)に嘆願書を渡すため箱館へ向け出発。 さらに翌22日、戦になった場合の備えとして部隊を本隊(大鳥圭介)、別隊(土方歳三)とに分け、本隊500人は第2大隊、遊撃隊、新撰組、伝習隊第2小隊、第1大隊第1小隊で編成されており、先遣隊を追うように森・赤井川・宿野辺・峠下・五稜郭へ至る本道を進軍した。(現在の国道5号線を函館に向かうルート) 別隊500人は額兵隊、陸軍隊で編成されており、内浦湾沿いの森・砂原・鹿部を南下し、川汲峠・湯の川を通り五稜郭へ向かうルートで進軍した。 さらに翌日の23日に松岡四郎次郎と衝鋒隊の古屋佐久左衛門が本隊と同じ行程で進軍した。 一方、当時の箱館府・五稜郭の戦力は津軽藩4個小隊200人、松前藩200人、箱館府兵2個小隊100人、大砲2門だった。 上陸の前日の19日に津軽藩の増援200人が到着していて、翌20日には備後福山藩500人、21日には兵庫を出航した摂津軍参謀から箱館府参謀に任命された太田黒亥和太(おおたぐろ いわた、大田黒惟信とも)率いる300名が加わり、合計1500の兵力になっていた。 幕府軍上陸の一報は20日夜に箱館府の清水谷公考に伝えられ、すぐ軍議が開かれ、21日朝に箱館府司令の黒澤伝之丞と三村平太郎にそれぞれ1個小隊を付け藤城(現・七飯町藤城)方面に斥候として向かわせた。 22日朝には軍監・宮地正太夫率いる松前藩1個小隊、津軽藩2個小隊、大砲2門が途中前日派遣した黒澤・三村率いる小隊と共に大野口へ進軍した。 そして黒澤・三村両小隊に大砲2門を配備し、峠下村(現在の七飯町峠下)へ進軍させる。 そして10月22日夜、峠下村で箱館府軍と幕府軍先遣隊が交戦。箱館戦争の火蓋が切って落とされることになる…。 |
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開陽丸青少年センター (かいようまるせいしょうねんせんたー) 開陽丸は徳川幕府がオランダに依頼して建造させた木造機帆走軍艦です。 開陽丸の終焉の地、江差町では開陽丸を復元し博物館として一般公開しています。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)の黒船来航がきっかけで、列強諸国に対抗するには一定の海軍力を保有することが必要であるということになり、それまで幕府が大型船の建造を禁止していたのを、それからわずか3ヵ月後の嘉永6年9月15日に「大船建造禁止令の撤廃」を宣言し大型船の建造が解禁されることになります。 その2年後の安政2年(1855年)には、オランダの支援の下、日本海軍及び海上自衛隊のルーツとも言える海軍要員の育成機関『長崎海軍伝習所』が生まれ、学生は幕臣や藩士などから選抜され、その中から勝海舟や榎本武揚(実は裏口入学)を始めとする箱館戦争と関わりのある人達が輩出されます。 文久2年(1862年)、幕府は当初アメリカに軍艦を発注するつもりでしたが折りしも南北戦争の真っ最中でそれどころでは無かったので、長崎駐在オランダ総領事を通して、オランダの貿易会社に1隻の軍艦を発注します。これが後の『開陽丸』です。 同年6月18日(7月14日)、オランダへ16人の留学生が派遣されます。その中に榎本釜次郎(後の武揚)も含まれています。(1名はオランダの地で亡くなっている) 留学生は建造の見学という目的と手抜き工事を行わないように監視するという役目を持って派遣されました。(咸臨丸が中国の建築物の廃材を使われて建造されたこともあったため、監視員をつけるべきだと助言があった) 翌年の文久3年8月(1863年)にオランダ・ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船会社で起工。 元治元年10月20日(1864年11月19日)、命名式が行われ『開陽丸』と命名されます。 『開陽』とは北斗七星の第六星(ミザール)を中国では『開陽』ということから付けられました。 昔は北極星の役目をしていて、古代中国では天を回転させ太陽を引き上げて暗黒の世界を明るい世界に導く不思議な力を持つ星とされていたらしい。 ちなみに現地オランダでは『Voorlichter』(フォールリヒター)と呼ばれていました。オランダ語で「導く人」「前方を照らす人」「情報を与える人」という意味があります。 慶応2年10月25日(1866年12月1日)、オランダ南部フリッシンゲン港から日本へ回航されます。 翌年慶応3年3月25日、横浜港へ入港。オランダ出航から150日目でした。 横浜入港の後、倒幕の扇動をした薩摩藩士330人を乗せた翔鳳丸を砲撃。その後大阪湾の警護に当たります。 慶応4年(1868年)1月2日、開陽丸は、薩摩藩の平運丸を砲撃。これが引き金となり鳥羽伏見の戦いが起きます。 戊辰戦争の勃発後は、後に阿波沖海戦と呼ばれる海戦で春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を座礁させ勝利します。 (後の聯合艦隊司令官 東郷平八郎は春日丸に乗船していました。) 鳥羽伏見の戦いの後、榎本は徳川慶喜に謁見するため開陽丸を下船しますが、入れ違いに徳川慶喜が開陽丸に乗船して、副長の沢太郎左衛門に命じて1月8日に大阪を出航し、11日に江戸へ帰還してしまいます。(慶喜は妾まで乗船させたというんだから余裕というのかヘタレというのか…) 一方、艦長なのに置いてきぼりを食わされた榎本は、富士山丸に大阪城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両とジュール・ブリューネをはじめとするフランスの軍事顧問団を乗せ、1月12日に大阪を出航。1月14日に品川に入港します。 その後榎本は、海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城となりますが、榎本は開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続け、8月19日、開陽丸を旗艦とした回天丸・蟠竜丸・千代田形丸・咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸は品川沖を脱走。 品川を脱出した旧幕府艦隊は途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸が離脱してしまいますが、何とか仙台に寄港し大鳥圭介、土方歳三をはじめとする奥州列藩の敗残兵2800名を乗せ北上。10月20日に蝦夷地・鷲の木(現在の森町)に上陸します。 その後、函館に入港した後、1868年11月15日、旧幕府軍は江差を攻撃しますが、その援護に向かった開陽丸はタバ風と呼ばれる暴風に遭い座礁。 救出に駆けつけた軍艦「神速」も暴風に巻き込まれ沈没。10日後には開陽丸も沈没します。 後の海底調査によって開陽丸の沈没場所が特定され、発掘により大砲・ピストル・日本刀・食器など32,905点の遺物が発見されています。 艦内には建造されてから沈没するまでの歴史や遺留品、大砲発射時のジオラマなど多数展示されています。 ************************************************* 開館時間 9:00〜17:00 休館日 4月〜10月 無休、 11月〜3月 毎月月曜日と祝日の翌日、 年末年始 入館料 大人700円 小中高生300円 ************************************************* ○開陽丸 要目 船型:バーク型3本マスト 基準排水量:2590t 全長:72.80m(バウスプリットを含むと81.20m) 幅:13.04m 喫水:前方5.70m 後方6.40m 補助機関:蒸気機関 1基1軸 出力:400PS 速力:10〜12ノット(18.5〜22.2km/h) 主要装備:クルップ社製16サンチ施条カノン砲 18門、30ポンド滑腔砲 8門 合計26門(後に9門追加され35門) 乗員:350〜500名 ※『開陽丸』は基本的に帆走のため、エンジンは補助機関となる。
帆走時はスクリューは回転せず水の抵抗になるためスクリューユニットごと船内に引き上げる。 |
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