論理非論理綴り帳 怒髪天突き運動ただ今冬眠中

物言わぬは腹ふくるるわざなり。かたじけなく存じ候。上総介上総。只今、積年の「無題」を新ファイルへ整理中、追い付かずござ候。

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三億円事件発生から11日後に、あの有名な白バイ警官姿のモンタージュ写真が公開された。
その秘密が、暴かれるのは、十二年後の1980年のことである。
事件から、四ヶ月後、犯行現場から目と鼻の先の団地の駐車場から、カローラが見つかり、中から空のジュラルミンケースが三個、発見された。

発見したのは、営業に来ていた25歳の車の営業マンで、汚い幌を被せて置かれていた車を見つけ、カローラじゃないか、何年式だとめくって見ると、中にジュラルミンのケースが見えた。
これは、三億円事件ではないかと通報した。
そのTさんは、番組で四十年ぶりに、現場を訪れている。

ずさんな捜査への批判が高まった。
高田渡の「三億円強奪事件の歌」など、皮肉る歌が歌われ、若者の間には、犯人をもてはやす風潮さえ、広がった。
時あたかも、全共闘全盛の時代、全国の大学で学園紛争が起こり、怒れる団塊の世代の多くの若者が、学園で街頭で、闘いを繰り広げていた。

キャリアの上司に向かって「こっちは、ホシを挙げるのに、そっちは、肩の星ばかり、気にかけてんじゃねえのか」と啖呵を切る、平塚八兵衛さんの登場である。
1969年、昭和44年4月2日。
他人の捜査は信用しない、平塚は一から捜査をし直す。

実は、平塚は、単独犯行説であったが、斉藤刑事は、複数犯行説であった。
平塚は、斉藤刑事に、少年Aの調べを続けるように命ずる。
斉藤刑事「Aの犯行当日と、それに絡む日々のアリバイが取れないんです」

11月19日、犯行に使ったオートバイが盗まれた日
11月30日、見張り用のカローラが盗まれた日
12月 5日、逃走用のカローラが盗まれた日
12月10日、犯行当日、朝五時以降のアリバイ。

「現金輸送車を襲撃する計画」「東芝、日立の金庫を狙う」とAは仲間に話していた。

平塚が、少年Aの父親の白バイ小隊長と向き合ったのは、事件から五ヶ月近く経ってからのことである。
昭和44年5月1日、「あんたの息子がやったのか?」 「今日は、(ブツを)出してもらう」と平塚は、父親を取り調べで説得する。
父親は、やっと重い口を開いた。

「青酸カリは、天井裏にある」
斉藤「天井の板を左にやってね、その右側に、新聞紙にくるまれた青酸カリが、五百グラム出てきた」 取り調べで、警察を辞めると言う父親に対して、平塚はその必要はないと制止したという。
それを鑑識に出すと、新聞紙からは、父親の左手の親指の指紋だけが検出され、Aの指紋はみつからなかった。

それでも、斉藤刑事は「私はね、そこまで考えたくないんです。父親がね、そこまで持ってきて、置いたのをね、父親がそこから取り出してね、それを置いたってことは、これを飲んで死ねってことと同じなんですよ」

平塚は、Aは白だと判断した。とても19歳の少年が一人で、やれるような犯行ではなく、Aのアリバイがあると見ていた。
これに対して、斉藤刑事は、Aが犯行前夜から仲間の新宿のYの所に泊まっていたというアリバイを疑問視した。「アリバイが取れない。確実なアリバイではない」

三億円事件の八ヶ月前から、農協に対して、現金150万円から400万円を要求する、脅迫状が五回にわたって届いた。その二回目の4月25日、Aは鑑別所にいて、その犯行は実行不能だった。
斉藤刑事は、別の共犯、黒幕の存在を確信していた。

刑事一代のドラマでも、行き詰まった平塚が、「無駄だ。もうこんな役に立たないモンタージュ写真は、破棄しろと」怒る場面があった。受け容れられるべくもなかった。
無理もない、これは、非常に奥の深い作り事だったようだ。
それを指摘したのが、事件から十二年後の、1980年、昭和55年8月号の文藝春秋だった。

