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・フィル・クラーク
通算470試合、打率.305、93本塁打、打点324、のクラーク内野手が自由契約 「今年はケガで迷惑をかけたが、素晴らしい仲間とプレーできた。日本のファン の声援も忘れないよ」 右手骨折のリハビリ中で再出発は未定 ・鈴木貴久 通算1501試合、打率.257、192本塁打、657打点の鈴木外野手が任意引退 「あと一歩でリーグ優勝を逃した88年10月19日のロッテとのダブルヘッダー。 みんな泣きながら守っていた」 近鉄2軍打撃コーチの就任。豪快なスイングを後輩に伝授し「いてまえ打線」 復活を目指す。 ・高島徹捕手 ・品田操士投手 ♪近鉄バファローズ191冊のスクラップブック 昭和63年〜 (SINCE1988)
一発アクセスは『191冊』で検索が便利です!! スクラップブックに貼り付けたデータはスポーツニッポン、日刊スポーツ、
サンケイスポーツ、読売新聞を使用していますが、スクラップの時期が 古いため正確な引用先は表示できません。 ☆パソコンでお悩みの方!「あなたの街のパソコン家庭教師」がお手伝い致します。
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平成12年
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上司が部下に自らの信任を問う。こんな前代未聞の出来事がプロ野球界にあった。
1966年(昭和41)10月16日、当時半球の監督だった西本幸雄は西宮球場での 秋季練習後、コーチ7人、選手39人を2回会議室に集め、バラ紙を全員に配った。 「これからもオレと一緒に野球をやろうと思うものは○、そうでない者は×を書いてくれ」
突然の監督の申し出に、ほとんどの者は戸惑った。短いどよめきのあと、ある者は 一人で黙考、またある者は仲間となにやら相談をする。十数分間の後、バラ紙は 回収された。結果はどうだったか。46人中、×が4票、白票が7票。46人中、はっきり 「ノー」を突きつけたのはわずか4人だった。だが西本は白票7も不信任と受け止めた。 「膨らんでいた風船がしぼんでいくようやった」あとで西本は、その時の心境をこう語っている。 「よし、分かった、オレは辞める。これまでいろいろ世話になった」部屋を出ようとする西本を、
ヘッドコーチ・青田昇(故人)が必死に止めようとする。 「ニシさん、何をいいだすんや。もう一度、考え直してくれ」。だが顔を真っ赤にした 西本に、その言葉は耳に入らなかった。 ♪近鉄バファローズ191冊のスクラップブック 昭和63年〜 (SINCE1988) 一発アクセスは『191冊』で検索が便利です!! スクラップブックに貼り付けたデータはスポーツニッポン、日刊スポーツ、
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当時のプロ野球選手会の会長だった岡田彰布が後日明かした。
「実は阪神大震災の日に、選手会と野茂側とが大阪の国際ホテルで話し合う ことになっていたんです。野茂からの申し入れで、僕から弾野村氏に大リーグ 入りの断って欲しいという内容でした。野茂は大リーグなど行きたくないと ボクに言ってましたね。大震災のため、野茂や団氏らが東京から来られなく なり、会談が流れ、そのあとはなし崩しに近鉄退団が決まったわけですが、 もしあの地震がなかったら、野茂の大リーグ入りはなかったわけです。」 事実は小説より奇なりと言うが、このショッキングな話から判断できるのは、
この時点での野茂は決して大リーグ入りを望んでいなかったという事実だ。野茂の 大リーグ入りの経緯を振り返ると、予測不能の「流れ」に翻弄された感が強い。 顛末はともかく、その後の野茂のメジャーでの大活躍は、日本中を沸かせ、 大リーグを夢見る多くの後進に道を開いた。事実、オリックス・長谷川、ロッテ・伊良部、 横浜・佐々木、そして今回イチローと「今後はボクが・・・」と野茂に続き、メジャーで 活躍している。 その意味では、野茂は日米球界の「橋渡し役」となった功労者と言えるだろう。
ただし、野茂の晴れやかな成功の陰に泣いた人たちがいたことを忘れられない。 エースに無償で退団され、まけにその後の処理を巡って、球界から集中砲火を 浴びた近鉄球団の関係者である。球団の功労者だった当時の前田代表が辞任に 追い込まれるなど、球団側はさんざんな目に遭った。 もし、近鉄サイドが、野茂の大リーグ行きをあくまでも拒否していたなら、問題は 収拾がつかず、野茂は日米いずれのユニフォームも着られずに、引退を余儀なく されていたということも忘れてはなrない。 ♪近鉄バファローズ191冊のスクラップブック 昭和63年〜 (SINCE1988)
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1988年10月19日、ところどころに錆びの浮かんだ川崎球場のバックネット
をはさんで「2つのドラマ」が同時進行した。 グラウンドでは優勝のかかった近鉄がロッテと球史に残る名勝負を繰り広げ、 ネット裏では「阪急身売り」の衝撃波が記者席を揺らした。 世に伝えられる「10.19川崎劇場」−。パ・リーグの一番長い日はこうだった。 ******** 正午前に阪急身売りのニュースが飛び込んできたが、”裏”が取れない。 午後3時に始まった第一試合は、中盤までロッテのペースで進み、7回を 終わって1-3。近鉄の敗色は濃厚だった。 試合途中に「阪急が午後5時から大阪・梅田の新阪急ホテルで球団譲渡に 関する発表を行う」ことが明らかになり、近鉄の優勝に備えて動員されていた 各社の担当者はひとり、またひとりと記者席から姿を消した。 彼らには帰阪後、阪急・上田監督宅などへの夜討ちの仕事が待っていた。 ◇◇◇ グラウンドでは終盤の8回表にドラマの幕が開いた。1死1,2塁から代打の 村上が左翼の金網を直撃する2点2塁打を放って試合を振り出しに戻した。 しかし、第1試合は9回で打ち切り、延長はない。引き分けでも優勝を逃す 近鉄は土壇場で執念を見せた。9回2死2塁から代打の梨田が決勝中前打、 スタンドを狂喜乱舞させた。奇跡に望みをつなぐ近鉄の逆転勝利だ。 20数分後の午後6時44分、第2試合が始まった。 ◇◇◇ 川崎球場のゲームが佳境に差し掛かった10時過ぎ、上田監督宅の客間は 各社の記者ですし詰め状態だった。テレビにはロッテ-近鉄戦が映し出され、 8回裏に阿波野が高沢に同点ホームランを浴びると、大きなため息が漏れた。 近鉄の優勝が消滅した瞬間、上田監督は「こんな日に・・・、こんな日に 発表しなくてもよかったのに・・・」とうめいた。 ♪近鉄バファローズ191冊のスクラップブック 昭和63年〜 (SINCE1988)
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決勝戦唯一の延長18回引き分け再試合の激闘は4時間16分、太田幸司、
井上明の投手戦だった。 延長15回裏、三沢1死2,3塁に松山商は満塁策。打者・立花にはスクイズ 軽快で3球外してカウント0-3。押し出しの好機に井上は踏ん張り2-3からの ゴロを井上が弾き遊撃前へ。これを種野が好守備、好送球で本塁封殺し ピンチ脱出。続く16回も三沢1死1,3塁に満塁策。高田が2-2から3バントスクイズ するも空振り三振、併殺でサヨナラ機は去った。みちのく初の大旗に最も 近づいた瞬間だった。 ♪近鉄バファローズ191冊のスクラップブック 昭和63年〜 (SINCE1988)
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