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旧・クモノカケラのブログです。道南から神社・お寺の御朱印情報などを二次元も絡めて発信します。

書庫寺社仏閣・山形県(5)

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湯殿山神社 (ゆどのさんじんじゃ)




旧県社、羽州山形七福神

神紋:左三つ巴

祭神:[主祭神]大山祇命,大名持命,少彦名命
  :[合祀]迦具土神,金山彦命,金山姫命

例祭日:

最寄の交通機関:





湯殿山神社は山形市旅籠町の旧県庁舎「文翔館」がある一角に鎮座する神社。

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明治9年、初代山形県令の三島通庸は、県庁舎の建設の地を山形市旅籠町の万日河原と定め、その地鎮祭を行うにあたり、田川郡湯殿山に鎮座する国幣小社・湯殿山本宮の口の宮本道寺湯殿山神社より分霊を勧請して旅籠町雁島に祭ったのが始まり。

現在「里之宮」と呼ばれているのも勧請元である湯殿山神社と区別するためと思います。

翌明治10年11月正面三層楼の洋風の県庁舎が完成開庁し、これに引き続き師範学校、警察本部、郡役所、銀行等々次々と建ち、雁島の湯殿山神社は、県庁のみならず山形中心部の鎮守と仰がれるようになった。

明治12年には県社に列せられ明治25年旅籠町の秋葉神社を合祀し、さらに後年黄金山神社を合祀、ますます信仰を集めてきた。またこの神社を鎮守と仰ぐ旅籠町の人々が、城下町山形の伝統ある「市神」を勧請して境内社として祭り、毎年初市には近郷近在からの参拝も多くなっていった。

明治44年山形の中心部から市北部一体にわたる大火のため、県庁、市役所、等々と運命をともにして類焼し、その本殿が仮拝殿とともに新たに完成したのは大正4年、拝殿が完工したのは、昭和11年であった。

昭和54年9月山形市より新庁舎建築のため湯殿山神社移転の要請があり、同年11月これを受け入れることとなった。55年11月湯殿山神社移転建設委員会が発足、56年9月地鎮祭が行われ、着工以来1年7ケ月現在地に新社殿及び社務所参集殿、末社市神神社、神門の造営が完成した。

このように、初め山形県庁の鎮守として勧請建立された神社であったが、いつとはなしにこの地方民衆の崇敬するところとなり、今や県都山形の鎮守として仰がれ崇敬されるようになった。



市神神社 (いちがみじんじゃ)

祭神:八重事代主命


社殿の右隣には境内末社の市神神社(市神えびす神社)が鎮座しています。

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御朱印は携帯左手の社務所で頂きました。

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私が御朱印をお願いしてから受け取るまで、一挙手一投足がとてもきっちり丁寧な男の神職さんでした。

墨書を見てもキレイでしょ?



神社がある区画には旧県庁舎の「文翔館」が建っています。

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旧県庁舎と県会議事堂はルネサンス様式を基調とした建物で、大正5年6月に完成し、現在は国の重要文化財に指定されています。

ちなみに…

この「文翔館」はオーガストから発売されたPCゲーム『FORTUNE ARTERIAL』で背景カットとして登場します。

山形だから「FORTUNE "ATERAZAWA"」かなとか思ったり思わなかったり…。

上杉神社 (うえすぎじんじゃ)




旧別格官幣社、別表神社

神紋:竹に飛び雀

祭神:上杉謙信

例祭日:

最寄の交通手段:山形新幹線「米沢駅」下車




上杉神社は山形県米沢市の米沢城跡に鎮座する神社で、上杉謙信を祀る。

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「上杉謙信像」

上杉神社の境内には謙信公や「天地人」の上杉景勝・直江兼続の像、そして「為せば成る」で有名な上杉鷹山公の像が建っているけど、上杉神社の祭神は上杉謙信の一柱のみで、上杉鷹山・上杉景勝・直江兼続は近くの松岬神社に祀られている。

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「上杉景勝(左)と直江兼続像(右)」

上杉景勝と直江兼続の銅像は「天地人」の絡み。

見た感じ北村一輝・妻夫木聡に似せてきている気がします。

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「上杉鷹山像」

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「春日神社」


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「米沢城跡」

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山形縣護國神社 (やまがたけんごこくじんじゃ)




