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旧県社 神紋:十六弁菊 祭神:天照大御神、豊受比売神、大山咋神、大物主神、伊邪那岐神、伊邪那美神、高皇産霊神、天御中主神、神皇産霊神、大年神、経津主神、健甕槌神、御代御代皇御孫命 例祭日:10月17日、18日 最寄の交通機関:長崎電気軌道 大学病院前駅 徒歩5分 山王神社は、長崎県長崎市坂本にある神社で、長崎への原爆投下により片方の柱が吹き飛んだ片足鳥居や、被爆クスノキが有名。 山王神社は日吉神社と浦上皇大神宮の合祀された歴史を持つため、ここでは2社の歴史を記載する。 ・「日吉神社」 創建は寛永15年(1638)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた松平信綱がその帰途、近くを通りがかった際に、景色が近江の比叡山の麓に似て、地名も同じ坂本であることから山王権現を観請してはと語ったことから、長崎代官・末次平蔵茂房が長崎奉行と相談し、寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手。 当時は神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」として運営された。 元々は「山王権現社」つまり日吉大社を勧請したことで、祭神は大國主命 大山昨命 大年命とされた。 承応元年(1652)に現在地に遷座。 明治維新後に神仏混淆であったのが神社となり、明治元年(1868)に「日吉神社」と改称し、村社に列格される。 ・「浦上皇大神宮」 明治元年(1868)、長崎裁判所総督に就任した沢宣嘉が浦上のキリシタン事件等により、北部長崎市民に国体観念を養う必要を感じ、豊後町の島谷安昌氏の自己所有地を献奉し、翌2年3月に社殿竣工(現在の山里小学校)勅許を得て盛大に鎮座祭施工。 当初祭典及維持は官費により運営されたが明治5年(1872)に官祭停止となり、明治7年(1874)に県社に列格する。 同年8月、台風により大被害を受け、再建もできず春・秋の例祭を形だけ行なうだけの状態となり以後の運営も困難、廃社が検討されることとなった。 明治15年(1882)、廃社を検討されていることを知った氏子は日吉神社との合同大祭を行ない、 翌16年(1883)12月合併許可を得て、同17年(1884)1月8日遷御式を行ない両社が合併。「県社 浦上皇大神宮」となり、県社に列格された。 昭和20年(1945)8月9日、原爆投下により社殿・由来書・宝物などを焼失する共に、二の鳥居が半壊し現在の一本柱鳥居(片足鳥居)となる。一の鳥居は倒壊せず健在。 昭和37年(1962)、一の鳥居に乗用車が衝突し倒壊、撤去され現在まで再建されていない。 昭和63年(1988)、神社創建より350年の節目に弊殿を再建して、ほぼ旧来の姿に近くなった。 平成8年(1996)、環境省選定の「日本の音風景100選」の90番として「山王神社被爆クスノキ」が選ばれる。 「一本柱鳥居」(通称:片足鳥居)は爆心地から約800mにある長崎では数少ない被爆建造物。 原爆投下後、4つあった鳥居のうち一の鳥居は無傷で、二の鳥居は爆心地側の柱などが倒壊し、現在片方の柱と半分の笠石を残して立っている。 しかし、1962年に一の鳥居は交通事故により倒壊。当時は被爆遺構に対する関心が低かったため、撤去されたという。跡地には案内板が設置されている。 「山王神社の大クス」(被爆クスノキ)は山王神社の境内参道に、向かい合うようにして立つ2本のクスノキ。長崎市指定天然記念物に指定されている。 参道左にあるクスノキの幹の周りは8m、右は6mで、樹齢はそれぞれ500〜600年とみられる。幹周りと比べ、高さが10m未満と低いが、爆風により上部が欠損した名残である。 境内を通る風で起こる葉音は、1996年に環境省の「日本の音風景100選」にも選ばれた。 この被曝クスノキが、福山雅治『クスノキ』で歌われています。 私が最初に長崎を訪れたのは平成21年の4月、「長崎帆船まつり」に帆船海王丸に乗って来た時でした。 それまで広島・長崎の原爆が投下された都市には来たことがなかったので、原爆の惨禍を物語っているところに行こうと、ちょうど原爆資料館や爆心地を訪れた後にこの山王神社に参拝しました。 ちょうど今日は8月9日、この記事を書くには相応しいかなと思って書きました。
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寺社仏閣・長崎県(2)
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旧内務大臣指定護国神社、別表神社 神紋:十六八重菊に桜 祭神:長崎県出身の護国の英霊 60,810柱 例祭日:4月22日、10月26日 最寄の交通機関:長崎電鉄「松山町駅」 長崎縣護國神社は長崎市に鎮座する、戊辰戦争から大東亜戦争までの国に殉じた護国の英霊を祀る神社です。 平和公園を望む城山に建つ護國神社 明治2年(1869年)12月、初代長崎府知事・沢宣嘉により長崎市梅ヶ崎に社殿を創建し、戊辰戦争において戦死した長崎府振遠隊・鬼塚麟之助以下43柱の英霊を祀った「梅ヶ崎招魂社」。 そして台湾の役の戦没者、陸軍少尉・相良長賢以下536柱を長崎市西小島に「佐古招魂社」として祀ったのが始まり。 昭和14年(1939年)3月に、それぞれ「梅ヶ崎護國神社」「佐古護國神社」となった後に、社殿と境内拡張整備の声から、昭和17年(1942年)3月21日に両社を合併して「長崎縣護國神社」と改称して、昭和19年(1944年)10月に現在地の城山に社殿を造営した。 しかし、翌年の昭和20年(1945年)8月9日の原爆投下によって、爆心地から700m程しか離れていない護國神社は本殿をはじめ全て灰燼に帰してしまうものの御霊代は無事で、岩淵神社(長崎県西彼杵郡長与町斉藤郷77)に、そして大崎神社(市内本石灰町6番17号)に遷された後、昭和24年(1949年)1月22日に梅ヶ崎護国神社跡(梅ヶ崎天満宮)に仮遷座。 昭和37年4月に起工、翌38年10月25日に本殿遷座祭が執り行われました。 昭和41年7月には神社本庁の別表神社に指定、現在に至ります。 長崎原爆資料館には表面が黒く焦げてしまった護國神社の石が展示されています。 車だと神社の前まで行くことが出来るんですが、徒歩だと住宅街の中の長い階段を登っていくことになります。 神社の前からは、眼下に平和公園や浦上天主堂を望むことが出来ます。 御朱印いただくときに「からいも飴」を頂きました〜。 |
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