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住所:神奈川県横浜市西区中央1-13-1 (N35°27’18”,E139°37’12”) 延喜式内社:武蔵国都筑郡 杉山神社(小) 神紋:小槌 祭神:大己貴神 例祭日:5月15日 最寄の交通機関:京浜急行「戸部駅」下車徒歩7分 杉山神社は、神奈川県横浜市西区役所の北隣にある神社で、旧戸部村の鎮守だったことから、別名・戸部杉山神社とも呼ばれる。 また、横浜市内唯一の式内社「杉山神社」の論社の一つ。 杉山神社の創建は、白雉3年(652)3月20日、出雲大社の御分霊を祀ったのが始まりと言われています。 武蔵国・相模国には杉山神社が沢山鎮座していますが、戸部の杉山神社は延喜式神名帳に記載されている都筑郡・杉山神社の論社(可能性のある)のうちの一つです。 この杉山神社は古くから戸部村の鎮守として崇敬されていて、歴代の国守や地頭、代官からの崇敬も厚く、江戸時代には「杉山明神社」と称して幕府から朱印地が与えられていた。 それまでは神仏習合の関係で薬師如来を本地仏として祀っていましたが、明治時代に大己貴命を祭神と改めました。 現在の社殿は昭和31年(1956)の再建。 祭神の大国主命は須勢理姫(すせりひめ)に求婚に行った際に、須勢理姫の父の須佐之男命から色々な試練を受けて、その中で野原に打ち込んだ矢を探してくるというものがありました。 大国主命が野原に入ると周りから火をかけられ火の中に閉じ込められますが、ネズミの案内で穴の中に逃げ、打ち込まれた矢もねずみが探し出してくれて無事成功しました。 その後、ネズミが大国主命の使いになった事から、境内には珍しい狛ねずみが1対あります。 向かって右側がオス、左側がメスで、男性はオスに、女性はメスの狛ねずみに願い事をかけると良いらしいです。 乗船実習中の休日に横浜市内を散策してる時に桜木町から杉山神社に向かいました。 なぜ杉山神社に行こうと思った理由が思い出せないのですが、もしかしたら地図を眺めてて行こうと思ったのか…よく分かりません。 御朱印は境内の左手の授与所でいただきました。 字は小さいけれどとっても達筆!思わず嬉しくなりました。 なぜ小槌なのかと思ったら、大黒様だからか! |
寺社仏閣・神奈川県(4)
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神紋:抱き稲 祭神:[主祭神]宇迦御魂命 :[配祀]大己貴命、佐田彦命、大宮女命、事代主命 例祭日:5月5日、10月13日 最寄の交通機関: 佐助稲荷神社は神奈川県鎌倉市に鎮座する神社。 「麓にある下社。御朱印はこちらで頂く。」 「本社への入口」 佐助稲荷神社の創建年代は不明ですが、第82代・後鳥羽天皇の御代に源頼朝公の再建。 源頼朝公が伊豆国・蛭が小島に流されていた時、ある夜、気高き老翁が現われて、 「公は清和の嫡流にしてまさに天下統一すべし。早く義兵を起こして奢れる平氏を討滅し宸襟を安んじ給へ。我は鎌倉鎮座の稲荷の神なり。時節到来を告げ知らすなり。」という声と共に老翁は消えた。 頼朝公はそのお告げを不思議に感じていた折に、高倉宮以仁王からの平氏追討の宣旨を受け挙兵。壇ノ浦で平家を滅ぼし、征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開きました。 これひとえに稲荷神霊の加護のお陰と、佐介隠れ里の霊地に畠山重忠に命じて社殿を造営しました。 神社は頼朝の別名であった「佐殿」を助けたとの意味で「佐助稲荷」と名付けられた。 しかし頼朝公が死去した後は次第に神社は衰退していきます。 「拝殿」 「本殿」 時代は鎌倉中期の寛元年間(1243-1246)、鎌倉に蓮華寺(現在の光明寺)を創建した良忠上人(浄土宗第3祖)が、鎌倉の隠れ里の辺りを歩いていた時、子供達が1匹の子狐を殺そうとしていた所に出くわし、上人は深く憐んで、子供達をを諭してその子狐の命を救った所、その夜、上人の夢に白狐が現われ、 「我は佐介稲荷神霊の使者白狐なり。今日我が眷族まさに死命の折、尊師これを救い給う。高恩山海にも優れり。その万分にも報い奉らんとて稲荷神霊の神勅を伝え申すなり。即ち近く当国に病難起こり老若多く重い病に悩むべし。その折、尊師此の種子を地におろし、生うぜし葉を病人に与え給え。疫病忽ちに治すること疑いあるべからず。秘して衆民の救いとなし給え。」 と白狐が言い終わったところで夢が覚めた。 起きてみれば枕元に紙包みがあり、あけてみると中には種が入っており、上人は神から授かった霊種として秘蔵することにした。 