旧内務大臣指定護国神社、別表神社

神紋:剣桜に県章

祭神:護国之大神(ごこくのおおかみ)40,845柱、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)

例祭日:5月11日、11月2日

最寄の交通手段:JR「北山形駅」下車、徒歩15分




山形県護国神社は山形県山形市にある護国神社で、明治維新から第二次世界大戦までの山形県内出身の英霊4万余柱を祀る。

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明治2年(1869)1月、山形市八日町に戊辰戦争の際に戦死した薩摩藩大砲長・久永竜助以下10柱を慰霊のため創祀。

明治8年6月に山形招魂社となり、9月20日を例祭日と定める。明治22年(1889)10月に山形市宮町に遷座、明治44年(1911)の山形市大火の際に社殿を焼失するも、大正3年(1914)3月に再建された。

昭和8年3月(1933)に山形県招魂社と改称し、昭和9年(1934)千歳公園内の現在地に遷座した。昭和14年(1939)の制度改革により内務大臣指定護国神社となり、山形県護国神社と改称。

戦後、GHQ占領下の昭和22年(1947)から所在地の千歳公園に因んで「千歳宮」と改称し、昭和27年12月に再び山形県護国神社の社名に復帰。

昭和28年5月に、神社本庁の別表神社に指定され、平成6年9月に拝殿を改築。

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終戦の日というわけで参拝の代わりに護国神社の記事を…

こちらは山形市中心部から北東に少し行った千歳公園に鎮座する山形県護国神社。

広くすっきりとした護国神社らしい神社です。新築された拝殿は他の護国神社の造りと違う御殿のような感じ。

ここには山形県神社庁もあって、同じ千歳公園には出羽国分寺薬師堂もあります。

国分寺といえば国府の近くに大抵あるんですが、出羽国府は秋田から酒田に移って、そして山形に来たらしいです。

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「神紋の『剣桜に県章』。山の字を図案化したものらしいけど現在の県章とは別なので多分昔の県章だと思う」

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「山形県招魂社の石柱」

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「境内末社の敷島神社。御祭神は天照坐皇大御神。本殿にも合祀されてる」

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「『祈り』のモニュメント。浦安の舞を舞う巫女さんであります」

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「御朱印。「縣」と「國」であればもっとかっこよくなるのだけど…」


あと護国神社から川沿いに北上してたときに見かけた写真やさんの看板が気になったので…

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ちなみにこの後、鳥海月山両所宮へ行きました。駅前とか何カ所かで借りれるレンタサイクルが無料なのでかなり便利です。

鳥海月山両所宮 (ちょうかいがっさんりょうしょぐう)




旧県社、別表神社

神紋:笹竜胆

祭神:倉稲魂命、月夜見命

例祭日:8月1日

最寄の交通手段:JR「北山形駅」下車、徒歩15分




鳥海月山両所宮は、山形県山形市にある神社で神社本庁の別表神社。

別名・「吉事宮」「武門吉事宮」とも呼ばれ、鳥海山(大物忌神社)の倉稲魂命と、月山の月夜見命の二柱を祀る。




康平年間(1058-1064)に、源頼義と子である源義家が安倍貞任討伐(前九年の役)の際に、飽海郡吹浦の鳥海山両所神社(現在の鳥海山大物忌神社)で戦勝を祈願して勝利し、康平6年(1063)1月18日、その報賽として山形に社殿を造営して分霊を勧請し一万石を寄進、国家泰平・武門吉事の神と称したのに始まる。

その後、平安時代末期の承安年間、源義経が宝沢村炭焼藤太の子・吉次信高に宮殿及び楼門、回廊、鳥居、玉垣を再建し、鎌倉幕府執権・北条氏も同じく修造し、元弘の変(1331)の後は、出羽国司がこれを営む。

天正19年(1591)2月、山形領主・最上義光は、従来の祠官を廃して山形城二の丸にあった寺・真言宗成就院を神社の参道西側に移築・別当とし社領1000余石を寄進して最上家の祈願所とし、文禄4年(1595)に義光が1150石を寄進し社殿を造営、慶長5年(1600)にも社殿を修理して神社は壮麗を極めた。

