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2014年7月31日、NHK・BSの英雄たちの選択が拡大版で、再び関が原の戦いを取り上げた。
この所、どちらかが代わる代わるに登場していた女性心理学者も揃い踏みした。
いつもより余計に出ています。
六人の論者が両陣営に分かれて語らうというスタイルだ。
家康派には、関が原論には欠かせない笠谷和比古氏、このーが口癖の宮崎評論家、中野信子さん。
対する三成派は、歴史よろず物知りの加来耕三さん、哲学者の萱野稔人氏、植木理恵さんである。
一般には、家康が勝つべくして勝ったと思われがちな関が原の戦いを、実は家康は窮地に陥っていたという事実を冒頭から紹介した。
白峰旬教授の新説、毛利石田連合政権樹立、内府(家康)違いの条々の発布で、石田方は公儀性、正統性を獲得し、家康は賊軍になっていたと冒頭のナレーションで前振りしていた。
三成と毛利輝元には、前年の慶長四年に、家康打倒の軍事同盟の密約があったことを光成順治氏が指摘する。三成が家康打倒の出兵計画を呼びかけ、これに輝元が応じたものだ。
しかし、このときは家康が大阪城にのさばっていて、現実性を持たなかった。
6月18日、会津討伐に大阪を離れた家康の不在を好機として、佐和山城に蟄居する身の三成は、7月12日に安国寺恵ケイらと会合、毛利輝元を総大将として家康打倒の兵を挙げることに合意。17日には輝元が大阪城西の丸に入城した。
ここで、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家と長塚正家、増田長盛、前田玄以の三奉行が署名した家康違いの条々が発せられる。
これに呼応して西軍9万5千が大阪城に終結、7月19日には家康の拠点伏見城を攻撃し、東西決戦が始まった。
植村理恵殿は、ビッグファイブという性格判断の表を示す。
縦軸には内向的か外交的か、横軸には情緒安定化、情緒不安定化があり、その中央、真ん中にはアベレージという区分けがされている。
家康は内向的で情緒安定、CALM(カーム)という枠、石田三成は外交的で情緒安定型で、ディレクター、指導者型だという。
家康は自分のルールに基づいて動く、ルールは自分の腹の中にあるというタイプで、三成は、ルールを外に打ち立てて、基準を外に示すタイプだという。
三成が正義、正統性を掲げて、家康の違背を糾弾して立ち上がった手腕を評価する者あり。
正統性が迷っている人を引き付ける効果ありと。
三成は他案なる官僚ではなく、局面創出力があると司会役の磯田氏。
長い物に巻かれろではなく、国家を見据える三成こそ官僚の見本だと加来氏。
7月24日、小山評定。石田毛利軍の動向を知った家康討伐軍が、福島正則の先導で、豊臣恩顧の武将たち、一致してお見方致すと約束して兵を引き返すことになった重要な会議。
この時にはまだ、家康の正統性を失わしめる家康違いの条々が知らされてなかったことをかつて指摘したのは、笠谷先生だ。
江戸に戻ったが、動くに動けなかった家康。その背信者扱いにされた新しい状況の下でも、福島、細川、浅野、黒田らは家康支持と言ってくれるのか。
彼らを先発させたが、確証も持てず、出来ることは全国の武将たちに領地安堵、領地配りの書状を書きまくる人参作戦に徹するほかなかったのだろう。
8月14日、福島ら先発隊四万が清洲城に至る。
その前の8月11日に三成は大垣城に入っていた。
三成の書状には、家康は会津や関東の大名に包囲されている。もし二万ばかりの兵でやってきても、尾張、三河の間で討ち取ると自信にあふれたものがあるという。
福島らは、やってこない家康に痺れを切らし、われらを捨石にする気かとなじる。家康は各々方が戦い始めれば、行動し始めると、まずは態度で示せよと応じる。
これに発奮したのか、福島らはわずか半日で岐阜城を陥落させる。
家康は、秀忠に三万八千の兵を持たせて、中仙道を向かわせる。
この岐阜城陥落は、石田方の誤算だったという。
尾張三河の間でなどという場合ではなくなった。
勢い付いた福島らは、三成の大垣城からわずか四キロばかりの美濃赤坂に布陣した。
家康が江戸を出発するのは、九月一日である。十一日に清洲城に入った。
石田三成は、長期戦を想定していたのだという。
伏見城攻撃から兵を分散して近畿各所で戦いをしてきたが、なぜ、この時に兵を集中して福島四万を潰さなかったのかということだ。
