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俳句に学ぶ
二〇〇八年の春先から秋にかけて「栄中日文化センター俳句教室 俳句を楽しむ・中級コース」に入会していた。指導は寺島初巳先生であった。毎月第一週、三週に開催されて、句会の形式をとっていた。句会の後、寺島先生の講評、指導を受けた。
俳句については若干の自信があったので初級ではなく中級から入門した。けれども句会に出席するのは初めてだった。それに十五名の門人達はいずれも初級コースを卒業した俳句のベテランだった。私を除いて全員六十五歳以上、第一線を退いた大先輩ばかりで、中には某市が主催する俳句会で最優秀賞を受賞した女流俳人もいた。私は五〇歳になったばかりの若輩ものである。
初めて出席してプリントを受け取った。そこには課題となる季語が一年分記載されており、毎回その季語を使って十句創作してこなければならない。
「やっぱり初級から入るべきだったか」
後悔しても始まらない。
「せっかく入門したんだで、やめやぁすなよ」
その女流俳人から初日が終わってすぐに、優しくも厳しい一言を頂いた。
私は初めての句会で、大いに緊張した。けれども先生の評価はそれ程低くはなかった。
「若いのにいい句を読むね、お世辞じゃないよ」と褒めてくれた。
私の創った俳句を初めて読んでいただき、先生の句に対する解釈を聞き、その才学博通に感動すら覚えた。
しかし、それからの二週間は悪戦苦闘の日々であった。俳句を創作するということがいかに難しいかということを痛感した。ゆえに芭蕉、一茶、蕪村、子規など古今の俳人達の偉大さを知ることにもなった。悪戦苦闘はしたけれども、極めて有意義な体験をすることができた。
当然のことながら、私以外の先輩会員さん達は、私が作ってくる句よりはるかに「味のある」句を作ってこられた。当時は口惜しくて、
「これは年齢による感性の差、経験の差に違いない」
などと、生意気な考えを持ったものだ。
基本が出来ていない。浮かんでくる句は無味乾燥。語彙も貧しくて脆弱である。
なんといっても二週間で十句作るために精一杯。当然だ。歳時記も購入していなかった。これは最低だ。当たり前だが句会では撰ばれなかった。
立夏過ぎ雑踏に咲く素足かな
自分ではいい出来だと思っていた。
しかし、先生から鋭い指摘を受けた。
「これは季語が重なっているね。立夏も素足も夏の季語だよ。ちゃんと歳時記を読まないとダメだよ。まあ、雰囲気はわかるけどね」
穴があったら入りたかった。
それからはちゃんと歳時記も購入し、よく読んで、広辞苑も大枚を叩いて購入し、両方と「にらめっこ」しながら句会に臨んだ。
それ以来、この年齢になって恥ずかしいが、季語は単なる俳句において季節を示唆する語というだけではない、江戸時代、いやそれ以前からの日本の生活習慣、天文、気象、動植物、人間関係、宗教、儀式などと深く結びついているということを知った。
そればかりではない。季語は日々増殖して、現代社会の習慣の変化とも深く結びついていることにも気付いた。
初蛍懐かし響くショパンかな
大夏野雪解け美味し伊吹山
土起し跳ねる蚯蚓 ( みみず )に詫び入れぬ
この三句は寺島先生から褒められた。
「どっかに出してもいいと思うよ、某雑誌ならいいかもしれんよ」
だが句会では全く評価されていないようで、選んでくれる人は誰もいなかった。だから投稿するのは差し控えた。
素足かな久屋通りに咲き乱れ
今年は例年に比べ二週間ほど早く梅雨が明けた。
名古屋のメインストリート広小路が職場近くを東西に走る。新しい店が建ち並び、テレビ塔を中心に南北に走る久屋大通り。
闊歩する若い女性達は長く、美しい脚線を惜しげもなく披露している。白くて輝く素足が眩しい。私のような中高年は見たいような、見てはいけないような複雑な心境になる。
それにしても毎年、真夏の気温は上がって来ているように感じる。私が子供の頃はもっと暑さが優しいもののようだった気がする。
オフィスでのパソコンの普及、電子機器を守るために冷やさなければならない。そのためにエアコンが普及し、家庭でも当然のように稼働するようになった。学校にだって今はエアコンが設置してあるらしい。
日本全体とは言わないが、都市部の気温は、私が子供の頃よりもおそらく上がっているのだろう。温暖化するのも無理はない。
霍乱 (かくらん)や歩いて栄 ( さかえ )広小路 ( ひろこうじ )
毎日という訳にはいかないが、会社帰りに栄から広小路を名古屋駅まで、汗びっしょりになりながら歩くことがある。およそ三十分。
名古屋駅の手前に「うな善」という割烹が見えてくる。
ここの蒲焼は私の母方の祖父がお気に入りであった。私は入ったことがない。
「うな善の蒲焼はよぉ、関東風で柔らかいでよ、わしは大好きだ。名古屋ではあそこが一番だわ」
亡くなる直前に見舞いに行ったとき、土用の丑の日には「うな善」へ行きたいとせがんだ。しかし、胃がんに侵されている祖父は「うな善」に行くことも、蒲焼を食すことも、残念だができないで亡くなった。
「一回は連れてきたかったなあ」
祖父にとっては初孫であった私を特別可愛がってくれた。俳句が好きになったのも祖父の影響がある。小学校五年生ぐらいのときから五七五と簡単な季語を教えてもらった。
社会人になったんだから、お礼に一度は奢ってあげたかった。年に数回帰省する時ぐらい「祖父孝行」をすべきであった。夏は必ず帰省していたのだから。
「いい句を創るようになったがやぁ」
きっと褒めてくれたに違いない。「うな善」の蒲焼を旨そうに食べる祖父が目に浮かぶ。
食べさせぬ妻の威勢や土用入
私はバブルの頃の贅沢な食生活、浴びるほどの飲酒と慢性的な運動不足が祟って、肥満体質になってしまった。
バブルの最中であった独身時代、群馬で「夜の蝶」を追っかけて、ムダ金を使っている場合ではなかった。美味いもの、旨い酒を探して飛び回る「働き蜂」になって、高崎、前橋の飲み屋街ばかりでなく、伊香保、草津、水上、磯部など温泉街を飛び回っていた。
接待ゴルフでは痩せる訳がない。
そんなことをしている間に肥満になってしまった。掛かりつけのドクターからも高カロリーの食べ物は止められている。
甘酒を勧める妻の繰り返し
「夏バテには蒲焼きもいいけど、甘酒も暑気払いによく飲まれたものなんですよ」
甘酒が夏の季語だとは寺島先生に教えていただくまで、冬の季語だと信じ込んでいた。真夏の暑い時期に飲むものではないと思い込んでいた。江戸時代から夏の暑気払いとして飲まれていたとは、全く知らなかった。それを妻に知らせると、暑いのに熱い甘酒を飲ませるようになった。汗を吹き出しながら、
ふうふうと甘酒美味しとやせ我慢。
「俳句を楽しむ」という講座から、俳句の奥深さ、面白さを心から味わうことができるようになった。特に季語については、将来の日本に残して行かなければならない言葉だということを痛感した。
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大変参考になりました。ありがとうございます。
2012/5/4(金) 午後 0:49 [ rik**onk* ]