程なくして付近一帯で痢病が流行し、多くの人々が病の床に伏し、薬も祈祷も効かなかった。 そこで上人は授かった種子を植えたところ、3日で長い葉を生じ、その葉を薬として使った所たちまち病は癒えたという。 人々は喜んで上人の徳を称えたものの、上人は「これは我が法力ではなく、佐介稲荷大明神から与えられた宝種のお陰、みな稲荷様を尊んでその恩に感謝しなさい」と。 その後、貴賎問わず崇敬を集め、上人は更に人々の力を借り社殿を再興し神社は復興する。 それ以来、佐助稲荷神社は商売繁盛、大漁満船、病魔退散の霊験あらたかとして人々に篤く崇敬されています。 「霊狐泉」 境内の脇から裏山へ散策道があるが、この入口にある苔むした石祠群がすばらしい。 その狐達のユニークさにも癒されます。 そして御朱印も素晴らしく達筆。 なお、この佐助稲荷神社をはじめ鎌倉近辺は、アニメ「エルフェンリート」の舞台になっています。
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旧官幣中社、建武中興十五社、単立神社 通称:大塔宮(おおとうのみや) 神紋:桜、十六弁八重菊 祭神:大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう、後醍醐天皇の第一皇子) 例祭日:8月20日 最寄の交通機関:JR横須賀線・江ノ島電鉄「鎌倉駅」から京浜急行バス「鎌倉宮(大塔宮)」バス停下車 鎌倉宮は、その名の通り神奈川県鎌倉市に鎮座する神社で旧官幣中社、建武の新政に功のあった人を祀る建武中興十五社の一社でもあります。 祭神は大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)。 護良親王は後醍醐天皇の第一皇子として延慶元年(1308)に生まれました。 嘉暦元年(1326)に出家して、嘉暦2年(1327)に比叡山延暦寺に入り、第163代天台座主(天台宗のトップ)となって尊雲法親王(そんうんほうしんのう)と呼ばれるようになりました。 その時代は鎌倉幕府の経済的衰退と北条家の独裁政治によって諸国の武士の間に不満が高まっていた頃でした。 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は民心を安定し天下を太平にするために、鎌倉幕府を打倒する計画を進めますが、密告によって時の執権・北条高時に知られてしまい、幕府方は京に軍を送ります。これが「元弘の乱」の始まり。 後醍醐天皇は京都のずーっと南にある笠置山に退避して倒幕の兵を募り、護良親王は還俗して比叡山で挙兵したほか、楠木正成をはじめとする武将が挙兵しますが、鎌倉方の勝利に終わり、笠置山は落城。後醍醐天皇は隠岐島へ流されます。 しかし、護良親王と楠木正成は潜伏して、翌年の元弘2年(1332)に護良親王は吉野で、楠木正成は千早城で挙兵。 護良親王は吉野で敗れてしまいますが、楠木正成が千早城で幕府軍を翻弄している間に、後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、現在の鳥取県から倒幕の綸旨を出します。 これに呼応して赤松円心が挙兵。そして幕府側が後醍醐天皇を討伐するために送った足利尊氏が天皇側へ寝返り京都を制圧、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を陥落させ幕府は滅びました。 その後、後醍醐天皇が建武の新政で護良親王は征夷大将軍・兵部卿となりますが、足利尊氏や、父の後醍醐天皇、その対立を影で仕組んでいたといわれる後醍醐天皇の側室・阿野廉子と対立し、建武元年(1334)、皇位の簒奪をもくろんでいると濡れ衣を着せられ、身柄を足利尊氏の弟・直義に預けられ鎌倉にある東光寺裏の土牢に幽閉されました。 建武2年(1335)に北条高時の子・時行が北条の復権のため鎌倉を攻め、足利直義はこれを防ぎきれず、護良親王を北条家が担ぐのを恐れたため、部下の淵部義博に命じて護良親王を殺させました。享年28歳でした。 それから530余年…。 明治天皇は護良親王の遺徳をしのんで、明治元年(1868)7月に京都聖護院村に神座を設けて護良親王を祀られ、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、 明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じ、同年6月14日に鎌倉宮の宮号が下賜、7月に現在地に社殿が造営されました。 