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旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

書庫寺社仏閣・秋田県(6)

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真山神社 (しんざんじんじゃ)




旧県社

神紋:五本骨扇

祭神:[主祭神]真山大神、天津彦火瓊瓊杵命、武甕槌命
  :[合祀]天照大御神、豊受大神、豊玉毘女神、少彦名神、大山咋神、大名持神、塞神三柱神

例祭日:7月15、16日

最寄の交通機関:





真山神社は秋田県男鹿市に鎮座する神社で、有名な秋田のナマハゲはこの真山神社の神事でもある。



祭神については諸説があり、秋田市の古四王神社と同じ越君阿部氏の祖・大彦命という説や、漢の武帝という説もある。

現在は邇邇藝命・武甕槌命を祀る。(資料によっては真山大神も祭神としてある)



真山神社の創祀は、社伝によれば景行天皇の御代(71-130)に武内宿禰が勅を奉じて北陸地方諸国の視察した折、男鹿島に下向して湧出山(現在の真山)に登り、邇邇藝命・武甕槌命を祀ったことに始まると伝わる。

平安時代には仏教が伝わり貞観年間には慈覚大師円仁によって湧出山を二分し、北を真山、南を本山としたと伝わり、修験道が盛んになり天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。

南北朝時代になると明徳年間(1390-93)真山別当・赤神山遍照院光飯寺(こうぼうじ)が天台宗から真言宗へ変わり、奥州の豪族・安倍氏・清原氏・藤原氏の庇護の下で修験霊場として隆盛を誇った。

文禄4年(1595)領主・秋田実季は社領163石を寄進し、江戸時代になると国内十二社に指定され、領主・佐竹氏の祈願所にも定められ、久保田藩初代藩主・佐竹義宣は元和年中に社領100石、2代藩主・佐竹義隆は寛永18年(1774)に90石を寄進している。

明治維新に際し、別当の光飯寺は神職となり社名も赤神神社から真山神社と改称。明治5年(1872)郷社、明治14年県社に昇格した。



最初、車道に鳥居があって、しばらく進むと左手に駐車場、右手になまはげ館があり、更に奥に進むと真山神社の駐車場があります。

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最初に見えてくるのが仁王門。

仁王門の前にある手水舎も真冬なので凍りついていました。

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●仁王門

仁王門は江戸時代中期に作られたもので別当であった光飯寺の山門であったものが明治時代より神社の神門となったものです。

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仁王門の上には奉納された包丁が…

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仁王門をくぐると右手に授与所、左手に丸太船があります。

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「右手が授与所」

今回は友人との参拝だったのでゆっくり写真は撮れなかったので少なめ。

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さらに石段を登った先に拝殿があります。


●拝殿

拝殿は昭和34年に造営されたもので変則的な権現造りになっています。

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「真山神社・拝殿」

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「拝殿・扁額」

本殿は真山山頂に鎮座しているのでまだまだ登ることになります。



●柴灯祭

特殊神事として柴灯祭(せどまつり・1月3日)があり、秋田のなまはげとして有名。

正月3日に境内に柴灯を焚き上げ、この火によってあぶられた大餅をお山に鎮座する神に献ずるというもの。

なまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、平安時代の長治年間(1104-1106)より行われてきました。

雪の深々と降る厳寒の宵に斎行されるもので、その年の村内安全・五穀豊穣・大量満足・悪疫除去を祈ります。

特に神鬼に献じられた餅は護摩餅と称されて、災難除去の護符として氏子参詣者に下賜されます。

2月第二金・土・日曜にも「なまはげ柴灯祭り」が神社で行われます。



真山神社では1月と2月になまはげの神事が行われますが、男鹿半島の各家では大晦日の晩に、なまはげ行事が行われます。

なまはげの語源は「ナモミを剥ぐ」という言葉がなまったもので、ナモミとは囲炉裏に近づき過ぎてできる低温やけどの事で、それをはぎ取り、囲炉裏のそばで怠けている人間を戒めるのがなまはげです。


