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住所:香川県高松市番町5丁目 旧郷社 神紋:星梅鉢(ほしうめばち) 祭神:菅原道真(すがわらのみちざね) 例祭日:7月24、25日 最寄の交通機関:JR高徳線「栗林公園北口駅」 中野天満神社は香川県高松市、香川県庁の近くに鎮座していて、通称「大天神」と呼ばれています。 鉄筋コンクリート製の近代的な社殿が特徴の神社です。 元々は「中ノ村天神」と称し香川郡中ノ村(高松市内)に鎮座していましたが、慶長6年(1601年)に現在地に遷座。 讃岐高松藩主・松平頼重は藩学振興の拠り所として、神域の拡張や祭田寄進、社殿も再建し、社号も「中野天満神社」と改称しました。 昭和20年(1945年)7月4日の高松大空襲によって市街地の約8割が焦土と化し、社殿も焼失してしまいますが、昭和44年(1969年)に崇敬者有志により現在の近代的な社殿に再建されました。 社殿が鉄筋コンクリート製で形も近代的な形の社殿ですが、宮司さん(?)に伺った所、「運営上このような外観になった」とのこと。 やはり普通の神社の造りよりもこういった感じの方が将来的に維持しやすいということだったのでしょうか。 一見神社らしくないですが、こういう変わった外観の神社もまたいいかなと思います。 「後藤芝山神社(中央)」 境内には他に後藤芝山神社が鎮座しています。 祭神の後藤芝山(ごとうしざん、1721〜1782)は江戸中期、讃岐出身の儒学者で、名は世鈞。高松藩の藩校「講道館」を設立した人。 現在漢文には「一、二、レ」などの訓点が付いているので漢文を日本語に置き換えて読むことができるが、この訓点を付け始めた人の一人が後藤芝山で、現在古書で流通している儒教の経典「四書五経」に施されている訓点は、後藤芝山の「後藤点」が多い。 |
寺社仏閣・香川県(5)
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旧県社、高松総鎮守 神紋:左三つ巴 祭神:足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、第14代仲哀天皇)、誉田別命(ほんだわけのみこと、第15代応神天皇)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后) 例祭日:10月第3土曜日、日曜日 最寄の交通機関:JR高徳線「栗林公園北口駅」 石清尾八幡宮は香川県高松市の市街地の南西、石清尾山の麓に鎮座していて、高松市の総鎮守として崇敬されています。 また、境内には香川県神社庁もあります。 「随身門」 「左の建物が香川県神社庁」 創建は平安時代の延喜18年(918年)に、八幡大神が現在の神社の後ろにある赤塔山(石清尾山)に現れ祀ったとか、時の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴き、祭ったとも言われております。 社号の「石清尾八幡宮」は、社殿を造った亀ノ尾山(亀命山)の麓ということと、社号が似ている石清水八幡宮の「石清水」と「亀ノ尾」を合わせて、「石清尾」(いわせお)となったと言われています。 南北朝時代には領主の細川頼之からの信仰が篤く、社殿を拡築し、貞治3年(1364年)には現在も5月に行われている「市立祭」の起源の「右馬頭市」が行われました。。 安土桃山時代の天正15年(1587年)には生駒親正が讃岐17万1800石を拝領し、高松城や城下町を造り、石清尾八幡宮を高松城の鎮守とし、社殿の改築と社領を寄進しました。 江戸時代、寛永19年(1642年)にはお家騒動で改易となった生駒氏に代わり藩主となった松平頼重(水戸光圀の兄)からも崇敬され、社殿の造営、社領や宝物を寄進がありました。 その後、宝永2年(1705年)には3代藩主・松平頼豊により社殿が改修され、明治5年(1872)11月には、県社に列格。 大東亜戦争では戦災に遭わなかったものの、昭和61年(1986)10月に火災により本殿と上拝殿を焼失。 