明治6年(1873)4月16日に明治天皇が鎌倉宮を行幸され、同年6月9日には官幣中社に列格されました。 本殿の裏側へは300円を払って入ることになりますが、奥には護良親王のものと伝わる土牢があります。 実際の土牢は違う所にあったという説がありますが、親王は土牢に9ヶ月間閉じ込められていた事になります。 更に進むと、神苑があって、首塚などが残っています。 鎌倉宮を出て、脇の路を更に奥に進んで、途中で右に曲がると護良親王墓があります。 墓までは長くて苔むした石段をしばらく登っていくと玉垣に囲まれた御陵があります。 実は675年前の今日、8月12日(旧暦7月23日)は護良親王が薨去された日でもあるため追悼の意味を込めて記事をまとめました。 The 675th summer… これから3日ほど、今日は何の日がらみの寺社仏閣記事を書く予定です。
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住所:神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1 (三ツ沢公園内) 旧内務大臣指定護国神社 祭神:横浜市ゆかりの護国の英霊 21,898柱 例祭日:11月1日(横浜市戦没者追悼式) 最寄の交通機関:ブルーライン「三ツ沢上町」下車 横浜市神奈川区の三ツ沢公園の北東、その場所にあるのは「昭和二十年」と書かれた2本のコンクリート製の塔と安置堂だった。 全国で唯一「護國神社」がない県、『神奈川県』 「神奈川県護国神社」 現在、その社号の神社は存在しませんが、かつてほんの一時期だけ「神奈川県護国神社」が存在していた時期がありました。 昭和17年(1942年)7月、横浜市三ツ沢西町に「神奈川縣護國神社」を創建する計画が内務省から許可され、社殿の建設が始まり、昭和18年(1943年)11月に上棟祭が執り行われました。 しかし、鎮座祭目前の昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲により、建設中の社殿が焼失してしまい、そのまま終戦を迎えることになりました。 戦後、他の護國神社が再建奉賛会が結成され、再建に向け動く中、「神奈川縣護國神社」は竣工前に焼失したことから再建奉賛会が結成されず再建されることも無く、護国神社の土地は横浜市に譲渡され、横浜市は周辺の土地も確保して「三ツ沢公園」として整備され、昭和27年に、当時の横浜市長・平沼亮三が護國神社跡地に横浜市慰霊塔を建立。 翌年の昭和28年にはコンクリート製の2つの塔と安置堂が建立されました。 そのような経緯で神奈川県には現在県内出身者を祀る「護国神社」は存在しません。 各都道府県(※)に戦没者を追悼・顕彰する神社があるのに神奈川県だけに無いというのは残念でなりません。 (※)東京都にも「護国神社」は存在しないが、同じ護国神社に相当する神社として九段の「靖國神社」がある。 「安置堂」 現在、社殿が建っているはずの場所には殺風景な鉄筋コンクリート製の塔と安置堂があります。 途中で折れた左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しているらしい。 現在、参道の入り口にはテニスコートがあり、塔の前の広場では犬の散歩をする人や、サッカーや野球をする親子連れがいました。 別に広場で遊んだり犬の散歩をするなとは言いませんが、本来護國神社が建設される神聖な場所であって、なんか残念に思いました。 恐らく、かつて護國神社があった場所だとは誰も知らないんだろうし、慰霊塔や安置堂だって「なんか建ってるな」という感覚なんじゃないでしょうか。 見た感じ、そこに神霊が鎮まっているという感じも受けませんし、安置堂はともかく2つの塔が神社だった面影をぶち壊しています。地図上で見れば拝殿前の広い参道とか、確かに護國神社っぽいんですけどね。 戦後60年以上経ってこのままの状態で、説明板から受ける感じから言えばこのまま護國神社は建設されることはなさそうな感じがします。 毎年11月1日に横浜市戦没者追悼式が行われていますが、戦場に散っていった人に送るべきなのは「追悼」だけではなく、国や親兄弟を守るために命を捧げ、現在の日本を守ってくれた戦没者に対する「感謝」や「敬意」の心なのではないだろうか。 この慰霊塔や安置堂は、ただ追悼のためだけに作られた施設で、戦没者に対して感謝・敬意を表す施設としては不向きで、参拝するのに抵抗を覚えます。
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