ちなみに授与所にはナマハゲのお面が置いてあり、自由に面を付けることができます。

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右手に包丁、左手に桶を持っていますが、これは包丁でナモミを剥ぎ、剥いだナモミを桶に入れるということから来ています。

授与所の前では上の説明をする巫女さんと、説明を聞くナマハゲの格好をした自分という一見シュールな光景が…。

巫女さん可愛かったです、ハイ。


ナマハゲは各集落の若者たちが面をつけて藁で編んだケデを身にまとい、威厳のある所作で氏子各家をまわり新しい年の幸福を祈るもの。男鹿のなまはげは「年の折り目に神が来臨して人々に祝福を与えるという古態をとどめ、我が国古来の民間信仰の一形態を示すもの」として、昭和53年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

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大館八幡神社 (おおだてはちまんじんじゃ)




神紋:

祭神:誉田別命、息長帯姫命

例祭日:4月29日、10月24日

最寄の交通機関:






大館八幡神社は、秋田県北東部の大館市に鎮座する神社。

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神社のある大館市は秋田県の北東部に位置し、江戸時代までは佐竹氏の領地で、津軽領・南部領と接する要害の地であった。

大館城初代の城代・小場義成(後の佐竹義成)は慶長7年(1602)常陸国小田より秋田に移封された佐竹義宣と共に移り、一時は安東家の本拠地であった檜山に居住し、慶長15年(1610)大館城が築城され大館に入った。

慶長15年に佐竹義成が大館城に入るや、祖宗以来、佐竹の守護神として崇敬した常陸国・太田八幡宮の神霊を城中に祀ったのが大館八幡宮の起源である。

大館城2代城主の佐竹義易は城中から現在地に万治元年(1658)9月に遷座し神殿の再建が図られた。

この神殿一対が流造の優雅な建築美、彫刻美、色彩美で他にも類を見ず、昭和44年3月に秋田県重要文化財として指定され、平成2年には国の重要文化財に指定されたものである。

実に320年前に建立されたもので、その建立年号も貴重な棟札が現存していることによって証明されている。

明治2年建立の鞘堂も朽ち、昭和32年神殿建立三百年を記念して市民の浄財により新たに四面を覆い後世への記念とした。

その後、第4代・佐竹義武が貞享4年(1687)現在地に遷し、神殿を創建したものである。

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神殿は現在鞘堂の中にあり、正面向かって左に「正八幡宮」、右に「若宮八幡宮」の二棟が並び建っている。

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両殿とも一間社流造、向拝一間、柿葺で、向拝に七曜文、牡丹唐草文、木鼻に牡丹(本宮)・若葉(若宮)を彫り、建立当初の姿を良く遺している。

この神殿は江戸時代前期の建築ながら蟇股・木鼻・虹梁などの細部の手法に桃山様式の遺風を伝え、華美に走らぬ彩色と共に、東北における洗練された流造の建物である。



境内には社務所と並んで大館八幡保育園がある。

社務所は恐らく宮司さん宅なのだと思われ、御朱印をいただきに行った所、いきなりだったため御朱印を探されたりとご迷惑くをお掛けしてしまった…。お茶まで頂いたし…m(_ _)m

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ちなみに個人的なことだが、自分の先祖は大館市(比内大葛)の出身なので、今度訪れた時はいろいろ調べてみたいと思う。

秋田縣護國神社 (あきたけんごこくじんじゃ)




旧内務大臣指定護国神社、別表神社

神紋:

祭神:護国の英霊38,000余柱、伊弉諾尊、伊弉冉尊

例祭日:4月29日、10月24日

最寄の交通機関:




秋田県護国神社は秋田県秋田市に鎮座する護国神社で、かつて出羽国府が置かれた秋田城跡に建つ。

戊辰戦争から現在に至るまでの県内出身者の英霊と伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っています。

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明治2年(1869)、秋田藩主・佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。

明治26年(1893)に焼失するが、明治32年(1899)に秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。

昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。

第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで「高清水宮」と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。

戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる。

平成2年(1990年)7月9日、即位の礼に反対する過激派により当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した(大嘗祭のための神饌を収獲する神田が秋田県内に選定されていたことが関係していると見られている)。しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。社殿は平成4年9月に再建された。

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護国神社らしい広い参道と境内に立派な拝殿。

だた、護国神社によく見られる左右に広がる拝殿ではなくて、御殿のような拝殿です。


秋田県護国神社には古四王神社の後に参拝。

当時は秋田県に大雨洪水警報が発令されている状態で、天気も暗め。

近くにある秋田城跡とその資料館を見学して高速道路で大館・鹿角に向かいました。


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御朱印は神職さんが墨書が下手だと恐縮しながら書いて下さったもの。丁寧であればイイのです。

老犬神社 (ろうけんじんじゃ)




神紋:不明

祭神:忠犬シロ

例祭日:旧4月17日

最寄の交通機関:




老犬神社は秋田県大館市の鹿角市との境界に近い葛原の森の中にある神社。

「犬」を祀っているユニークな神社です。

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「国道から外れた静かな田園地帯にある。」

老犬神社の由来は次のとおり。


江戸時代の中頃、南部領草木(現在の鹿角市草城か)に定六という又鬼(猟師)がいた。

この先祖は、源頼朝の富士の巻狩りの際、目覚しい働きによって全国通用の子孫永久又鬼免状巻物を頼朝公より拝領し、代々相伝している家柄であった。

その定六が、ある雪の朝、カモシカを近くの山で見つけ追いかけているうちにいつの間にか三戸城内まで入り込んでしまった。不運にも定六は、その時巻物を身につけていなかったので、囚われの身となってしまった。その時、猟の供をしていた犬が、もと来た道を引き返し引き返し、家にあった巻物を口にくわえ、飛ぶようにして三戸城内に戻ったが、定六はすでに処刑されていた。

定六の死後、妻は犬を連れて秋田領十二所館近くの葛原部落に移り住んだが、犬はその後、食を採らず、定六のあとを追って死んだ。

村人はその忠義の心に感じ、現在地に葬り祭った。


以上が神社にある説明文。


大館市のサイトには概ね同じだけど、祀られた経緯が「忠義」ではなくて、シロの定六を殺した武士への怨念を鎮めるためという神社の説明文とは若干違う書かれ方がされています。

どちらが正しいのかは分からないけれど、大館市のサイトのほうが詳しく書かれているので、こちらが実際の話しに近いのかもしれません。


神社はその後、社殿は昭和11年7月18日に火災により焼失してしまいましたが、現在は改築した社殿が建っています。




老犬神社に参拝した理由、それは以前に犬を祀った神社があるというのをネットで見つけてたというのと、「KEY THE METAL IDOL」というOVAに猯尾神社という設定で登場した神社のモデルかもしれないという理由でした。

ちょうど大館に父親の用事、自分は鹿角とか秋田に舞台探訪と神社参拝が目的で行ってきたわけですが、集落の裏山にある神社で、車の止められるスペースから社殿までは大人で5分くらいの上りです。道も悪い。

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おまけに、当日は大雨洪水警報が発令されてた日で、駐車場の手前の道の路肩が崩れてて、正味10分ちょっと登りました。

結構ネットで検索引っかかる割にはひっそりとした神社。集落のところに看板はあるけど一度道間違ったし、もし行くことがあれば事前に道を調べてから参拝することをおすすめします。

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それとこの神社は菅江真澄の紀行文にも記載されている神社らしいです。

菅江真澄は江戸時代後期に当時の蝦夷地の太田山神社まで歩いたという人ですが、この方は秋田の人。

お墓が秋田市の秋田城跡や古四王神社の近くの高清水にあります。

綴子神社 (つづれこじんじゃ)




旧村社

神紋:五三の竹、左三つ巴

祭神:[主祭神]八幡山大神(はちまんやまおおかみ)
    [配祀]天照皇大神、伊弉諾神、伊諾冊神、須佐之男神、少彦名神、火産霊神、大山祇神、水波能売神、豊受比売神、厳島姫神、鴨若雷神、日本武尊、神功皇后、崇徳天皇、三吉霊神、猿田彦神