その後慶安元年(1648)には江戸幕府から689石の御朱印社領を賜り、成就院及び社人に配当し226石を寺領とするなど、江戸時代には山形藩主代々の最上氏・鳥居氏・水野氏や、幕府からも崇敬を受けた。

明治になり神仏分離令により成就院は廃寺となり社領も没収されるなどの憂い目に遭ったが、明治6年(1873)5月に郷社に列し、明治12年8月に県社に昇格。昭和36年(1961)には神社本庁の別表神社に列格され、現在に至るまで山形市北部の総鎮守として崇敬されています。


神社は南向きに建っていて、随神門、幣拝殿、そして西側に月山宮本殿、東側に鳥海宮本殿が並んで建っています。


・随神門 (市文化財指定)

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天明元年(1781)、両所宮社人・佐藤長太夫の寄進と言われ、元々寺の山門の仁王門で左右に仁王像が安置されていて、明治の神仏分離の際に国分寺薬師堂に移し、新たに左大臣右大臣を安置したため現在は随神門と呼ばれている。

天井には郷土画家の藤澤祐川の筆による鳳凰・麒麟が描かれ、市の有形文化財に指定されている。


・幣拝殿 (市文化財指定)

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元々、現在の幣拝殿の場所には鳥海宮・月山宮の両本殿と、となりに城輪神社というように三社が並ぶように建っていましたが、昭和元年(1926)に神社の祭典、参拝者の便を図るため、鳥海・月山の両本殿を奥に移動し、翌昭和2年に建造されました。


・鳥海宮・月山宮本殿 (市文化財指定)

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鳥海・月山の二社共に4坪の春日造銅板葺きの本殿で、寛政12年(1800)修復の棟札が保存されている。

当初は鳥海・月山・城輪と三社同列に鎮座していたが、昭和元年(1926)に幣拝殿新築のために現在地に移動鎮座している。
幣拝殿の東隣には山形県内最古の木造建築物の摂社・城輪神社が建っています。


・城輪神社 (市文化財指定)

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境内摂社の城輪神社は山形県内最古の社殿で本殿と同じ春日造の社殿。桃山時代初期の天正7年(1579)の建築で、江戸時代に改造はされているものの、柱や蟇股・木鼻など建築当初のものが随所に残されています。


・金井水と休石

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延文元年(1356)、山形城の始祖・斯波兼頼が入部したのは、羽州最上郡金井荘城輪の里とされているが、平安時代、宝沢村に炭焼藤太という長者がおり、その子・吉次というものがおり、彼は鉱山師であったので、金売吉次と呼ばれていた。

藤太親子がこの泉で金を洗ったので「金井水」と称するようになり、それからこの辺一帯を金井荘と呼ぶようになったといわれる。

この金井水の脇に、かつて炭焼藤太が寒河江方面を往来するときによく休んでいたという休石がある。


・弁天池

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金井水の泉が流れて作るこの池は中島に弁財天を祀るところより弁天池と呼んでいるが、昔、前九年の役の時、源頼義の家臣で鎌倉権五郎景政という剛勇の士が片目に弓の矢を受けたが、その矢を抜かずにこの池までたどり着き、ここではじめて矢を抜き取って目を洗ったのでこの池に住む魚も片目になったという伝説がある。

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なお、弁天池には厳島神社、水神社、菅原神社、豊受稲荷神社、日枝神社が鎮座しています。


・愛宕神社、若宮八幡神社、熊野神社

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末社の3社は、第60回式年遷宮の檜の下賜材によって建てられています。

境内の東側に写真のとおりに並んでいます。



特殊神事として「穀様し(ごくだめし)」がある。

全国でも珍しい作占い神事で、米飯・稲穂・粟穂・茄子・胡瓜・大角豆の神饌を旧暦7月1日早朝に紙に包んで土中に埋め、翌年の旧暦6月末日に掘り出して、その腐敗の度合によって豊凶を占うものです。

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豐烈神社 (ほうれつじんじゃ)




旧村社

神紋:水野沢瀉

祭神:[主祭神]水野忠元
  :[合祀]水野忠邦、大山祇命、素盞雄命、明治維新殉難者24柱、倉稲魂姫命

例祭日:10月6日

最寄の交通手段:JR「山形駅」下車、徒歩10分




豊烈神社は山形県山形市の桜町に鎮座する神社で、山形藩水野家の藩祖・水野忠元(みずのただもと)を祀る。

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元々、この豊烈神社は文政4年(1821)年に、天保の改革で有名な老中・水野忠邦が藩祖である水野忠元を領地であった遠江国浜松城内に祀り、朝廷から豊烈霊神の称号を賜ったのが起源です。