家康の不在を好機として、先発隊に先制攻撃しなかったのか。
皆さんお揃いでと総大将の到着を待たねば、天下分け目の戦いの形にならないと考えたわけではあるまいに。
長期戦?想定で、みすみす窮地に陥った家康の調略工作による挽回の時間を稼がせてやったようなものではないか。
内通した南宮山の毛利勢動かず、背後を突かず、松尾山の小早川秀秋への前日の期限付き関白人参も効を奏さず、更なる押さえとなるべき四軍の連動の裏切りで奮闘空しく壊滅した石田軍。
黒田官兵衛のなきぞ悲しき石田かな。
秀頼の出馬あれば、戦にもならなかったという。
豊臣恩顧の武将たちの士気が失せる。
ならば、秀吉の千成瓢箪の旗なり、豊臣印の錦の御旗を千本でも作って掲げればよかった。
毛利の旗二十本を貰い受けて、明智光秀との山崎の合戦に挑んだ官兵衛の策略をまねればよかった。
そのような謀略事を潔しとしない真面目な人だったのか。
家康の謀略性、たぬき根性とは天と地の人だったのか。
嘘でも、秀頼公大阪よりご出馬と兵に口々に叫ばせれば良かったのだ。
違う日本が見たかったという思いがある。この点、加来耕三さんに共鳴する。
せめて、石田方勝利のその後のそのシュミレーションが見たい。
磯田教授の三成は江戸幕府体制構築の触媒になったという指摘は面白い。
もし、三成が佐和山で大人しく寝た振りをしていれば、家康はすぐにあからさまに秀頼を圧迫することも出来ずに、きれいな江戸幕府ができたかは疑問だという。
御意。三成の挙兵による敗北で豊臣の半分が潰れたわけで、これがなければ、豊臣恩顧の勢力は残存する。秀吉なき後、三成暗殺を企てた福島、清正らから三成を家康が守ったのは、ここで死なれては、豊臣つぶしに必要な頭目を失うからだという話もあった。
しかし、これもたら、れば話で、正義、公儀、豊臣家に強い思いを抱く三成は、秀頼のこと返す返すお頼み申し候、わかりましたという約束に反し、死後さっそくこれに違背し、我が物顔で専横振りをあからさまにした家康が許せなかったのだろう。
人は見て見ぬ振りしても、我は許さんという熱い思いがあったのだろう。
義を見てせざるは勇なきなり。真っ直ぐな人だったのだろう。
大した人物だ。
もし松尾山の一万余りの小早川秀秋が石田方に参戦したら?というシュミレーション、これはいだたけない。
これをしった家康はすぐに兵を引いて、一週間後に再戦となり、ここには遅参した徳川主力部隊の秀忠軍三万八千が加わり、家康が勝つというものだ。
散々、ニンジン配りの起請文を配った家康は、好転せぬ戦局に業を煮やして、桃配り山から前線へ前進していた。そこへ、横っ腹から小早川軍が攻め来たれば、いかに野戦の巧者といえども、動転し慌てふためき、総崩れになること必死ではないか。
脇坂ら小さな四軍も、同一行動を取るだろう。
無事、易々と退却できるという想定が理解しがたい。
何事もなかったかのような一週間後の再戦、徳川方11万5千という想定もおかしい。
敗軍として雪崩を打った勢力が元通りの軍勢をそっくり有しているはずがない。
豊臣恩顧の武将たちでさえ、一度義理を果たしたのだからと離散するのが落ちではないか。
万一の再戦ありとすれども、ほとんど徳川正規軍のみではないか。
松尾山にも登った司会の渡辺佐和子アナ、ご苦労様でした。
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★2016年11月21日に再放送された。これは画期的な番組であった。
改めて、従来の徳川史観に毒されて来た関ヶ原の戦いを、新しい研究に基づいて打破したこの番組の意義に感じ入った。
登場する研究者たちが、フルメンバーに近い。
渡邉アナを南宮山、松尾山に案内したのは、関ヶ原フィールドワークの先駆けの藤井尚夫さん。
毛利輝元が石田三成と密接な関係を築き、反家康の軍事同盟を結んでいたことを明らかにした光成準治さん。
内府違いの条々で、石田毛利連合政権が出来て、公儀性を獲得し、家康が正当性失ったとした白峰旬さん。
新進の桐野作人さん。
新しい関ヶ原研究の先鞭をつけた笠谷和比古さん。関ヶ原の勝利を豊臣恩顧の武将たちに負わざるを得ず、関ヶ原合戦後も一片に徳川支配体制になったわけではなく、豊臣、徳川の二重公儀性が続いていたことを明らかにした。
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