例祭日:7月14日、15日

最寄の交通機関:






綴子神社は、秋田県北秋田市(旧鷹巣町)綴子に鎮座する神社で、八幡宮としては東北最古と言われ、中でも例大祭である綴子太鼓祭りは、ギネス認定の世界最大の太鼓を用いた祭りとして有名。

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社伝によれば斉明天皇5年(659)、朝廷の命令を受けた阿倍比羅夫将軍が蝦夷を治める為に、肉入籠(ししりこ・綴子の語源)に至って、戦勝祈願と北秋田地方の鎮護として、東日本では珍しく九州豊前国(大分県)の宇佐神宮から八幡大神を直接勧請し、地主神と併せ祀ったのが創建といわれています。

弘長2年(1262)以前、当社社家の初代である常覚院元瑞道亨(じょうかくいんげんずいどうきょう)が、浅利氏と共に近江国より派遣され、この地方の鎮護である綴子八幡宮を再興し旧綴子村開村。

国重文指定の胡桃館遺跡の信仰対象の神、田代山神社・七座神社の遥拝所としての機能も古くから持ち、時の武将・鎮将の八幡信仰は誠に篤く、近世には氏子崇敬者の篤い誠心により社殿・境内・諸施設とも整い、その畏き神恩無窮の大御光のまにまに、時代を問わず綴子郷中の氏子を始め、旧北秋田地方の総社として日本人の心の拠り所、心の故郷として篤く深く崇め奉られております。

平成21年には鎮座1,350年式年大祭奉祝事業が厳粛盛大に斎行されました。

綴子神社は古くは宇佐八幡宮・八幡宮と呼ばれていましたが、明治6年に村社に列格すると共に八幡神社と称し、明治43年に15社を合祀して現在の綴子神社と改称しました。

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御神木「千年桂」


綴子大太鼓祭りは、綴子神社の例大祭として毎年7月14日、15日の2日間行われます。

上町は葵の紋の徳川方、下町は千成瓢箪の纏を馬印とした豊臣方に分かれ一年交代で綴子神社に大太鼓を奉納します。

行列の順序は上町下町で多少異なりますが、露払いの太夫、棒使い、団旗、陣旗などから始まり獅子役、笛吹役、小太鼓、中太鼓、大太鼓、運搬役、世話役、指揮役と続きます。

神社についた後、今年を占う神事を執り行い、太夫の口上、獅子踊りなどが奉納され、子供たちも参加します。


大太鼓祭りは、今から約700年前の弘長2年(1262)ころから始まったと伝えられています。

当時の綴子村は灌漑用水の不足に悩んでいました。そのためあまごいのための神事として始まったと言われています。

さらに田植後の虫追い、五穀豊穣、豊年満作などの願いが込められています。

上町地区、下町地区に分けられるこの地区は先陣を争って奉納し、毎年けが人が耐えませんでした。そこで昭和初期から一年交代で奉納することになりましたが、太鼓の大きさを競い合うようになり、やがて昭和61年に下町が製作した直径3.71mの大太鼓が平成元年に世界一の大太鼓としてギネスに認定されました。

その後平成4年上町が直径3.80mの太鼓を製作し、ギネスに認定はされていませんが、こちらが世界一の大太鼓になっています。

なお、この大太鼓は祭りの時以外は、道の駅たかのすにある「大太鼓の館」に展示されています。

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参拝したのは平成22年7月末、ちょうど例年にない大雨の時で、秋田県内の川とかは結構危険水位まで上がってて、土砂災害が起きるんじゃないかと心配するほどでした。

参拝時、宮司さんは居られなかったようですが、貴重な話を聴くことができました。

帰り、傘を持参して無かった私に傘を貸してくださって、参道前の道路に停めていた車まで送って頂きました。その節は大変助かりました。ありがとうございました。

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