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続石 (つづきいし) 住所:岩手県遠野市綾織町上綾織 「続石」は遠野から盛岡方面へ抜ける国道396号線の遠野市綾織町の続石バス停のすぐ近くに上り口があります。(すこし盛岡方面へ進むと南部曲り家・千葉家があります。) 続石の入り口には駐車場もあるのですが、最初続石の入り口を見つけられず、近くの千葉家の駐車場に車を停めて、そこからしばらく歩いて行きました。 続石には山道を登るのですが、千葉家の受付のおばちゃんが「今の時期、熊が出る可能性もあるから、歌いながら登った方が良いよ。」と言うので、軍歌の「雪の進軍」やら、BLOOD+のOPの「青空のナミダ」とか大声で歌いながら登ったら、親子連れの先客がいました…。orz めっちゃ恥ずかしい。 大体、入り口から山道を10分から15分登ると鳥居のような形をした巨石があります。これが『続石』です。 二つの大きな岩の上に天井石として幅7m、奥行き5m、厚さ2mほどの一枚岩が乗っていて、よく見ると片側だけに乗っています。 柳田国男の『遠野物語』によると、 「綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には、弁慶の足型の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。」 (遠野物語拾遺 第11話) 「ドルメン(dolmen)」とは日本では支石墓と言い、ケルト語のdol(机)、men(石)に由来する言葉で、原始社会で作られた巨石墳墓のことを言います。 形としては数個から多数の支柱石の上に巨大な板状の一枚岩を乗せたもので、石室内に死体を埋葬し、天井石は地上に露出、下の支柱石が露出しているのは、本来墳丘の中に天井石を除く部分が埋もれていて、長い年月が経つにつれ土が流出したものと考えられています。続石とかなり似ていますね。 ドルメンはヨーロッパ西部や北西部の沿岸、インドのデカン高原や中国東北部と朝鮮、日本では九州(福岡県・佐賀県)に存在するそうです。 もし続石がドルメンだとすると、そばにある「泣石」は「メンヒル」の可能性もあります。(自分の勝手な解釈ですが) 「メンヒル(menhir)」は日本では立石と言われ、ケルト語のmen(石)、hir(長い)に由来し、大きな自然石をそのまま立てるか、加工して地上に立てたものを言います。 普通は2mから5mくらいの高さがあります。一般にメンヒルといわれるものは西ヨーロッパ、特にフランス・ブルターニュ地方に多く、日本にもメンヒルは存在します。(考古学上では立石と呼ばれているようですが) 以前は墓碑と考えられていたそうですが、最近は崇拝の対象として立てられたものという考えが一般的なようです。 続石と泣石の下には少し開けた場所があり、弁慶が岩を持ち上げて乗せた後に一仕事を終えて疲れて昼寝をしたという「弁慶の昼寝場」もあり、周辺は岩がごろごろしています。その中に昼寝の枕代わりに使ったと言う「弁慶の枕岩」もあります。 脇道を入っていくと「不動岩」という大きな岩もあります。 ここは詳しい説明がなかったのでよく分かりませんでした。 遠野物語には続石にまつわる話がもう一つあり、続石の近くで山の神の祟りを受けて死んでしまうという話があります。(長いので掻い摘んで現代文で書きますが) 「もともと南部男爵家の鷹匠をしていた山のことに詳しい「鳥御前」というあだ名の男の人が、もう一人の男の人とキノコを採りに山に入ったところ、続石の少し上のあたりで男と女の人が何か立ち話をしていた。相手の男女が鳥御前が近づいて来るのに気づいて静止するそぶりをしたものの鳥御前は止まらずにそのまま進むと、その相手の女の人が男の人の胸にすがるようにしました。鳥御前は色々見ているうちにこの二人は人間ではないなと思い、元々ひょうきんな人だったので冗談で刀を抜いて切りかかるようにすると、その相手の男の人が鳥御前を蹴飛ばしました。しばらくして一緒に来た連れの男の人が谷底で気絶している鳥御前を発見し、家に連れて帰り鳥御前は山で起きた一部始終を話し、「この事が原因で死んでしまうかもしれない。他の人間にこの事は言うな」と言って、それから3日ほど後に死んでしまいました。あまりにも死に方が不自然だったので家族が山伏に見せた所、「山の神の遊んでいるのを邪魔したので、その祟りを受けて死んだのではないか」ということだった。」 (遠野物語 第91話) 続石の側には山神の祠があり、中には紅白の布で作られた小さな枕が奉納されているそうで、安産の神様として信仰されています。 YES・NO枕…?