平成元年(1989年)に本殿・上拝殿やその他の社殿を改築・修復し現在に至ります。 「下拝殿」 「上拝殿。本殿が見えない」 手水舎に行ったらこんな看板が…。 水不足の四国ならではという感じです…。 実際のところ、船で高松に行きましたが取水制限があり清水を積み込めない可能性や、船内の造水器で作る清水量にも限度があるということがあって、船内で使う清水にも制限が掛かりました。 実はネットで御朱印が公開されていたのでスタンプだというのは知っていたんですが、高松の総鎮守だし行かなければということで行ってきました。 便宜上飛ばしましたが、この前に金刀比羅宮にも行っているのでハードスケジュールでした。
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住所:香川県高松市一宮町607 札所:四国八十八箇所観音霊場・第83番札所 宗派:真言宗御室派 本尊:聖観世音菩薩 御詠歌:さぬき一 宮の御前にあおぎきて 神の心を誰かしらゆう 最寄の交通機関:高松琴平電鉄「一宮駅」下車徒歩10分 一宮寺は、香川県高松市一宮町の讃岐国一宮・田村神社の西隣に鎮座していて、四国八十八箇所観音霊場の第85番札所です。 「山門」 「本堂」 大宝年間(701〜704年)に、義淵僧正が創建したという寺で、行基がお堂を修築して、隣に鎮座する讃岐国一宮・田村神社の別当寺となったことから、一宮寺と寺号を改めました。 始めは法相宗でしたが、大同年間(806〜810年)に弘法大師が一宮寺に留まって、聖観音像を刻んで本尊として安置。その際に真言宗へ改宗したそうです。 戦国時代には長曽我部元親勢の兵火によって寺は焼失。その後再興され、江戸時代初期の延宝7年(1679年)には高松藩主・松平頼重によって田村神社の別当職を解かれ完全な仏教寺となりました。 「大師堂」 本堂の前にある石祠には薬師如来が祀られていますが、この石祠の下には地獄の釜に通じる穴があると言われています。 「薬師如来を祀る石祠」 古い伝説で、昔々おタネばあさんという意地悪なお婆さんがいて、ある日、近所の人から「この寺には地獄の釜煮えたぎる音がする祠があって、悪いことをした人がこの中に頭を入れると抜けなくなる」という話を聞いたおタネばあさんが試しにに頭を入れてみたところ、突然扉が閉まり、「ゴーッ!」という地獄の釜の音が聞こえてきたので、あわてて頭を抜こうとしても頭が抜けず、涙を流しながら「今までのことは許してください」と何回も頼んだ所、扉が開いて頭が抜けました。それからは改心して近所の人からも親しまれるようになったということです。 |
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札所:四国八十八箇所観音霊場・第85番札所 宗派:真言宗大覚寺派 本尊:聖観世音菩薩 御詠歌:ぼんのうを 胸の智火にて八栗をば 修行者ならで誰か知るべき 最寄の交通機関:琴平電鉄「八栗駅」、 八栗寺は、香川県高松市の東側、牟礼町にある五剣山の山麓にあり、四国八十八箇所観音霊場の第85番札所でもあります。 駅から徒歩でケーブルカーの駅まで行きます。途中、牟礼会衆の王国会館と讃岐うどんで有名な「山田屋」さんを横目に見ながら更に登っていくと、ケーブルカーの駅に着きます。 徒歩でも登ることはできますが、麓から寺までケーブルカーで登ったほうがずっと楽ですね。往復で900円かかります。 「ケーブルカーの駅」 「こんな感じの所を登っていきます」 「頂上の駅降りたところ」 開基は、天長6年(829年)に、弘法大師がこの山で求聞持法(ぐもんじほう)を修めたときに、天から5振りの剣が降り、蔵王権現が現われてこの山が聖地であることを告げた。 弘法大師はその5振りの剣を山中に埋め、山を五剣山と名付けたことが始まりです。 その後、大師が唐の国へ修行へ向かう際に、無事仏教を学び念願が叶うか試すために、焼き栗を8個地中に埋めた。 修行から戻るとその埋めた栗が全て成長していたことから寺の名前である「八栗」という名前が付けられました。 その後、寺は山岳修験道の霊場として栄えるものの、天正の兵火により焼失。 