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旧県社、豊後八社八幡、日田市総鎮守、艦内奉斎神社(巡洋艦「三隈」) 神紋:菊桐 祭神:誉田別命,息長足姫命,比売大神 例祭日: 最寄の交通機関: 大原八幡宮は大分県西部の日田市に鎮座する八幡宮。 結構規模の大きな八幡宮。豊後国(大分県南部)の八幡宮としては筆頭とされていて、豊西の総社とも言われている由緒ある神社です。 創建は天武天皇の御代の白鳳9年(680)、靭負郷の岩松ヶ峯(現・日田市天瀬町馬原・鞍形尾神社付近とされる)に顕現された八幡大神の神勅により、時の郡司・日田鬼蔵太夫が社殿を創建したのが始まりとされています。 ついで慶雲元年(704)、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。 貞観元年(859)には、再び八幡神霊の神勅により日田郡司・大蔵永弘(おほくらのながひろ)が杉原から元宮(現・元大原神社(日田市求来里))に遷座し、延喜15年に社殿を建立。宇佐八幡宮の例に倣って相殿に息長足姫命、比売大神を奉斎し「大原八幡宮」と称するようになった。 日田の総社として郡司はもとより、国守大友氏等の篤い崇敬をうけ、承徳元年(1097)、放生会が始まる。 建久4年(1193)、九州探題・大友能直の命により鎌倉の鶴岡八幡宮の礼式に改め、豊西(豊国の西方)の総社と定めた。(豊東の総社は「柞原八幡宮」) 慶長2年(1312)に大友氏により社殿が再建。 元和10年(1624)に日田永山城主・石川主殿頭忠総により元宮原から現在地に遷宮された。(現在、旧社地には元大原神社が建つ) また貞享4年(1687)に、代官小川氏により楼門等の建立。 現在の社殿は、郡代・揖斐氏が社殿再建の為、寛政2年(1790)に地鎮祭、同6年上棟、同12年に郡代・羽倉氏により正遷宮の末に建立された。 明治5年(1872)、県社に列せられ、昭和31年に御鎮座一千百年大祭、同48年に御遷座三百五十年大祭を斎行した。 大原八幡宮で有名なのは仲秋祭・放生会。 承徳元年(1097)から始まった放生会は9月21日から5日間、放生祭・各種奉納行事・神楽・民謡・詩舞・剣詩・詩吟・剣道・柔道などが行われ、神輿が21日から頓宮へ神幸、25日に本宮へ還幸される。 境内右側には神楽殿、左側には社務所があります。 境内末社として大原八幡宮社殿の背後に境内向かって右側から、錦春稲荷神社、大山祇神社、日田神社、医祖神社、松尾神社、住吉神社の6社がある。 ・錦春稲荷神社 錦春稲荷大明神略縁起
仰々稲荷大神は豊宇気姫の神と申し衣食住の神として奉斎す。 当、錦春稲荷大明神は徳川五代将軍綱吉公時代に三代将軍の水戸家後楽園錦春門内の台地に兜一頭を埋め社を建て稲荷の大神を祭祀せらる。 水戸邸が砲兵工廠となりても引き続き際しを怠らず。 昭和9年2月21日、東京より遷し奉り工廠の守護神とす。 昭和10年4月17日遷座祭挙行。昭和20年3月小倉造兵廠の主力を日田市に疎開すると共に、昭和20年7月10日日田市へ遷座さる。 昭和20年8月15日終戦により軍の武装解除とともに造兵廠も亦解散することとなりたるによって、大原八幡宮の御高志に依り同境内に神殿を新築し遷座且祭祀を依託せり。 昭和20年9月識す 要約すれば、元々は東京都文京区の旧水戸邸の小石川後楽園に鎮座していて、その水戸邸跡が明治3年(1870)から東京砲兵工廠になるものの、関東大震災の被害もあって昭和10年(1935)に砲兵工廠の機能を現在の北九州市小倉北区にあった小倉陸軍造兵廠に移転するのに伴って神社も同地に遷座、さらに昭和20年(1945)3月に日田市などへ工場疎開が行われ、同年7月に現在の日田市に遷座したという、すごい距離を遷座してる神社であります。 そんな由来があって錦春稲荷神社には「小倉造兵廠本部終焉の地」の碑が建っています。 「大山祇神社」 「松尾神社、日田神社、住吉神社、医祖神社」 境外摂社として、若八幡神社、玉垂神社、会所神社の3社。境外末社には、金刀比羅神社、興玉神社の2社がある。 境内の奥には、殉職警察官慰霊塔、千原襖一郎君頌徳碑、包丁塚が建っています。 大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦の『三隈』は日田市内を流れる三隈川から命名され、艦内神社は大原八幡宮からのご分霊を祀っていた。 境内には「三隈」関係の石碑などは見当たらなかった。 ・重巡洋艦「三隈」 軽巡時代の「三隈」(昭和10年9月下旬 函館港) 「三隈」は旧日本海軍の重巡洋艦。 「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」の4隻からなる最上型重巡洋艦の2番艦で、日田盆地を流れる三隈川から命名された。 当時は条約制限下で重巡の保有が制限されていたため、重巡並の船体に軽巡の15.5cm砲を乗せて表向きは軽巡、いざというときには20.3cm砲に換装して重巡にすることにしたため、最上型は軽巡に付けられる河川の名前が冠されている。 