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巨石記念物
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大石神ピラミッド (おおいしがみぴらみっど) 十和田湖から国道454号線で八戸方面へ向かうと新郷村に入り、道の駅を越えしばらく走ると「ピラミッド」と「キリストの墓」という標識が出てきます。 十和田湖側からだとピラミッドが手前にあるので、まずピラミッドに行ってみることにしました。 この「ピラミッド」と「キリストの墓」は結構前から地図を見て気になってたところなんですよ。ピラミッドはまぁいいとして、聖書を信じるならキリストの墓はエルサレムにあり(聖墳墓教会)、日本には無いので不思議で仕方が無かったんです。 国道から左に曲がりしばらく走ると左側に「大石神ピラミッド入口」という看板があって、その砂利道を少し進むと赤い鳥居と「大石神ピラミッド」の看板とこんもりした山らしきものがあります。 ピラミッドといっても巨石が沢山あるという感じで、決してピラミッドのような角錐になっているわけではありません。 エジプトのピラミッドという期待を抱いて行った人はいとも簡単に期待を打ち砕かれるので心の準備が要るかも。どういった物かといえば「古代の磐座」といった表現が一番だと思います。 古事記や日本書紀とは違う古代日本史が書かれているという「竹内文書」によれば日本にはエジプトやメキシコにあるピラミッドよりもずっと昔に日本には7基のピラミッドが存在していたらしく、昭和10年に新郷村(当時は戸来村)を訪れた竹内文書を継承した竹内巨麿を始めとする一行がキリストの墓を発見した翌日にここを発見したそうです。 そもそもピラミッドと呼ばれるようになったのは最近のことらしく、竹内文書を研究していた酒井勝軍が唱えた「ピラミッド説」から村人が今のように名付けたらしいです。 ここは「下大石神ピラミッド」で、その名の通り「上大石神ピラミッド」もあります。 元々両方とも一つだったらしく、林道によって分断されたために上下で区別してるそうです。 赤い鳥居をくぐると最初に「太陽石」と「方位石」があります。 「太陽石」は看板には太陽崇拝に使われていたと書いていますが、横にある真東と真西に向かって割れ目が入っている「方位石」と組み合わせて日の出や日の入りを測定する気象目的で使われたとも考えられているようです。 さらに奥へ行くと「星座石」と「鏡石」がありますが、明らかに人為的な石組みらしいです。鏡石には文字が刻まれていたけど江戸後期の安政年間の大地震で倒壊して、文字は下敷きになり見えないとか。 ちなみに鏡石とかは見れませんでした。アブに絡まれて車に逃げ込んだので・・・。(蜂とかクモとか虫嫌いなんです) 林道を更に車で登ると右手に上大石神ピラミッドへの上り口があります。 200mくらい徒歩で登るのですが結構急な場所を登ります。 ちょうど上からカップルと思しき二人組みが下りてきたので挨拶ついでに「ピラミッドありましたか?」って聞いてみたら、「ピラミッドのようなものはありましたよ」とのこと。 すれ違って少ししてから二人が「こんな所に来る人も居るんだね〜」とか言ってました。 あんたら新郷村観光協会に謝れ! こことキリストの墓で町おこししてるんだから謝れ〜。 さて、登っていくと巨石群が見えてきます。 確かにピラミッドではないです。なんというか巨石が乱雑に積まれてるような感じ。 やはりピラミッドではなく古代の祭祀遺跡と言う説が本当なのではないでしょうか。 ただ、巨石の上から見る景色はとても綺麗でした。
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