江戸時代に入ってから、高松藩主・松平頼重・頼豊によって再建され、松平家の祈願寺となりました。 宝永3年(1706年)には宝永の大地震により五剣山の5つの峰のうち東の1つの峰が崩落し現在の状態になり、現在も崩落の危険性があるため登山は禁止となっているらしい。 「多宝塔と大師堂」 「大師堂」 「境内。奥の山が五剣山」 「本堂。松平家の祈願所のため葵の紋が付いている。」 「歓喜天」 例のアラーキーこと荒木経惟氏に遭遇したのもこの八栗寺だったわけですが、すごい存在感を放ってましたよ。 お遍路さんも結構気付いてた人が多いみたい。 きちんと写真を撮っていましたが、「歓喜天っていい名前だねぇ〜♪」と相変らずのエロトーク。 実際、アラーキー氏が知ってか知らずか、この歓喜天、縁結びとか夫婦和合の神様だったりして…。 御神体の歓喜天像は弘法大師の作。「○○聖天」と付いている所は大抵この歓喜天を祀っています。 アラーキー氏とは帰りのケーブルカーでも一緒。みうらじゅんさんも一緒で、八栗寺にはみうらじゅんさんの関係で来たのかなと…。その後来ていた人数人と車に乗ってどこかに去っていきました。 「アラーキー氏とモデルさん?」 「一番前の頭だけ見えてるのがアラーキー氏」 |
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住所:香川県高松市一宮町286 讃岐國一宮、旧国幣中社、別表神社 延喜式内社:讃岐國香川郡 田村神社 (名神大) 神紋:五七桐 祭神:倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、五十狹芹彦命(いさせりひこのみこと、吉備津彦命)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天隠山命(あめのかごやまのみこと、高倉下命)、天五田根命(あめのいたねのみこと、天村雲命) 例祭日:10月8日 最寄の交通機関:高松琴平電鉄「一宮駅」 田村神社は香川県高松市一宮町の琴平電鉄「一宮駅」の近くに鎮座しています。 近くには四国八十八箇所の一つ、「一宮寺」もあり、古くは延喜式内の名神大社、そして讃岐國一宮、近年では国幣中社、そして神社本庁の別表神社として信仰されている神社です。 祭神の倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命、猿田彦命、天隠山命、天五田根命の五柱を総称して「田村大神」と呼ばれています。 和銅2年(709年)に社殿が創建され、それ以前には奥殿の床下の定水井(さだみずのい)という井戸に筏を浮かべて祭祀を行っていたらしい。このことから定水大明神とも呼ばれています。(現在は涸れ井戸) 嘉祥2年(869年)に従五位下、貞観3年(861年)には官社、それから位も上がり、建久元年(1190年)に正一位。延喜式には名神大社として列格。 讃岐一帯を治めた細川頼之、細川勝元、仙石秀久、生駒氏、松平氏などから室町時代から戦国時代にかけては社領の拡大などが行われ、高松藩主・松平頼重によって明暦元年(1655年)に社殿の修造と、延宝7年(1679年)には、他の神社などでは明治に行われた神仏分離よりいち早く神仏分離が行われ、それ以後松平氏代々の祈願所として信仰されました。 明治4年(1871年)には国幣中社に列格され現在に至ります。 「拝殿横にある木の化石。見た目は木だけど触ってみると石です。」 「宇都伎社。布袋尊を祀っている。」 「宇都伎社の前にある、微笑七福神」 「さぬき七福神。なぜかネコ。」 「素婆倶羅社。鈴の鳴らし方が特殊。滑車のチェーンを回すように鳴らす。」 参拝当日は雨。参拝客はちらほらという感じでした。 本当はもう少しゆっくり境内を回りたかったのですが、友達と一緒に来ていたこともあり、余り無理は出来ないので長居はできませんでした…。残念。 御朱印を頂いた時に同時に田村神社という社号の入った鉛筆をいただきましたよ! |
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