そのモンタージュ写真は、実在するある男の顔をほとんどそのままに、借用して作られた物だというのだ。
別の番組でも、このモンタージュ写真は、「未解決の」三億円事件にかこつけて、多摩地区はじめ暴れていた学生や、過激派を取り締まるための、しらみ潰しのアパート戸別訪問捜査に、活用されたと指摘されている。

平塚八兵衛が、捜査本部に迎えられたのは、事件後四ヶ月近く経ってのことである。
その役割は何だったのだろう。
あの五日後に、この犯罪は事実上、終わっていた。
始末をした父親を含めて、不問とした。
最高上層部の判断で、騒ぎ立つ騒然たる世間の手前、身内関係の犯行、これだけは絶対にあってはならないと、協力にねじ込んで蓋をしてしまったのだろう。

「Aからは手を引け、上層部が預かる」
「何故ですか」
「上の考えだ」
署長と斉藤刑事のこのやりとりが、全てだっただろう。

その事情を平塚は、知らされてはいまい。
捜査の感に狂いが生じていたのか、単独説に基づいて、独自の細部にわたる綿密な捜査を展開するが、空しく行き詰まるばかりだった。
最大数の199人から16人に縮小されていった捜査本部の人員、それでも、捜査の神様と言われた平塚八兵衛を投じて、警察は一生懸命やっている、やったという弁明に使われたのではないか。

「全部ムダ、何にも出ない」と空しく話す斉藤元刑事の言葉に尽きるようだ。


番組は、Aが「前夜から泊まっていた」というYを求めて新宿に行く。
「シロー」という店は、「志ろう」という居酒屋になっていた。
現在の経営者は、弟のMさんで、かつては、兄が経営していたのだという。

新宿には、当時のYを知る女性たちが、まだいた。シローはたまり場で、YもAも集まっていたという。
甲女は、「Aが警察の息子だとは、夢にも思わなかったわ。
Yは、そのへんのおっさんが化粧しているような感じの人だったという。
二丁目風の男なのだろうか。

「Yがマンション買ったけど、お茶のみに来ないって言われて、麻布に今で言う、億ション。
入って、左側に日本庭園を通って、行ったのよ」

乙女「Yは、それまでは、一生懸命店に出て、貧しくしてやってたんだけど、それが三億円事件の後に、出てこなくなった。
三億円の金がYの所に行ったって、話していたのよ」

Yの暮らしぶりは、顕著な違いを見せた。
丙女「四谷に土地を買ったって、随分、稼いだと」
丁女「あの事件の後、歌舞伎町からいなくなって、ハワイのコンドミニアムを買ったから、あんたも買えばって。お金を向こうの銀行に預けて置くと、何年かして永住権が取れるって」

番組は、ホノルルヘ飛び、三十五年前にYが購入した物件の登記記録を突き止めた。
当時、40万ドルから50万ドルしたという。
ニクソンショック後で、プラザ合意にはまだ遠く、一ドル300円の時代だろう。
1億2千万円から、1億5千万円である。
バブル遙か前で、当時は日本人で買える人は、まずいない時代だったと、現地の不動産関係者は言う。

登記簿には、「1974年8月29日」Yのサインがあった。
七年の時効まで、一年三ヶ月半、前の時期である。
日本は石油ショック後のインフレで経済大混乱の頃だ。
スタッフは、いよいよ、そのマンションへ乗り込んだ。
だが、そこはもぬけの殻だった。
いつ、Yがそこを離れたのか、触れられていない。

斉藤元刑事は、この番組で初めて、Yのその後の動向を知ったのだろうと思う。
誰もその後のYを追う者がいなかったのか。
全くお構いなしに、四十年間を、過ごしてきたのか。
今も、同じホノルルに住んでいるのだろうか。

今日も、ダイヤモンドヘッドを眺めているのだろうか。
斉藤元刑事とYとの再びの対面が、実現できないものか。

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かたじけのうございます。

2015/10/12(月) 午後 2:33 [ kaz**ano*ukeka*usa ] 返信する

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