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蘇る 国定 ( くにさだ ) 忠 ( ちゅう ) 治 ( )
「忠治へのレクイエム」
二〇一〇年の八月半ば、私の脳裏に
「国定忠治」
その名前が、何の前触れもなく浮かんだ。
「ちょいと、調べてみなよ、俺のことをよ」
忠治のそんな声が聞こえてきたようだった。妻の実家の群馬県吾妻郡に里帰りしていた時だった。ふと、書棚に目をやると、分厚い、立派なケースに入った「群馬県の歴史」という本が目に入った。
「義父さん、この本借りていいですか?」
「ん?そんな本あったんかい?いいよ、どうせ誰も読みゃしねぇだんべぇ」
私が外資系医薬品メーカーのプロパーとして群馬県に赴任し、群馬町のアパートに住んでいたころ、そこの大家さんが、
「国定忠治は『長岡』っていうのが本名だいね」と、教えてくれたのを思い出した。
早速本を繰ってみようと、その本を取りだすと、埃にまみれて、おそらく一度も開いた形跡がなかった。
上州という国は米作には向いていない土地で、古くから養蚕業で発達した土地だった。それに湯治場となる草津や伊香保などの温泉に恵まれ、人、物、金の流動が激しい土地柄でもあった。自然、賭場が各地に開かれ、博徒が集まってくる。そんな中で忠治は育った、というような紹介がされていた。「群馬県の歴史」によると、二ページだけだったが「忠治と栄五郎」という見出しで、「上州が生んだ大親分」と解説してあった。処刑されたときからの推定のようだが、彼は一八一〇年に生まれている。つまり、二〇一〇年は「国定忠治生誕二〇〇年」に当たる年だった。ポーランドの生んだ大作曲家ショパンと同い年ということになる。
だが、考えてみるとかつては浪曲、大衆演劇、映画に登場した「実在のヒーロー」なのに、いつごろからか、全く耳にすることもなく、目にすることもなくなった。現に私が所有する「詳説 日本史研究 笠原一男著 山川出版」にも吉川弘文社の「日本史年表・地図」にも国定忠治、という人名は出てこない。
名古屋に帰ってから、三省堂に行けば特集コーナーができているだろうと、行ってみると、「坂本竜馬」と「ドラッカー」の特別コーナーはあったが、記念の年だというのに「国定忠治」のことなど、どこにもない。このままでは「こくていただはる」と読まれ、日本の歴史上の人物から消え去っていくような気がする。
その足で県立図書館まで行った。検索してみると、笹沢佐保「私説 国定忠治」、津本陽「国定忠治」、高橋敏「国定忠治」が見つかった。すぐ借りた。
ついでだから、オーディオ・ビデオ室に寄ってみると、
「新国劇 極付 国定忠治」というDVDがあった。これも借りた。新国劇六〇周年記念、一九八〇年読売ホールでの録画だった。NHKエンタープライズのDVDだ。二〇〇八年発売とある。
国定忠治に辰巳柳太郎、目明しの川田屋惣次に島田正吾、信州の女郎屋で十手取り縄を持つ「二足の草鞋」を履く山形屋籐造に緒方拳という配役。
第一幕は飢饉に苦しむ農民に代わって悪代官を切った忠治達は、赤城天神山に隠れ、関東八州取締役捕り方とにらみ合っている。そこへ、忠治の妾の親でもあり捕り方の頭、川田屋惣次が、忠治を捕縛するため上ってくる。忠治一家の参謀「日光の円蔵」は、忠治一家は今宵限り山を下りみんなちってしまいますから、忠治を御縄にするのはご容赦ください、と惣次を説得する。
惣次は娘可愛さに忠治を捕縛することができない。円蔵の提案を聞き入れ赤城山を下りる。そして、国定忠治の名台詞、
「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨てを捨て、可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになる門出だ。」
「小松五郎吉兼が鍛え、万年溜の雪水に清めて。おれにゃ生涯てめぇという、強ぇ味方があったのだ」
記憶のどこかにあったが、本物を観たのは初めてだった。
辰巳柳太郎のセリフは力強く迫力がある。しかし、「国定忠治」を伝説化した「子分達」を心底慕う優しさと、義理を思う博徒ならではの切なさがにじみ出ていた。何度も観ては感激した。
DVDを観終わると、笹沢佐保、檀一雄、津本陽、高橋敏と、間髪を入れずに読破した。生意気だが、笹沢佐保さんの小説が一番小説らしく面白かった。高橋敏さんは群馬大学にも赴任していた歴史学者だ。これも非常に面白かった。高橋敏さんの「国定忠治」は岩波新書で七六〇円だったので、取り寄せた。
私はいつしか「国定忠治」の生涯とその周辺に深い関心を抱き、インターネットで調べた。上毛新聞社が出版している「上毛風」という雑誌の昨年三月発行の本に忠治を特集した記事が載っているというので、早速取り寄せた。
とにかく面白かった。忠治には「友蔵」という弟がいた。その子孫が群馬県にいらっしゃる。長岡という苗字だった。市町村合併による新「伊勢崎市」の町興しの目玉にしようとしている。
田崎早雲という幕末から明治に活躍した画家が描いた国定忠治の肖像が上毛風に載っていた。やや肥満した体躯だが片膝を立て、ぐっと引き締まった口元、向かって左を睨みつけている。冷酷な眼差しだ。