その後、失脚した忠邦は減封され、家督を長男の水野忠精(みずのただきよ)に譲ったすぐあとに出羽国山形藩へ転封となり、弘化5年(1848)、山形城二の丸に豊烈神社も遷座しました。これが現在の豊烈神社の創祀です。

戊辰戦争の時に山形藩は当初新政府側に付いていましたが、会津救済の嘆願を握りつぶし「奥州皆敵」と武力討伐しようとした薩長軍の参謀・世良修蔵に憤慨した仙台・米沢両藩に呼応して奥羽列藩同盟に加盟し新政府軍と戦うも奥羽列藩の相次ぐ降伏により山形藩も降伏。その責任を取り、筆頭家老・水野元宣が刑死。

藩主・水野忠弘も明治3年(1870)に、近江国朝日山藩(滋賀県長浜市湖北町)へ移封となり、豊烈神社は下総国山川藩(茨城県結城市)に遷座しました。

ちなみにこの山川藩は祭神である水野忠元が初代藩主で、水野家代々の墓所(11代・忠邦まで)もこの地にあるという関係があります。

明治13年(1880)、水野家の旧藩士が豊烈神社の御分霊を勧請し、現在地に豊烈神社を建立して香澄町(旧三の丸内)の氏神となります。

明治35年(1902)、戊辰戦争の際に藩主の代わりに藩政を取り仕切り、新政府から反逆罪で刑死した首席家老・水野元宣の銅像を建立。

明治41年(1908)、神社庁令により、香澄町地内各所に鎮座していた八坂神社・稲荷神社・山神社を合祀。

大正2年(1913)、茨城県結城市山川にあった本社を山形の豊烈神社へ遷座併合する。

大正10年(1921)、中興の祖・水野忠邦(英烈霊神)を合祀する。

昭和3年(1928)、神輿を新調し、昭和5年神輿蔵建設。

昭和18年(1943)、水野元宣銅像は戦争のため供出、昭和21年に現在の塑像建立。

昭和30年(1955)、明治維新に際し山形市を戦火から救った水野元信、山形防衛戦で戦死した大久保知敬以下23柱を合祀。

昭和33年(1958)、香澄稲荷神社を境内に建立、本殿から分祀する。

昭和56年(1981)、本殿改築工事落成し現在に至る。



参道入口にある銅像は山形藩の首席家老・水野元宣の像です。

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以下、説明文。

水野元宣は天保14年(1843)遠州浜松で生まれ、藩主の国替えにより弘化3年、4歳の時に山形に移住し、22歳で家老職、明治維新の際には若干26歳で首席家老を務め、藩主が京都で不在のため山形藩の藩政は元宣の腕にかかっていました。

慶応4年の春、薩長軍が仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うための苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。

山形藩は当初官軍に付いたが薩長軍の参謀・世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台・米沢両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかしまもなく各藩相次いて降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。

翌明治2年5月20日、藩の責任を一身に負い27歳を最後に長源寺庭において刑死した。

明治維新当時の山形藩は5万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板挟みにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。

明治維新改革後、山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。

元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治34年銅像を建立したのであるが、昭和18年、第二次世界大戦完遂のため供出されたので、昭和21年に郷土の彫刻家・服部午山の作による現在の塑像が再建されたのである。



神社としては珍しく、拝殿の中に授与所がある神社で、ちょうど参拝した時は運悪く御朱印が修理中ということで頂けなかった…。

ちなみにこの豊烈神社は山形藩最後の藩主である水野家ゆかりの神社だけど、山形は元はといえば最上家の領地。

その後は幕府直轄地になったり幕府要人の左遷地だったり(水野家もその一例)したわけだけど、山形藩初代の最上義光を祀る神社は全くないという…。

江戸時代初期の東北地方の大名では多分唯一祭神になってないのではないかなと…。(津軽為信・南部信直・佐竹・伊達とか祭神になっている神社はある)

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高倉伽月
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