この最上級4隻は第七戦隊で活躍し、特に姉妹艦4隻の中でも「最上」と「三隈」は太平洋戦争開戦以来、常に作戦行動を共にした2隻で、「三隈」の最後となったミッドウェー作戦では、最上型4隻からなる第7戦隊は、進路上の敵潜水艦を発見し緊急回頭をする際に信号の伝達の混乱から「三隈」に「最上」が衝突し、「最上」は艦首切断という損害を被る。 「三隈」の損害自体は船体に破孔があったものの軽微だったが、最上を護衛しつつミッドウェーから西方に退避中に米軍機に捕捉され「三隈」攻撃が集中、爆弾が第3砲塔を直撃したのを皮切りに連続して爆撃を受け、船速が落ち停止、爆撃により艦上構造物は全壊、左舷後部機械室が爆破され船内に火災が発生し、船体が傾斜。総員退避後に沈没した。 なお、最上型が航空巡洋艦に改造されたのはミッドウェー海戦後のことなので、三隈は史実では航空巡洋艦に改造されていない。 起工:昭和6年12月24日 三菱重工長崎造船所 竣工:1935年8月29日 排水量:11200トン 全長:200.6m 水線長:198.3m 全幅:18.45m 喫水:6.15m 馬力:154,266PS 速力:35.96ノット 兵装:(新造時)三年式60口径15.5cm三連装砲×5基15門→三年式50口径20.3cm連装砲×5基10門、40口径12.7cm連装高角砲×4基8門、61cm3連装魚雷発射管×4基、25mm連装機銃×4基8門、13mm連装機銃×2基4門 水偵:4機、射出機×2基 乗員:930名(士官70、下士官兵860) 沈没:1942年6月5日 除籍:1942年8月10日 参拝したのはまだ『艦これ』が出る前だったので、純粋に三隈の艦内神社という理由での参拝。 ちなみに三隈はドロップしていないのである意味ドロップ祈願の記事うpだったりする。
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寺社仏閣・大分県(2)
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旧県社 延喜式内社:豊後国速見郡 火男火賣神社2座 (並小) 神紋:向鶴、折敷波三文字 祭神:伊弉諾命、伊弉冊命、火之加具土神、大山祇神 例祭日:10月10日 最寄の交通機関: 火男火賣神社は大分県では数少ない延喜式内社の一社で、別府温泉の一つ、別府市内の鉄輪(かんなわ)にある。 鶴見権現や火売神社と呼ばれることもある。 火男火賣神社の創始は不明ですが、別府市の北、別府温泉の源となる鶴見山(1375m)の男嶽・女嶽の山そのものを神格化した火男・火賣の2柱を古から祀っていたようで、『続日本後紀』の嘉祥2年(849)6月1日項には、祭神である火男・火売の2神に対して朝廷から(仁明天皇)従五位下を授けられたとあり、それ以前から鎮座していたことが分かります。 貞観9(867)1月20日にその鶴見山が噴火し、噴火による鳴動は3日間続き、降灰は数里の間に積った。この事は太宰府から朝廷(清和天皇)に報告され、同年4月3日に朝廷は豊後国司に命じて、火男・火賣の2神の怒りをやわらげるために神前で大般若経を読経し、8月16日に正五位下に列格。 延長5年(927)に完成した延喜式神名帳には、「豊後国速見郡 火男火賣神社二座 並小」との記載がある。 大分県(豊後国)の式内社としては、湯布院市の宇奈岐日女神社、竹田市の健男霜凝日子神社、大分市の豊後国一宮・西寒多神社、佐賀関町の早吸日女神社しかなく、平安時代の豊後国(大分県)のトップ4入りしていた名社でもある。 建治2年(1276)に、時宗の開祖・一遍上人が鶴見権現の教えによって鉄輪の石風呂(蒸風呂)を開いたといわれ、その際に境内の楠木に爪ぼりの六字の名号を残したと伝えられる。この時に、豊後国守護・大友頼康は上人に帰依して、温泉山松寿寺(現在の永福寺)建立。 天正年間(1573-1591)に、大友宗麟により当社殿は焼かれ、古文書等もすべて焼失。 文禄2年(1593)、大友氏が滅亡し、慶長6年2月に来島康親が伊予から玖珠郡森に入城し来島領(森藩)となった。 寛文4年(1664)3月、久留島通清が社殿を新築、文政元年(1818)10月、領主久留島通嘉公が社殿を新築した。 明治7年11月8日、神殿以下全社殿が焼失し、明治12年7月6日、県社に列格。明治14年には神殿を新築、拝殿を改築した。 神紋の折敷に波三文字は、恐らく伊予から転封となった来島家(久留島家)の家紋と同じで、氏神としていた大山祇神社も同じ神紋を使っている。 別府には航海訓練所の練習船・海王丸の運動上陸で訪れました。 その時に、鉄輪までの遠足があって、現地解散だったため、その足で近くの火男火賣神社に参拝。 鎮守の森に囲まれた静かな神社でした。 ちょうど参拝中に宮司さんが戻ってこられ、暑い中、御朱印をいただきました。ありがとうございました。 私はというと、その後鉄輪温泉で汗を流して一路別府市内へ。 |

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