「俺は許しても、こいつが許さねぇ」
そんなドスの効いた忠治の声が聞えて来るようだ。
ところで、世に出ている小説は、天保の改革で有名な水野忠邦の官僚で、関東八州取締役にもなった、羽倉外記という人物が忠治亡きあと著した「劇盗忠二小伝」を取り入れている。忠治の行った犯罪についても、詳細に述べてあるが、忠治が行った飢饉を救った記事に私は目が行った。
羽倉外記が飢饉の現状を見回りに行った時、
「土地の者がいうに、赤城の山に賊がいる。忠治という。忠治は私財を投じて苦しむ民を救ったという。私は恥ずかしさのあまり、赤面し冷や汗が出て穴があったら入りたい気持ちになった」と彼は記している。
博徒の親分、しかも「指名手配」を受けている「犯人」にこんなことされては、さすがに面目丸つぶれだったろう。
しかし、伝承ではあるが隣村の村の田部井村で大々的な賭場を開き、その上がりで、田部井村の名主宇衛門と協力して「磯沼」の浚渫までした。そして村々は旱魃の危機から救われた。国定忠治の縄張りであった赤城山麓の国定村や田部井村などでは食に窮するものは全く居なかったと言われている。彼は天保の大飢饉に米や銭を与えて救済したばかりではなく、さらに人々の生活、暮らしに必要な生活基盤の充実に力を注いだという。
こういったところが「義民、義盗」と呼ばれる所以ではないか。事実百姓に忠治の味方が多かったようだ。忠治一家に関東八州取締捕り方の動向を逐一報告していた、という伝承も残っている。
だが、彼ら博徒の敵討のやり方が恐ろしい。木に身体を後ろ手につりさげて、まず肋骨と骨盤の間を切り落とし、バランスが崩れたと同時に首を切る。「三段切り」にして利根川に放り投げた、というのだ。本当にそんなことができたのだろうか。想像しただけでも身の毛がよだつ風景だ。
忠治は関東八州取締役の追手から逃れるため、妾の「お町」、「お徳」の家に隠れていた。
ところが彼は「お町」の兄、嘉藤次の家で酒を飲み、彼女と寝ている時に脳卒中を起こしている。子分と弟の友蔵が相談して、「お町」の兄、嘉藤次の家は狭くて見つかり易いので、「お徳」の家に運ぶと、「お徳」は「お町」の家で発病したことを知り、忠治を追い出してしまう。彼女の気持ちはよくわかる。結局、名主の宇右衛門の蔵屋敷で匿い、療養させることにした。しかし、そこを関東八州取締役達に急襲され、嘉永三年、一八五〇年八月二十四日捕縛された。
一旦江戸送りになり、取り調べを受けた忠治。彼の罪状は多種多様であったが、信州と上州の国境「大戸の関所」を破ったことが、最大の罪状だった。そのため「関所破り」の罪で磔刑が言いたされた。
嘉永三年、一八五〇年十二月二十一日十時ごろ、いよいよ磔にされた忠治に槍が向けられた時、
「まあ待ちねえ、お役人方に御礼を申し上げねば。手前儀、悪党いたしやして、国の見せしめになってご成敗と決まり有難うござんす。お陰様で小伝馬町牢内でも身持ち大切にできやして、かように天下のご法にかなうことに相成り、天にも昇る喜びにござんす。」(国定忠治 高橋敏 岩波新書より)
と言い残し、千五百人の大観衆の前で十三度槍を突かれ絶命した。数え年四十一歳であった。
彼は入獄して以来気力体力の保持に努め、御蔭様で本日ここにお上の御用に立つことができてこの上なく嬉しい、といって槍を受けたのである。これほどお上に対し皮肉な挨拶はなかろう。
遺体はその日のうちに何者かによって持ち去られている。
二〇一〇年は「国定忠治生誕二〇〇年」、そして「没後一六〇年」の節目の年であった。
実在の人物であり、映画も六〇本近く制作されたらしい。ところが昭和三十年以降、まったく制作されなくなり、若い人に「国定忠治」といっても知っている人は居なくなりつつある。いや、知っている人は見当たらなくなっている。清水次郎長は知られていても、国定忠治を知っている人は皆無に近いだろう。国定忠治は完全なアウトロー的存在であり、磔刑に処せられた悪人として一生を終えている。
彼は関東取締役にも取り入らないし、磔刑ときまったら、それを立派に遂行させるように、牢内ではベストコンディションで保とうと努力したという。彼の真面目な性格を知ることのできる逸話である。
「国定忠治」について詳しく、学術的に研究された高橋先生によれば、
「国定忠治は江戸後期の上州の社会を映す一つの鏡であった。例えば養蚕業や農村社会、寺子屋、地芝居、教育文化といったところに国定忠治が絡んでくる場面があった」という。江戸時代後期の豊かな農村社会とアウトローの関係を国定忠治の生き様が浮き彫りにしてくれる。彼が護送されるときに、まるで歌舞伎舞台を思わせる衣装も上州の絹文化の高さをうかがい知ることができる。
しかし、この事実を認識し思い起こしたのは、地元群馬県の一部の人に限られてしまった。多くの現代日本人には馴染みの薄い人物になってしまった。これは果たしてどういうことなのだろうか。日本の歴史上のヒーローは坂本龍馬、赤穂浪士、新撰組、徳川家康、豊臣秀吉、織田信長などが永遠に残っていくのか、あるいはウルトラマン、スーパーマンといった新しいヒーローにとって変わられていたのでいったのであろうか。
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